第十五話
夜の気配は、跡形もなく溶けていた。祈りの余熱も、裂け目を繕う糸も、静けさの中に沈んで残っていた。
静かに差し込む光が、床に長い帯を落としている。
寝台の上でアスレイドは、まだ浅い眠りに沈んでいるノインの横顔を見ていた。
薄い睫毛の影が頬に落ち、かすかな呼吸が胸元を上下させていた。
昨夜、声を重ね、視線を重ね、壊さずに在ると確かめ合った男は、いまはただ静かな人間の姿でそこにいた。
アスレイドは掌を伸ばし、指先でノインの髪の一房をすくう。
――柔らかくて、少し跳ねていて。出会った頃よりも随分伸びた。黒と白の混じった髪を褒めたら、君は顔を赤くして怒ったっけ。でもあれは、本当に綺麗だと思ったんだ。君は気を悪くしたかもしれない。でも、僕は君の髪が伸びていくのを、これからも隣で見ていたいんだ。
それは夜の祈りの余韻ではなく、ただの仕草だった。
ふいに、ノインのまぶたがぴくりと動く。 目覚めたわけではない。でも、アスレイドの温度を感じたのか、無意識のうちに、手を探すように伸ばしてくる。 その手を取って、微笑みながら指を絡める。
「……起きなくていいよ」
小さく呟くと、薄桃色の光が、静けさごと部屋を包んでいく。
この朝は、誰の祈りもいらなかった。
二人だけの朝だった。
灰色の廊下の突き当たりに、その部屋はあった。
これからは、ここを自分達の部屋にしようと言いだしたのはアスレイドだった。とはいえ、壁一面に並んだ棚を片付けるには一日では終わらないだろう。どこかのんびりと、それでもせくように二人で片付ける。棚に並んだ本を整理しながら、羊皮紙を束ね、不要なものをまとめていく。
「……こんなもん、よく取っておいたな」
微かに埃の舞う部屋で、ノインは何度も鼻を鳴らす。一頁めくっただけで、頭の痛くなるような文字が並んでいる本をもう開く気にもならない。だけれど必要か否かの判断は自分ではつけられないから、順次隣にいるアスレイドに手渡していくだけだ。
「うん、どれも手を付けられなかったから」
アスレイドといえば、ぱらぱらと頁を躍らせるとてきぱきと仕分けていく。どうやら捨てるものの方がよほど多いらしい。傍らに積まれた本の山は、既に天辺をいくつも作っていた。
流石に本棚の前だけにいるのにも飽きて、ノインは一つ背中を伸ばすと一人用のベッドの脇に置かれている机に手を伸ばす。天板の下にある棚を一つずつ開けてみれば、中には殆ど物が入っていなかった。古い羽ペン、乾いたインクの壺。目ぼしいものはなにもない。
その中で、腹の前にあたる棚に手をかけると、他の棚にはなかった重みがある。ゆっくり引き出してみると、そこには乾いた革張りの本がひとつ出てきた。開けば、中にはなにも書かれていない。飾らない表紙のそれは、僅かに紙端が黄ばんでいるが手触りから質の高いものであることが分かった。
「これも捨てるのか?」
ノインが低く問うと、アスレイドはしばらく黙って、それから小さく笑った。
「いや、それは君に見せよう。いつか、ちゃんと」
何も書いていないというのに妙なことを言う。今に始まったことではないからと、ノインは机の上にそっと落とした。
舞う埃が光に溶けて、粒子が煌めくたびに、部屋は少しずつ新しい空気に変わっていった。棚が空く頃には、ここで二人眠ることができるだろう。
窓の外には、中庭の細い樹。季節が巡るたび、葉は濃く薄く色を変え、雪に細い枝を預けた。
時間がある時には、地下に残っている異形の首を二人で灰に還すことも始めた。
ひとつずつ瓶を取り出し、静かに思いを馳せる。そのたびに、輪郭がほどけ、粒がたちのぼり、灰になっていく。
灰になるには、聖痕で祓う必要はなかった。声のない影の、輪郭を探っていくだけで十分だった。きっとそれは、どれも正解ではないのかもしれない。それでも、目の前に在る異形の影に、どれだけ触れられるか。
それだけだった。
時間はかかるが、一つ、二つと頭を閉じ込めていた瓶が空いていく。まだ、影の声は幾重にも光差さぬ回廊に響いているが、それさえもどこか心地よく感じる。
「……俺達がいなくなったら、こいつらを覚えてくれてる奴は、いんのかな」
瓶の中で小さく消えた灰を眺めながら、ノインが静かに漏らした。アスレイドは僅かに翠の眼を開くと、隣に並び立つ男に視線を投げる。
ノインの目の先は、真っすぐに、空になった瓶へと向けられていた。
どれも軽くなっていく。どれも同じだけ、元へ戻っていく。こうして向けた思いも、言葉も。いつしか時がさらっていってしまうだろう。
いつの日か、ノインに伝えたものと同じだ。ノインと過ごした祈りは、いつか消えてしまうだろう。だからこそ、白いコートを裂いて残しておきたかった。
彼の左腕には、少し白が落ち着いた布篭手が、寄り添うように巻かれている。その色に暫し見入った後、アスレイドはもう一度空瓶へと視線を投げた。
「……消えるものばかりじゃない。残すものも、必要だ」
何かを噛み締めるように、ふと、アスレイドが笑う。
そして、翠色の瞳が穏やかに細められる。その奥に、確信したものを宿しながら。
「ノイン君、君は、やっぱり神を作ったんだね」
「あ? 俺が、神を?」
ノインは眉をひそめる。初めて肌を合わせた夜にも、似た言葉を聞いた記憶が蘇る。
人でありたいと願っていた男が、今は神を作ったと言う。
矛盾した響きに、意味を咀嚼するより先に、思わずそのまま返していた。
「人は誰しも、内なる光を持つことでエクルシエルに至れる。神に祈られる者ではなく、祈りを持つ者が……第五神、セレストとなれるそうだよ」
言葉を失いながら、喉の奥がきゅっと鳴った。
光だの神だのと、夢みたいな話を、目の前の男は真顔で語っている。
語る声は淡々としていた。だがその声音には、不思議と揺らぎがなかった。
その瞳には、確かに炎のような確信が揺れている。それは祈りではなく、ただの真実の告白のように響いた。
「……僕は、君に光を見た」
アスレイドの瞳は、真っすぐにノインを見つめている。
「エクルシエルの、光だ」
ノインの衣のポケットの奥で、いつかしまい込んだ羊皮紙が、くしゃりと鳴った気がした。
教堂に、灯がともる夜があった。
レヴィンが旅の途上でふらりと立ち寄ったかと思えば、ニィルが用事を携えてきて、リュエルは気まぐれに顔を出した。
三人が一堂に会するのは初めてだったが、誰も驚いた様子はなかった。
レヴィンは笑いながら杯を乾し、ニィルは口数少なく盃を受け取り、リュエルは両隣を見て肩をすくめる。その中に、ノインとアスレイドも混じればいよいよ話の方向があちこちへと向いていく。
上機嫌のレヴィンが、ニィルに手のひらでぐいと盃を押し付ける中、アスレイドはにこにこと笑いながら何度目かも分からない空のグラスを傾けて平然としていた。
「……あんた、そんなに強かったんだな」
「やめとけよノイン、こいつに付き合ってると夜が明けちまう」
「あたし、もっと甘いお酒の方が好きなんだけどなあ。ねえ、ノイン君、用意しておいてよ」
「なんで俺が」
その言葉に誰も反論せず、ただ杯を掲げる。秩序も祈りも関わらない、ただの人間たちの夜だった。
夜が更ける頃には、レヴィンは椅子に足を投げ出して鼾をかき、リュエルは奥の使っていない部屋を借りるわねと、使っていない、という言葉を強調しながら居室の方に消えていく。椅子に足を投げ出し、ニィルは窓辺に背を預けて傾いていた。
「やれやれ、祈りも秩序も関係ない夜って、案外悪くないね」
アスレイドの顔色一つ変わらぬ様子に薄ら寒いものを感じながら、ノインは短くそうだなと返した。
机の上に散らばったものを音を立てずに片付ける中で、アスレイドがシュレイン達の寝顔を見ながら、またこの場にいない者に思いを馳せるように穏やかに微笑む。
「ノイン君。僕は、セレストの光を得た人の名を、記しておきたい。――エクルシエル書として」
唐突な宣言は、何を意味しているかまでは理解できない。ノインは手を止め、肩を竦める。それでも、アスレイドの思いがあることにだけは、目をそむけたくなかった。
「……よく分かんねえが、やりたいならやりゃいいさ」
その素っ気なさに、アスレイドは静かに笑った。
芽吹く空よりも晴れやかに。アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオという一人の存在を照らしていた。
そうして、二人の日常にアスレイドが紙に筆を走らせる音が加わる。
アスレイドが筆を取り、あの日見つけた、何も書かれていない書に静かに線を引く。
ノインは肩越しに覗き込み、目を細めた。そこに記された最初の名を見て、息を呑む。
「……おい、なんで俺の名前がある」
「不思議かい?」
アスレイドは筆を置き、微笑んだ。
「僕にとっては、君から始まったんだ。光を得る人達を記すなら、最初に記すべきは君の名だよ」
ノインは曖昧に笑いながら、肩を竦める。
「……そうかよ」
そう吐き捨てながら、耳の奥で鼓動がやけにうるさかった。
芽吹きの頃には、窓の外の樹に若葉が揺れていた。
白雪の季には灯を近くに寄せて。
どの季節にも、机の前に座るアスレイドの背があった。
インクの匂いと、紙を撫でる筆の音が、静かに部屋を満たしていた。
日々を過ごす中で、再び、ネルガルドを巡った。光を探すのではなく、二人でふらりと向かうあてのないものだった。
東の草原で夜営し、焚火の火が黒と白の髪を照らした。
北の峻嶺では吹雪を避け、互いの体温に肩を寄せ合った。
南の市場では、アスレイドが珍しい果実を手に取り、ノインが値を吹っ掛ける商人を鼻で笑った。
西で見た記憶は、先行く者を見届けるように淡く二人を照らしていた。
旅の途上で見た光景は、どれも短く、どれも鮮やかに胸に残った。
行く先々で見たエクルシエルの光を、アスレイドは忘れないようにと空白の書をいつも懐に忍ばせていた。だからこそ、思い出はどこかインクの香りがする。
夜ごとに重なる時もあった。
息を詰めて名を呼んだ夜。
掌で汗を拭い合った夜。
何度も絶頂に攫われ、涙と喘ぎに溺れた夜。
静かな声で、ここにいると囁かれた夜。
そのどれもが、翌朝の光に溶けていった。
重ねた夜も、笑いも、祈りも、すべてが静かに積もっていった。
「……そういえば、あんたの書いてる書。頁がなくなったんじゃねえのか」
ベッドで寝転ぶノインは、モノクルをサイドテーブルに置く男の姿を眺めながら言葉を投げた。あれだけ背表紙の幅があった書は、こうして二人で季節を巡る中で、次々と頁が埋まっていった。
それほど、世界にはエクルシエルの光を受けセレストとなった者がたくさんいた。それこそ、どのように光を得たかは、誰一人として同じ手順を踏んだ者はいなかった。ただ、名前と、日時だけ。それだけを書いてきたというのに、頁はもう、ない。
「うん、終わってしまったね」
「買いに行くか?」
ベッドの縁に膝をついたアスレイドの背に腕を回すと、ぐいと引き寄せる。腰の上まで伸びた金糸が、はらりとシーツの海に落ちた。
しばし考えるように、アスレイドは答えない。抱き寄せられたノインの心音に耳を傾けるように、静かに瞼を閉じていた。そして、ノインの影に覆われながら、アスレイドはそっと身を起こす。
首筋に口付けを落とし、シャツの隙間から指を忍ばせていく。
普段は受けるばかりの仕草が、その夜だけは、どこか抱き寄せるように強かった。
翠の瞳が揺れ、言葉を探す。
「……シェルジュ?」
その指の強さが、何を言わんとしているかはなんとなく分かった。だからこそ、真意を確かめるようにノインが名前を呼ぶ。
「……ノイン君、今夜は……」
そこまで言って、声は途切れた。
呼んだきり言葉は続かず、ただ重なった熱だけが応えた。
それが、ふたりで過ごした最後の夜だった。
その日は、唐突だった。
浅い眠りは音もなく剥がれて、光が東から満ちていく。
腕の中に抱えていた男が、少しずつ冷たくなるのが分かって、ノインは慌てて身を起こす。隣でか細く息を吐く男は、そんなノインの姿を見て、変わらない微笑を浮かべていた。
「おい、シェルジュ、今すぐ」
「……いいんだ、もう、これで」
ベッドから降りて町医者を呼ぼうとしたノインの掌を、残された力で引き留める。残された時間は、もういくばくもない。腕の中で消えていく灯りを零したくなくて、ノインは横たわるアスレイドの背中に腕を回し、膝の上に抱えた。
アスレイドはノインの手をとり、指を絡め、息を整える。
体躯から、力が抜けていくのが分かる。その事実を受け止めきれなくて、ノインの青い瞳が歪んだ。
下から見上げてくるアスレイドの瞳は、ひどく穏やかで。まるで、待ちわびていた場所に辿り着いたような、満ち足りた色をしている。
そして、残していくことに僅かな懺悔をした後に。ゆっくりと、ノインという形を確かめるように言葉を紡いだ。
「……君は、在っていい。どこにいても。……僕を赦してくれたように」
ああ、最後まで。あんたは、最後まで。俺を肯定したまま逝くと言うんだな。
万感の思いが、ノインという存在を彩っていく。二人で過ごした日々が色を付け、花開くように。
「……ここに、いる」
短く返した声に、かすかな笑いが混じった。
やがて、呼吸は静かに浅くなり、かすれていく。アスレイドの震える指先が、輪郭を象るように、ノインの頬をゆっくりと撫でた。
ノインがもう一度、指を握り直す。
返ってくるはずの力が、ゆっくり消えていった。
力の失せた長い体躯の重みを、ノインは噛み締める。抜け殻になった彼は、まだここにいると言っているようにノインの膝を押している。
涙は、出なかった。
そこに在った光が、朝の光とひとつになって、もう戻らなかった。
世界は、何も変わらなかった。
音もなく昇っていったのを見届けると、ノインは身体を屈め、まだ微かに温もりが残るその唇に己の唇をゆっくり押しあてる。
かつて語られた言葉を、すべて受け止めるように。触れた口唇は、赦しの形を留めている。もう返らないはずの言葉を、なおも確かにここに残していた。
聖堂の中心に、アスレイドが眠る棺が置かれ、その周りを囲むように多くの人が項垂れていた。時折聞こえる嗚咽や、鼻をすする音で灰色の空間が満たされている。
横たわるアスレイドの周りには、色とりどりの花が溢れんばかりに添えられている。それはミーシャとトッドが育て、慈しんできた花々だった。
幼い頃はいつも彼女の背に隠れていたトッドが、いまは泣き崩れるミーシャの肩をしっかりと支えている。
かつて守られる側だった少年が、いつの間にか支える側に立っていた。いつの間にか彼女の背を越した背の高さにもまた、彼と共に歩んだ歳月の重なりがあった。
ノインは聖堂の入り口で、多くの人々がアスレイドに向かって頭を下げている様子を、ずっと眺めていた。
誰もかれもが、消えた光を嘆いている。その景色に、違和感を抱えたまま。
アスレイドを訪ねる者は中々絶えることはなかった。それでも、地に埋める日取りが決まった頃には、少しずつではあるが人の数も減っていった。皆、思い思いに最後の別れを済ませたのだろう。聖堂の蝋燭はじきにすべて溶けきって、送り火としての役目を終えていく。
そんな夜だった。ノインが教堂の鍵をかけようとしたところで、誰かが聖堂に入ってくる気配があった。
とっくに影もなくなった時間だ。手短に願おうとその姿を見とめたところで姿を隠す。アスレイドが眠る前に立っていたのは、ヴェイスだった。聖堂に並び立つ蝋燭に照らされ、鉄錆色の髪が燃えるように赤く染まっている。その姿を見て、ノインは聖堂に入ろうとした足を止めて影に隠れた。
ヴェイスは棺の前に歩み寄ると、棺の縁に指をかけ眠る男の顔を覗き見る。ゆっくりと眉間に、深く皺が寄った。その眉間の皺は、己が届かなかった光への悔恨を刻んでいるようにも見えた。
「……あなたは、光を、得たのか」
その表情は、哀しみとも悔恨ともつかない、白に染まりきれなかった影の色をしている。
暫し二度と語らぬ男の顔を眺めた後、一歩下がって胸の前で両掌を重ねる。そして、届くかどうかも分からない天に向けて、凛と響く声で願った。
「この者は、語られぬまま、消えた。それでも、その光は、最後までここに在った。ならばこの祈りは、誰にも祈られぬように。名を呼ばれぬように。この灯が、ただ灯であるように」
その詠唱は、宛てのない思いだった。それでもここに在ることを静かに叫び続ける、人としての願いだった。
ヴェイスはもう一度、胸の前に組んだ手に力を込め、肩を震わせる。やがて肩の力が抜かれると、背を向けて聖堂を後にする。もう、振り返ることもなかった。
聖堂を満たしていた蠟燭の炎が、静かに揺らめいた。
夜が、更けていく。
扉の前で、ノインは何も言わずに聞いていた。
祈りの行き先を、見つめていた。
細く淡い光が差し込む部屋で、空っぽの寝台の皺が、あの朝の形を保っていた。
ノインは、彼がよく腰かけていた机に向かい、ポケットから羊皮紙を取り出す。見覚えのある字で、書き留められた走り書きを、何度も何度も、確かめるように視線で撫でた。
―光は名を持たなかった。
―思いはなおもまた遠く。祈りいまだ届かず。
―だから我らは名を伏せ、ただ触れようとした。
―触れた時には、それはすでに遠ざかっていた。
―それでも、はじめて手が届くとき。
―我らは、セレストの灯になる。
なあ、あんた。誰よりも、光を求めてたんだよな。
上澄みのように静かな思考の後で、ゆっくり筆を取った。
呼ばれないでほしかった。
祈られないでいてほしかった。
でも──あいつが言った。
あんたのこと、灯だって。
灯ってのは、見えなくなっても、誰かの中にまだ、残ってるんだな。
だから、俺が書く。
……これは祈りじゃない。
あんたが最後に残した光を、ただの灯として残す。
誰にも呼ばれないように。
誰にも祈られないように。
あんたが最後に、そうして在ったみたいに。
ノインは、羊皮紙をひっくり返し、そこにただ一言、名を記す。
――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ
何も語らず、何も添えず、その一枚を、彼が残したエクルシエル書の最後の頁に、そっと挟んだ。
それは祈りではなく、内に宿る光としての記録だった。
ノインは深く息を吐く。窓辺の光は、どこにも属さないまま部屋を満たしている。
エクルシエル書は静かに閉じられ、名はそこにある。光は頁の奥に沈み、それでも消えなかった。
窓の外から、微かに小鳥のさえずりが聞こえる。やがて雪解けの音がすれば、灰色の聖堂はまた鮮やかな花々に彩られるのだろう。
瞼を閉じれば、アスレイドがこちらを振り返って、翠色の瞳を細めながら微笑んでいる。
そして、唇が、名を呼んでいた。
静かだった。そして、温かかった。
――ああ、いつか。あんたに、届くように。
祈りは、終わっている。
それでも、灯は消えない。
完