外伝8 疾駆鳥
いつだったか、アスレイドが言った。いい茶葉を手に入れたのなら、それなりの淹れ方があると。それはどの植物でも同じだと。諭すように話していたのと同じ顔で、湯気の立つ土瓶を傾けている。ノインからしてみれば、喉を通ればどれも同じなように思うが、この時のアスレイドに余計なことを言う気になれず、ノインは黙ってその所作を追っていた。少し遅れて乾燥した葉が立てる香りが鼻孔を擽る。すぐにでも口にしたいのに、火傷する熱さの湯がそれを阻む。ああ、なんてじれったい。それでも、アスレイドの機嫌が上向いているのは悪い気分ではなかった。
芽吹きの季を迎えてから、中枢の市場に並ぶ品物が増えた。二人連れだって買い物に出れば、あれやこれやと手に取りながら持ち帰る。ノインが香辛料で講釈を垂れる時もあれば、アスレイドが茶葉について蘊蓄を傾ける。互いのこだわりを理解しあえることはないが、市場を背にする頃には二人して満足そうに手に品を持っている。そんな穏やかな日常を繰り返していた。
「どうぞ。熱いから、気を付けて」
ノインの席に、柔らかい赤味を帯びた茶が注がれたカップが静かに置かれる。こだわりのある男が淹れた茶は、味の分からないノインでも自然と杯を傾けてしまう。だからこそ短く礼を告げると、取っ手に指をかけ少しずつ喉に流す。そんな様子を、アスレイドの翠色の瞳が見つめている。それを知らない素振りで、ノインはゆったりとした時間を楽しんでいた。
穏やかな朝の始まりを破ったのは、聖堂から聞こえたドアベルの音だった。そして、無遠慮な靴の音。許可を取る気のない足取りを思うと、ノインはカップの隙間から小さくため息を漏らす。
勢いよく開かれた居室のドアの向こうには、肩で息をする男の姿があった。
「アス! ノイン! 頼みがある!」
聞くとは言っていないのに、どうやら既に耳を傾けることは必然となっているようだ。真っすぐな土色の瞳は、焦りと高揚の色をありありと湛えていて、ノインは眩しさとわずらわしさで瞳を細めた。
「おはようレヴィン。茶を淹れたところだけど、飲むかい?」
「それどころじゃねえんだ! ノイン、俺と来てくれ!」
「嫌だ」
間髪入れず言い切ると、アスレイドの茶をゆっくりと喉へ流す。この男の話を聞くのより、目前の茶を楽しむ方がよほど有益だ。
レヴィンは両手を合わせて拝むような仕草を見せると、深々と頭を下げて見せる。
「東でよ! 疾駆鳥の群れを見たんだ! あれを食いてえ!」
「……話を聞くとは言ってねえ」
アスレイドといえば、茶を断られたことに心なしかがっかりしているように見えた。促す前に話し始めたレヴィンに、ノインはじっとりとした視線を向ける。帽子のつばから覗く瞳は、今にも大粒の涙を零しそうなほどに揺れていた。
「……極上の珍味と言われてる疾駆鳥の軟骨、胸や腿、内臓も処理をちゃんとすればどこも食えるっていうのによお。酒に合うって話じゃねえか」
食べたことがない割に、知識だけはあるようで。ノインは眉間の皺を更に深くした。嫌な予感を覚えながらアスレイドをちらりと見ると、ある言葉に反応したのか翠色の瞳に静かな光を湛えていた。
「酒に合うのかい、それは食べてみたい」
「だろ!? やっぱアスは話が分かる!」
「でも、僕はしばらくここから離れられなくて。宣託者の行事が立て込んでいてね。こうしてゆっくり茶を堪能できるのも今日くらいだ」
「だからノインを借りに来たんだ、頼むよお」
当事者そっちのけで会話を弾ませる二人を冷めた瞳で見つめる。カップの中の茶はとうにすべて喉の奥に流れていた。
疾駆鳥。東の草原を駆ける大型の鳥類。飛ぶことはなく、ただひたすらに地を走ると聞くが、ノイン自身は見たことがない。
ただ、東にいた頃、年長の男たちが夜更けに酒を囲みながらその名を口にしていたのは覚えている。運よく仕留めた日には、骨までしゃぶる宴になるのだと。
火に炙った軟骨がぱちぱちと鳴る音。濃い酒の匂い。笑い声。
子どもだったノインはその輪に入れず、少し離れたところから眺めていただけだった。
だから、目の前の男が言うほどのものなのか、正直なところよく分からない。
遠い記憶を一人なぞっていると、いつの間にか二人の男の視線が注がれているのに気付く。レヴィンはともかく、アスレイドの瞳に期待のような感情を見てしまうと、ノインは何も言えなくなる。それに、あの頃口にすることができなかった肉の味を知ることができるのは悪い話ではない。
「……分かったよ行きゃあいいんだろ行きゃあ」
大仰に溜息をついて、苔色のケープと白籠手を腕に巻き付けると、にこにこと聖堂の門で見送るアスレイドの笑顔を背に、二人は東に向かって歩き出す。
視界に広がる色が緑色に変わった頃合いで、ノインは全身から上機嫌を醸し出している男に溜息交じりに言葉を吐いた。
「……あんたの狙いは、ただ、肉じゃねえんだろ」
風に揺られて外套を揺らす男は、その言葉を聞いてにいと口元を歪める。
「やっぱばれてたか。俺の狙いは疾駆鳥の首の肉よ」
疾駆鳥は、肉だけでなくすべてに価値がある。可食部位である引き締まった肉は、内臓を含めてどこを食べてもいいと評されるほどだ。飛ぶのではなく走ることを選んだ羽毛は、軽さの代わりに陸の風を切る強靭さを身に付け、中枢の警備隊に評判がよい。太い骨は様々なものに加工され、その名に恥じない捕らえにくさから、勲章として剥製にされることもある。彼らは東の地を長い脚で踏み鳴らし、どこまでも草原を駆けていく。
レヴィンのいう首の肉。それは、ノインも一度だけ大人達から聞いたことがあった。
火にかければ脂が甘く、酒に合わせれば底が見えなくなる。そして何より、妙な精力が付くのだと。
翌朝、女たちの白い眼など気にも留めず、昨夜の男たちが揃って南へ向かうのを、ノインは見ている。子どもだったノインには理由までは分からなかったが。
ノインは目の前の男をじろりと見やる。
「……なるほどな」
つまり、そういうことだろう。
察せられたレヴィンはやはり人懐こい笑顔を向けて、歩みを進める。
薫風に煽られる青葉が膝をくすぐる。疾駆鳥の群れを見たと聞いた辺りに向かう中、ノインは先を歩くレヴィンを後ろから制止した。
「おっさん、あれは疾駆鳥の砂浴び跡だ」
前方を指差すと、草が無残に踏みつけられ、ぐにゃりと地に倒されている箇所がある。地面にめり込んだ青草は、乱雑に砂に塗れ、地面にぽっかりと穴を開けていた。目を凝らしてみれば同じような窪みが点在しており、ノインは腰を下ろして砂を絡めた草を指先でなぞる。
「……潰されて間もねえな。さっきまでこの辺にいたんだろ」
その様子を見ていたレヴィンが、振り向かなくても喜色を浮かべているのが背中越しに伝わる。
「ほんとか!? くーっ、楽しみじゃねえか、頼むぜノイン先生!」
「……俺だって狩るのは初めてだよ」
疾駆鳥は群れで走る。その速さは、到底追いつくことはできない。だからこそ狩るときは、多くの人員が必要だった。あの頃だって男達を団結させていたのは、その美味と性への渇望からだ。
人数さえいれば、誘導して罠にかけることもできるだろうが、こちらは二人。その内一人は、東の者ではない。ノインもまた、ウィルナの祝福を失って随分久しい。戦略など、ありはしない。
妙案が思い浮かばず、地平線へと伸びる青草を眺めていたノインの鼓膜が、意志の風とは異なる音を聞いた。素早く首を音のした方に向けると、遠くの方で砂埃を立てながら揺れる影の群れが見えた。
「……疾駆鳥だ!」
風が激しく揺れている。影に押し潰されていく若草は、無残にも折られて地へ踏み潰されていく。巨大な生き物が、草原という皮膚の中で脈動しているような。黒褐色の影が地を裂くように駆け抜ける。
長く蛇のようにしなる首の、先端に乗る小さな頭部の両側で、濁った双眸が金色に煌めく。瞳孔は細く、横に裂けた形の瞳は、光を受けると風切り刃のように光る。
彼らは一度だけ低く鳴いた。
腹の奥で響くような、鈍い振動だった。太鼓を遠くで打ったような音が、荒地の地面を伝ってくる。
これが、東で獲物として追われる鳥。疾駆鳥である。
次の瞬間、その巨大な体が嘘のような速さで地を蹴り、一直線に草原を裂いて横切るように曲がることなく走っていく。
「よぉっしゃあ! 俺が追う!」
そう言って飛び出して行ったはいいが、前に出した脚を後ろに蹴る頃には、疾駆鳥の姿はすでに握り拳ほどの大きさになっていた。
「……馬鹿か」
落ち込む暇もなく、動きを止めたレヴィンの背後から心底呆れた声が自然に漏れた。ノインは砂浴びの跡をもう一度指先でなぞると、ゆっくりと立ち上がる。
「追うのは無理だ」
草原を見渡す。視界の端に、絶望に染まった男の顔が振り向くのが見えたが見えなかったことにする。
「けど、群れだ」
ノインの視線は、既に影もなくなった遠方へと向けられていた。地面には、青草が球を転がしたような真っすぐな跡を残している。レヴィンが、眉を上げた。
「砂浴びだ。あいつら、同じ場所に戻ってくる」
顎先で少し離れた草場を指す。離れろと言う意味だった。穏やかな風が響く草原で男が二人、青草に紛れながら身体を伏せる。ノインの耳は、微かな地の揺れや風切りの音を捉えようとしているのに対し、隣の男はそわそわと落ち着かない。レヴィンが立てる微かな振動を意識の外に追いやりながら、ノインは再び彼らが来るのを待つ。
そうしてどのくらい経っただろうか。陽の光が背を焼き始めた頃、ノインが鋭くレヴィンを制し、更に頭を低く下げる。遠くから地を踏み鳴らす音が聞こえる。戻ってきた音だった。
滝から威勢よく水が流れるような、大槌で地を打ち鳴らす音を響かせながら、疾駆鳥の群れが塊になって草を踏んでくる。
人の胸ほどの高さの胴体に、異様に長い脚が二本。羽毛は柔らかさを感じさせず、煤を含んだような灰黒色で、風に揺れるたび骨の輪郭が透けて見える。飛ぶための翼はほとんど退化しており、体の横で短く束ねられた羽が、威嚇する時だけ棘のように広がる。
脚は鳥のものとは思えないほど太く、関節が高く持ち上がり、走るたびに石を弾く。中央の指は異様に長く、鉤のような爪が地面を削り、砂ではなく礫を散らしていた。
その黒い風は、先ほどまで砂浴びをしていた地点を目指して真っすぐに駆けてくる。示し合わせたように穴に近付くにつれて、その速度が徐々に落ちていく。やがてそれぞれの疾駆鳥が穴に大きな頭を突っ込んでは、巨体を押し付けるようにぐりぐりと身体を揺らした。
ノインは青い瞳をこらして群れを捉えると、群れの中でも個体差があることが分かる。どうやら、若鳥が数羽いるらしい。少しだけ形が小さい若鳥は、群れの中で独り立ちの準備をしているようだ。疾駆鳥の肉は、成長によって可食部位が増えるとしてもそれぞれの部位の特質はさほど変わらない。だから、まだ外敵に不慣れな個体を選びたい。一同背を向けて、砂に身を擦り付けるのに夢中な時間はそれほど長くない。
「おっさん」
隣で今にも飛び出してしまいそうなレヴィンに声を掛ける。向けられた瞳は、解き放たれる契機を今か今かと待ちわびているようだった。
「俺が合図したら、大声上げて飛び出せ」
細かに説明する時間も惜しい。そう言ってノインは、身を屈めたまま疾駆鳥の頭の方へと回る。真正面で穴に頭を突っ込む群れを見据えたところでノインは片手を草よりも高く天に上げた。
「うぉおおおおお!」
それを合図に、伏せていた土色の影が爆発した。レヴィンだ。獲物を前にした飢えた獣のような咆哮が、静かな草原の皮膚を裂く。砂浴びに興ずる疾駆鳥の群れは、色欲まみれの暴力的なまでの音と殺気に、示し合わせたように一斉に地を蹴った。
逃げる。黒い風となって。
だが、その進路はノインが選んだものだ。レヴィンの無鉄砲な突進に追い立てられた群れは、逃げ道を求めてノインが潜む狭い草地へと、塊になって雪崩れ込んでくる。
地響きが、ノインの足元から心臓を揺らす。猛烈な速度で迫る灰黒色の羽毛。その中でも若そうな個体へと視線を固定する。
疾駆鳥の長い脚が、石を弾き、砂を撒き散らしてノインの鼻先を通り過ぎようとした瞬間。
「逃がすかよぉッ!」
横合いから、泥に塗れたレヴィンがその巨体に文字通り食らいついた。鳥の強靭な脚力に振り回され、地面を削りながらも、男は太い腕でその翼の付け根を、骨ごと砕かんばかりの力で締め上げる。
凄まじい絶叫。鳥の濁った金色の瞳が、苦痛に歪んで天を仰ぐ。
「ノイン! 今だ! やれ!」
怒鳴り声に、ノインの身体が思考より先に地を蹴った。白籠手が風を切り、逆手に持った短剣の刃が、午後の陽光を反射して一筋の銀色を描く。
暴れる巨鳥と、それに組み付く男。そのわずかな隙間、血管が拍動する細い首筋へと、吸い込まれるように刃を突き立てる。
かつて、東の大人たちが語っていた、完璧な一撃。抵抗は、驚くほどに短かった。一羽の犠牲を置き去りに、群れは脅威から逃れるために砂埃を上げながら逃げていく。視界が砂で霞む中、短剣を伝って、熱い命の感触が指先にまで伝わってくる。それは、生々しい死の温度だった。刃を伝う拍動が、掌の中で少しずつ小さくなっていく。
やがて辺りが静けさを取り戻した頃、ゆっくりとレヴィンが息絶えた個体を地に置いて、飛び跳ねないばかりに歓喜の声を上げた。ノインもまた、本来では大人数で行う狩りを終えられた達成感で大きく息を吐く。
血抜きのために、二人で巨体を川岸へと運ぶ。前を行く男の足取りは未だ舞い上がったままで、疲労困憊の身体には少しばかり、その眩しさが堪えた。
音もなく流れる清水に巨体の首を晒すと、水面を赤色が流れていく。ノインが手際よく皮と可食部、骨を切り分けていく。太い首にかかったところで、レヴィンのしつこい視線を見ないふりをしながら目当ての部位を切り分けた。
あまりに鬱陶しい目の色に辟易して、血の付いた肉の塊を寄越すと川の水で清めろと指示をする。膝上まで裾を捲った男が、抱えた肉を大事そうに掌で擦りながら、ぽつぽつと話し始めた。
「……前に、南でアスとばったり会ったことがあんだよ」
ノインは、短剣を持つ手をぴたりと止める。沈黙は続きの催促だと受け取ったのか、レヴィンが話を続ける。
「あいつも女連れててな。しかも二人だ。俺は一人で、宿の前でばったりさ。じゃあ、隣同士の部屋になるかもねなんて言って、宿に入ったんだよ」
「俺と終わった後。女がそわそわしてんだよ。俺の部屋の隣から聞こえる声があまりに、あんまりだって言うからよ。俺の連れてた女がごめんて言って、アスがいる部屋に行っちまって。それからはもう、……うう」
ひくりとノインの目がひくついた。別に性欲を否定する訳ではない、ないのだが。目前で辛かったのだろう思い出を切々と語る男を、どんな気持ちで見つめたらよいのか分からない。とどのつまり、男の魅力として負けたのだと敗北の記憶を聞かされて、どう慰めてよいのか言葉が見つからない。そもそも、慰撫を求めているのかも定かではない。
だから、ノインは淡々と短刀を進めるしかなかった。
「……ほら、目当ての部位だ。南に行くなら羽も売れるだろ」
あらかじめ用意していた氷の入った草袋に部位を包むように入れ、羽の付いた皮と少しの肉を持たせた。
硬い羽は装飾に使われ、高値で取引される。これから行われるだろう乱痴気騒ぎの駄賃代わりだとレヴィンに持たせた。硬い骨は中枢へ。体躯を支える骨は、警備隊の武具に拵えられる。大きな嘴は、好事家が剥製にするかもしれない。
「……ノイン、いや、ノイン様……助かったぜ……! お前は俺の神様だ……!」
「やめろよ気色悪い。……それより、肉が腐る前に焼いて食った方がいい。日が暮れる頃には南に着くだろ」
放っておけば拝み始めそうな年上の男を視線で払うと、ノインもまた解体した疾駆鳥の部位を袋に詰めて、肩に乗せた。
文字通りぴょんぴょんと跳ねながら、レヴィンの背中が遠くなっていく。時折こちらを振り向いて、大仰に手を振りながら。その様子を半ば呆れながら眺めて、ノインもまた中枢への帰路に就く。市場で骨と頭部を、それに二人で消費するには多すぎる肉を引き渡すとしばらくは生活に困らないだろう金貨の量と交換された。
軽くなった身体で、灰の聖堂に戻る。居室へ繋がる扉を開くと、そこには夕餉の準備をしているアスレイドの背中が見えた。途端に、張り詰めていた全身の毒気が抜けていく。漏れた声は、自分でも驚くほどに柔らかいものだった。
アスレイドに肉を渡し、用意しておいてもらった香辛料を振りかけていく。鍋の上で火が通っていくのにつれて、室内が香ばしい匂いで満たされていく。焼き上がった若鳥の肉と、用意されていた野菜が皿に盛り付けられて、二人手を合わせて口に運んでいく。その間、いかにレヴィンが足手まといであったかを、ノインは淡々と言い聞かせる。酒と一緒に肉を食むアスレイドは、その話を柔らかい表情で時折相槌を交えて聞いていた。ノインは、レヴィンが最も求めていた部位のことは、彼の名誉のためにも黙っておいた。
食事を終え、湯浴みのために順番で寝室を抜け出した。先に湯を浴びたノインは、ベッドの端に腰かけ一人、昼間の出来事を思い返していた。久しぶりの狩りで、まだ頭の隅では血が沸き立っているのが分かる。かつて傍観する側でしかなかった自分が、成体ではなくても困難とされる種を討ち取った達成感が、ノインの心と体を熱く満たしていた。
あの頃、遠巻きに眺めることしかできなかった男たちの輪。彼らが酒と一緒に喉の奥へと流し込んでいた、あの熱い高揚の正体を、今の自分は確かに知っている。困難とされる種を討ち取ったという熱い充足が、ノインの四肢を芯から震わせていた。傍観者でしかなかったあの頃の自分を、今の自分が追い越していく。その確かな手応えを繋ぎ止めるように、ノインは再び拳に力を込めた。
そんな中、ドアの蝶番が軋む音が鼓膜を叩いた。寝間着をまとった男が、暗闇の中静かに身を滑らせて部屋に入ってくる。金色の髪、ノインより白い肌は、夜の闇すらも、その白さを侵すことはできない。まるで発光体のようだった。
しっとりと濡れた肌のまま、アスレイドの膝がベッドに沈む。間近に迫った緑色の瞳が、ゆらりと揺らいだ。
「……美味しかったよ、ノイン君」
熱の籠った掌が、ノインの頬を柔らかく撫でる。触れたところから内包する熱が伝わってくるようだ。応えるように身体をすり寄せると、アスレイドの腰に腕を回して引き寄せた。
その力に抗うことなく、白い身体がノインの身体に覆いかぶさってくる。衣の隙間から直接素肌に指先が触れると、ふるりと大きく身を震わせた。まだ、指先が触れるか触れないかの距離だというのに、どこか反応が大袈裟だとも思う。
今度は意識して、隆起した胸の筋肉をなだらかな丘に合わせて掌を滑らせる。ノインの首に回った腕が、いたたまれないようにぎゅうと力を込めた。
「ぁ、あ……っ」
切なげに眉を顰めながら、うっとりと甘い吐息が漏れてノインの耳をくすぐった。ねだるように押し付けられた身体に応えるように指の先で胸の頂を掠めると、気をやるような一際大きな嬌声が響いた。
「アスレイド、ちょっと」
何かがおかしい。アスレイドの肩を押し退ける前に、ゆらりと揺れた身体がノインの下腹部へと落ちていく。熱を持った指先で下履きをずり下げると、まだ柔らかいノイン自身を引っ張り出し、唾液をまとった舌を這わせてきた。
「は、ぁ―――っ」
やんわりと握られ、裏の筋を舐め上げられると素直に芯を持ってしまう。大きく膨らんだ部分を、飴を舐めるように口腔で包まれて、思わず腰が引けそうになる。その快感を逃す僅かな抵抗も許さないと、アスレイドの口は強く窄められたままノインの楔を離すことはない。あっという間に先端が喉の奥まで届き、唇の端からは飲み込めなかった唾液と先走りが顎を濡らしている。
貪欲なまでに口淫を続けるアスレイドを、熱に浮かされた瞳で見下ろす。今までもこうして求められることはあったけれど、今夜はとりわけ執拗だ。すする音を立てながら金髪が上下に揺れるのを眺めながら、ノインの霞かかった思考は一つの仮説に辿り着く。
疾駆鳥の首の肉は、精力増強の効能があることは承知している。しかし、本当にその部位だけなのか。もしかしたら、最も効果が高いのは確かに首の部分だが、その他の部位に同じような効果が本当にないのだと言えるのだろうか。それにしてはノインの身体は異様に昂っている訳ではない、普段通りの熱だというのに、どうしてアスレイドだけがこうなってしまっているのか。口にした肉の箇所が違ったのか。そもそも効きやすい体質なのか。考えても快感で浸食された頭ではまともな筋書きが描けない。
だったら、このまま。ノインの両手がやんわりとアスレイドの頭を掴むと、喉を突くように前後に動かした。
「じゅぷ、……っ、ん、ふぅう、んっ、は……っ」
唇で締め付けたまま、幹の付け根から先端の括れまで扱く。金糸に差し込んだ指に自然に力が入り、頭を押さえる。奥へ、もっと奥へ。
荒い息を吐きながらノインはぞくぞくとした快感に身を打ち震えさせていた。アスレイドの両手はベッドに押さえ付けるように、ノインの太腿にそれぞれ置かれている。大きく開いた脚の間で跪く倒錯的な光景に、あっという間に限界まで昇りつめてしまう。
「ぁ、でる、でる、ぁあ……ッ」
一際強く締め付けられたおかげで、言葉が漏れたのと同時にどぷりと吐き出してしまう。一度、二度、三度と先端が膨らんでは精液を喉の奥へと流し込んでしまう。びくり、とアスレイドの身体が弾かれたように震えたが、喉仏が上下する小さな音が吐息の合間を縫って聞こえた気がした。
射精したばかりの気怠さの中で、股座にある男をぼんやりと見つめることしかできない。やがてアスレイドの口がやんわりと緩められ、翠色の瞳を蠱惑的に細めたまま頭上の男を見上げる。緩く弧を描く唇の端からは、飲み込めなかったのだろう白い筋がつうと流れて顎の先からぽとりと滴った。
その表情を見た瞬間、ノインはアスレイドの手を引いて今度こそベッドに沈めた。のしかかるノインの影が、アスレイドの白い肌の上でひどく濃く、光を侵食する汚濁のようにも見える。仰向けになった男が驚きの声を上げるより先に、乱れた衣の隙間に手を差し込んで無遠慮に形をなぞっていく。鎖骨に軽く歯を立て、濡れた舌で胸の筋をなぞり色付いた乳首をころころと転がすと甲高い歓喜の声が上がる。抵抗を許さず組み敷く腕に、あの疾駆鳥をねじ伏せた時と同じ、あるいはそれ以上の万能感を覚えていた。
中途半端に袖を腕に絡ませたまま、ノインの背を掻き抱いてもっととせがんでくる。何も身に付けていない下腹部の、薄い体毛を掻き分け、頭をもたげたアスレイド自身に触れることはせずに更に下の、奥の窄まりへと指先を躍らせていく。
「――っ、ぅ、ふ……っ」
爪先が触れた瞬間、アスレイドの喉から甘い声が漏れた。既に浴室で準備してきたのだろうその箇所からは、身震いに合わせてとろりとオイルが漏れ出てきた。それを指の先で掬うと、塗りたくるようにして縁を拡げていく。ぬめりを帯びたまま中指を沈ませ、目をつぶっていても分かるこりこりとした部分を軽く叩く。
「ぅ、うう、ン、ッ、ぁ、ああ!」
いつもより高く響く嬌声に煽られて、ノインは荒い息を吐きながらいささか性急にもう一本の指を差し込んだ。きゅうきゅうとけなげに締め付けてくる孔を優しく撫でるように体内をかき混ぜると金色の髪がシーツの海の上でぱさぱさと左右に波打った。
「も、もう……やだ、ノインくん……!」
窓から差し込む月光を拾って、翠色の瞳が揺れた。どくん、と直接掴まれたように心臓が鼓動する。
ズボンと下着を脱ぎ捨てると、ノインの下腹部でも雄々しく天を仰ぐ熱茎が飛び出した。触れてもいないのに先端からはだらだらと先走りが漏れ出て、浮き出た血管を濡らしていた。
やはりおかしい。いつもより余計に昂っている。しかしそれは既に大した問題ではなくなっていた。獣のように息を吐きながら、ノインはアスレイドの脚を左右に大きく開くと、その間に身を滑り込ませる。僅かに浮かされた腰に合わせて、赤く熟れた先端を奥の窄まりに押し当てるとゆっくりと身を沈ませる。抵抗もなく飲み込む狭い孔が、太さに合わせて拡がりながら受け入れる様は、まるで涎を垂らして待ち侘びていたかのようにも見えた。
こつ、と結腸まで先が辿り着くと、アスレイドの身体が弾かれたように大きく震えて、自らノインの胸元へと鼻先を擦り付けてきた。
「あ、ああ、ぅ、のい、んくん……っ、すご……」
鎖骨に生暖かい感触が這った。身に余る快感を逃したいのか、アスレイドが伸ばした舌でノインの肌の上を遊んでいた。ぞくぞくとせり上がる感覚に、ノインもまた耐えきれなくなる。アスレイドの腰を掴むと身を引き、思い切り腰を一つ打ち付けた。
「ひぃ、―――っあ……!」
ごつ、と内部を抉る感覚を覚えながら抽送を止めることはできない。肌がぶつかるたび、揺れる陰嚢が打ち付けられるたびに乾いた肌の音が部屋の中に響く。大きく拡がった脚が動きに合わせて揺れている。爪先が宙を切るのを横目に、ノインは奥歯を噛みながら組み敷いた男の被った皮を暴いていく。まるで昼に行った狩りの延長のようだ。神性の皮を破り、その内側にある欲を曝け出す。瑞々しい肉に歯を立て、すべてを喰らいつくしたいと思う。
「は、すっげ……中、いい……?」
とっくに限界は見えていた。それでも、アスレイドを果てさせた後に終わりたいと思うのは意地にも似た思いからだった。突き動かされるたびに、男の臍の辺りに透明な雫が落ちていくのを眺めながら、ノインは瞳を細めようとして歪に笑った。
開かれた翠色の瞳はとろけきっていた。それが許可のように、ノインはひときわ激しく腰を前後に揺らす。
アスレイドの両腕がノインの首の後ろに絡められ、強く引き寄せられる。吐息が絡む距離で、翠色の瞳の奥で欲の炎がゆらいだ。
「い、い……っ、いっぱい、だして……っ」
直接的な物言いに、背筋に甘い痺れが駆け上る。喉の奥で獣のような唸りを鳴らすと、ノインは腰を思い切り奥へと押し込んだ。
闇を裂くような絶叫が、部屋に爛れた熱を帯びさせる。すべてを注ぎ込むように熱芯が肉の輪に包まれて息づくのを感じながら、アスレイドの腹に散った白濁をぼうと眺めていた。
力を失った腕が、ノインの首を離れてシーツを握ると思われた。しかし、熱をもった掌はまだ中を侵食する男の腰を辿ると、ぐいと引き寄せてくる。
熱の幕は、まだ下りない。
後日。聖堂のドアベルが弱々しく鳴った。
ノインは一人、調理台の前で青菜を千切って皿に入れていた。朝食用に果実を摘んでくると言って庭に出ていたアスレイドを待ちながら、鳥の囀りよりも覇気のないその音色を捉えていた。
そして、やはり鈍い音を立てながらドアの向こうから現れたのは。振り向くこともせず、ノインは来訪者に言葉を投げる。
「……どうだったよ、おっさん」
つばの広い帽子から見える顔は、精強さの欠片もない。塩を撒かれた草のような、生気を失ったという形容がぴたりと当てはまるようなものだった。疲れが取れない目の下の色濃い隈、微かに浮き出た頬骨。色味の落ちた唇。長いこと食べ物を口にせず、よろよろと寺院に助けを求めてきた者のようで。どうやら疾駆鳥の脚力に振り回されたのは、草原だけではなかったらしい。
レヴィンは、ノインの姿を見て瞳を細めて見せる。
「ふ、はは……俺は……やりとげたぜ……ノイン……」
まるで今際の際の言葉のようだ。こんな爽やかな朝には到底似つかわしくない。はあ、と大きくため息を吐くと白と黒の髪が朝日を浴びて煌めいた。
「一番の狩人は、誰だったのやら」
誰に聞かせるのでもない呟きの後、竹籠に赤い果実をどっさりと積んだアスレイドが現れて。目前で今にも崩れそうな男の背を見て、にっこりと微笑んだ。