第十二話
白い壁、白い天井、白い床。中枢の神殿は、すべてが白く塗られている。窓は少しでも多くの光が差し込めるよう大きく誂えられていた。その白い空間の中、机に座って眉間を抑える男と対峙するアスレイド。頭痛を抑えるように背を丸める男とは対照的に、アスレイドはいつも通り、涼やかな微笑を湛えていた。
「……という訳だ。行ってくれるか、アスレイド」
きっと男の悩みの種は、此度アスレイドに命じる指令とは別のところにもある。恰幅の良い体格の背が丸まり、手を添えればころころと転がっていきそうだった。
そんな可哀そうな姿を立ったまま眺めながら、アスレイドは穏やかな口調で返す。
「セラファン殿。他ならぬあなたの頼みであれば」
頭だけでなく、胃が痛む音がする。セラファンと呼ばれた男は、色素の薄い口髭を撫でながらアスレイドを真っすぐ見ることができないでいる。
「少し前に、北に行ったそうだな。……アルヴァリオに顔は見せたのか」
「いいえ、まさか」
きっぱりと言い切ったアスレイドは、やはり口元に笑みを浮かべている。愚問であることも分かっていたが、想定通りの返答にセラファンは小さく溜息を吐いた。
「……たまには、家に帰ってやってくれ。姉上のこともある」
「おや、伯父上。奉神官になるには、皮肉も修める必要があるのですか」
「そういう意味ではない……」
がっくりとうなだれる。セラファンは、アスレイドが北を出てからというもの実家に一度も帰っていないことを知っている。そのため、アスレイドの家族からの便りを受け取るのはいつの間にか自分になってしまっていた。何度か、アルヴァリオの使いが教堂に突然押し掛けることもあったそうだが、決まってアスレイドは出払っていて直接の安否確認は成功した試しがない。アスレイドの母は、そんな親不孝息子について書き連ねた手紙を寄こしてくるものだから、それを本人に伝える役目をなぜか仰せつかっている。
伝えたところで、この甥が北に帰ることはないというのに。年々、便りの頻度が減ってきているのがせめてもの救いか。
セラファンはもう一度溜息を吐くと、机上の羊皮紙に視線を落としたまま言う。
「……彼も連れて行くのか」
「ええ。必要ですから」
即答したアスレイドに、セラファンは苦い表情を浮かべた。
奉神官次席として、あの裁判は自分も見ていた。黒と白の髪をした、神の倫理から外れた男が断罪される様を。しかしながら神の裁きを決めかねて、咎人をそっちのけで始まった奉神官達の論戦を収めたアスレイドの姿を。ああ、この甥は。とっくに北の民ではなくなっていたのだった。
「しかし、危険すぎる。何かあったら……」
言い淀む伯父に、アスレイドの翠色が三日月を描く。その笑みは、伯父の情を受け止めながらも、遠く離れた一点だけを見据えていた。それに、分かっている。彼は、自分の立場と、親族の情の間で揺れている。だからこそアスレイドは、自らの口でその先の言葉を紡いだ。
「異端についた異端が消えても、問題はないでしょう。それに、何かあった時こそが、罪の償いにもなりませんか」
セラファンの眉間が、一層深くなる。まだ朝も早い窓越しの光は、白い壁に反射してさらに白くなり、二人を無言で包み込んでいた。
一方そのころ。
「すまないねえ、重かったろうに」
「別に、大して重くねえ。ほら、足元気をつけな」
腰の曲がった男は、ゆっくりノインの後ろについてくる。両手に抱えた箱は言葉通り大して重くないから、ノインは後ろを気にしながら聖堂の中に入って教壇の側に荷を下ろした。
「ねえ、ノイン君。この敷物の件なんだけど」
息つく間もなく、別の女性から声をかけられる。仕立ての心得があるという彼女は、今のベンチだと長時間腰掛けるには辛いから、余りものの布を使って縫物をしたいと言っていたか。採寸を手伝ってほしいと言われていたから、ノインは老人に軽く声をかけるとベンチの方へと歩み寄った。
動かないように布を押さえていたところで、今度は子どもたちが数人、元気よく走り寄ってきた。
「ノノ、あそぼ!」
「今は遊べねえよ……ミーシャやトッドはどうした」
「ああ、ノイン、動かさないで」
「ミーシャがノノを連れて来いって」
中々目まぐるしい忙しさだ。ノインが、アスレイドの教堂で主の手伝いをする存在だと認識されてから、こうして訪れる人々の困りごとや頼み、遊びを含んだその他諸々の相手となっていた。レヴィンが言っていた、昔からよく頼まれごとをしていたという言葉を今更ながら反すうする。
窓から差す朝の光が埃をきらきらと浮かせている。ベンチの向かい側では軽く布を引っ張りながら女性がぶつぶつと長さを測っている。その様子を眺めながら、ノインの服の裾もまた、小さな手たちによって引っ張られている。やれやれ、今日もこうして終わりそうだと思ったところで、聖堂の扉が開いた。
「ノイン君。それが終わったら、少しいいかな」
白いコートをかすかに揺らしながら現れた主の帰還に、ノインは内心安堵する。しかし、その足取りにただの帰宅ではない気配を感じた。
布の長さを測り終えて満足そうに出ていった女性を見送り、子どもたちにはまた今度なと声をかけると、聖堂の中にはアスレイドとノインだけが残される。
「で、用件はなんだよ」
袖のないシャツの腹についた埃を軽く払いながらアスレイドに視線を向ける。翠色の瞳が、まっすぐノインを見つめてくるから少しだけたじろいでしまう。どこを見ているのか、ノインを見ているはずなのに、別のところを見られているような気がする。
「北の方にね、異形化した村があるそうだ。シュレインとして、依頼があったよ」
「村が? 村人全員ってことかよ」
アスレイドはその問いには答えず、のんびりと、どこか散歩にも行くような気軽さでノインに問うた。
「君も、行くかい?」
その問いに、ノインは短く息を吐いた。空気が、胸の奥まで冷やす。
「……ああ、行く」
その一言が、静かな鐘の音のように聖堂の中に響いた。
冷えた空気を切るように、二人は歩みを進めていた。空いっぱいに広がった雲からは、今にも何か降ってきそうな厚みを持っている。遠くに見える北の山は、既に白色が落ちていた。
中枢から北東へ伸びる道は、やがて人の影が途絶えた。街道から外れ、身長より高い草木を分け入っていく。吐く息が白く散り、低い叫びのような風の音だけが耳に残った。
「……昔から、生贄の因習が絶えなかった村だそうだよ」
アスレイドの声は、普段より低く、乾いている。草を分ける音が、いやに耳に残った。モノクルの奥の瞳は、真っすぐ前へと向けられたまま。
「祈りを捧げるはずが、捧げられる側にとってはただの死だった。神官も祈りも途絶え、形だけが残った」
ノインは黙って聞き、額の下で視線を細める。絡みつく草を踏み分けながら、高く腿を上げて進む。
「……その、生贄が異形になったってことか」
「そう。そして、残っていた人々も全員」
言葉はそこで途切れた。続きを言うまでもない。
やがて、草の隙間から集落が見えた。廃墟を覆う静けさの上に、細かな雪が降りてきている。命の気配はなく、白だけがすべてを覆っていく。瓦屋根は崩れ、井戸は灰に埋もれ、柱や壁は黒く焼けただれている。吹き溜まりに積もった灰は雪と混じり、溶けずにじっとりと冷たい。踏み込むたび、靴底の下で湿った音を立てた。
村が消えてから尋ねる者もないのだろう。地面には瓦礫と折れた木の柱が散乱し、布の切れ端が枝に引っかかって、怨念のような風に靡いていた。
どこからか、金属が軋むような音が響き、屋根瓦が風に鳴らされる。踏み慣らされなくなった凸凹のある地面には、人のものとも獣のものともつかぬ足跡が、途中で途切れて灰の中に消えていた。
「……理不尽だな」
ノインはぽつりと呟いた。フードの奥の瞳は、灰色の大地をじっと見つめている。
「生き残ったら生き残ったで異形になって、村ごとなくなっちまうなんてよ」
「理不尽を選ばされたんだ。彼らは」
その一言が、ノインの胸の奥でじわりと広がっていく。望んだわけでもない、自分から求めたわけでもない。ただ、そうせざるを得なかった――その感覚が、足元の灰と共に冷たく沈んだ。
雪混じりの風が、強く吹いた。空の高いところで冷えた結晶が、はらはらと落ちてくる。
かすかな呻き声のような音が耳に届く。それが風のせいなのか、本当に声なのか、判別がつかない。
見られている。そう感じた直後のことだった。
ノインが眉をひそめると、廃墟の奥で黒い影が揺れた。
崩れた家屋の窓の奥で、わずかに影が横切った。しかし、次の瞬間にはもう何もいない。
アスレイドは外套の下から聖痕の円環を抜き、軽く構えた。
「……来るね」
「ああ。……歓迎されてるな」
灰の匂いが濃くなる。
影が形を持ち、獣のように、あるいは人のように歪んだ異形が姿を現した。べたり、べたりと、黒い塊が何体も、二人を待ち構えていたかのようにわらわらと集まってくる。
その中の一体が、声にならない咆哮を挙げた瞬間、アスレイドは地面を蹴った。灰色の砂を巻き上げながら、円状の刃が一閃を描く。人型の異形が二つに分かれ、左右にずれ落ちる。断たれた箇所から黒色がさらさらと灰になり、宙で光った。
視線だけで位置を測り、アスレイドは身体を回転させて横薙ぎに払う。一体、もう一体。面を掃くように崩していく。
その隙を縫って、四足の影が低く構え、地を裂く勢いで突進してきた。
アスレイドよりも先に地を駆ける影の軌道に、ノインが滑り込み短剣の切っ先で鼻先を弾いた。骨のない塊がぐにりと潰れる感触。刃に黒い粘りが絡み、足元で跳ねる。
祓えはしない。だが動きは止まった。
東で狩っていたものより遅いなと内心思いながら、迫りくる黒色を刃で弾く。
二人は互いに背を預け、群れを迎え撃つ。
アスレイドは円環で広く薙ぎ払い、群れを削る。ノインは踏み込みと跳躍を繰り返し、四足の喉や脚を狙って崩す。
灰と黒が交互に散り、冷たい風がそれを巻き上げては宙に溶かす。
残る影の数は、もう両手で数えられるほどだった。息は荒いが、二人の足取りはまだ乱れていない。
アスレイドは円環を振り抜き、最後の一体を祓いながら低く呟く。
「……これで終わり――」
その瞬間、廃墟の奥から低い振動が地を這ってきた。
足元の灰が細かく震え、地の底から響くような低音が空気を揺らす。闇のような灰霧の中から、六つの脚と二つの頭を持つ巨躯がせり上がってくる。
裂けた口が咆哮を放つと、轟音と共に雪と灰が一面に舞い上がった。その音は鼓膜を打つだけでなく、骨の奥まで震わせる。強烈な風圧に、視界も足元も奪われる。
喰らわんと迫った巨大な顎を、ノインは反射的に前へ出て短剣で受け止めた。刃と牙が軋み、衝撃が両腕に沈む。六脚が地を抉り、押し込む力はじりじりと強くなる。噛み締めた奥歯が、ぎりと鈍い音を立てた。
「ノイン君っ!」
アスレイドの声が響く前に、六本ある脚の一つが大きく振りかぶり、ノインを薙ぎ払おうとしていた。衝撃は横からではなく、前から。咄嗟に瞑ってしまった瞼を抉じ開ければ、アスレイドの両腕が自分の身体を後方に押しのけているところだった。
「……ッ!」
黒い爪先が、赤く濡れながら右から左へ流れる。前のめりに倒れる身体を片手で抱き留めると、ノインの青い瞳が捉えたのは白いコートが、糸端を立てた隙間から鮮血に染まっていくところだった。
真っ赤な傷がアスレイドの背に刻まれ、喉が潰れるような呻きとともに表情が苦悶に歪む。
「くそ……っ」
もう一本、腕が二人へと伸びてくる。受け止めたダガーが、黒い影にじわりじわりと押されて髪の先まで迫ってくる。獲物を甚振るような動きに、ノインは片腕に抱えた重みが増していくのをを感じる。
理不尽だよな。
胸の奥でざらついた感情が膨らむ。
なんで、こんなことに。お前らが悪いわけじゃねえのに。こんなこと、したくて生まれたわけじゃねえだろ。
「の、いんくん……」
アスレイドの腕がよろよろと伸びて、ノインの腕から零れる。それでも相手に背中を見せまいと捻った身体で、ノインと影の攻防を重く狭まる視界で捉えようとしていた。
足元が、沈む。両手でダガーの柄を支えても、呼吸一つ緩めば黒い腕に抉られる。
どうやら異形も戯れに飽きたらしい。嗤うような唸りをあげると、空いている腕を大きく掲げて見せた
どうにもできなかったかもしれねえけど、俺は。
お前らが、ここにいたって。……忘れたくねえな。
その瞬間、短剣の刃先から微かな光が走った。
短剣に触れていた黒い影が、灰の粒を散らしながら静かに崩れ始める。灰化の、瞬間だった。
本来、異形を完全に灰化させるには聖痕が必要なはずだ。だが、ノインが手にした、友の、彼の弟に渡されるはずだった短剣には聖痕は施されなかった。世界の理から、外れる瞬間を目の当たりにして翠色の瞳がわずかに見開かれる。
――知っていた。本当だったんだ。背を焼く痛みより、胸の内が焦がれる。理由は分からない。けれど、確信だけが心の底に沈む。それに反比例するように、アスレイドは一人、高揚していた。
ああ、なんてことだ。君は、本当に。
圧す力が弱まったところで、ノインがダガーで異形の腕を押し返した。影もまた、脚先の感覚が失せたことに戸惑いを隠せない。その僅かな隙の中、立ち上がったアスレイドが、ノインの横に並ぶ。
血に染まった背中の痛みを押し殺し、静かに告げた。
「――、一緒に」
地を踏んだのは、同時に。二人の刃が閃き、音もなく線を描いた。大型の二つの頭が、胴体の部分から断たれて声にならない叫びを上げながら灰へと崩れ落ちる。
地に落ちる前に大きく舞い上がった灰は、ふわりと風に流されて静かな雨を作る。大きく肩を揺らしながら、ノインは降りしきる灰が雪と混じり光を帯びて、消えていく様をただ黙って眺めていた。耳の奥で、自分の鼓動がざわめく。
アスレイドはその横顔から目を逸らさず、心の中でだけ呟いた。
見つけてしまったんだ。君を。
アスレイドは円環を下ろすと、わずかによろめいた。
膝が折れかけ傾く身体をノインが支えようとした瞬間、その手首を掴まれる。
血に濡れた掌は冷たく、それでも脈は早い。白い外套の背は大きく裂け、深く抉られた傷口から温かい赤が滲み続けていた。雪が触れた先からじわりと染まり、消えない血液がしとどに背を滑り落ちていく。
地を染める色に、ノインの表情がわずかに険しくなる。顔を確認しようと頭を近付けると、翠色の瞳が間近にあった。その奥は、痛みに歪むことなく、何かを焼き付けようとしていた。
互いの吐息が白く重なり、血の匂いがわずかに混じる。
一拍の沈黙が、灰の降り積もる音を鮮明にした。
「……君は」
かすれた声が途切れる。
言葉はそれだけ。けれど、その眼差しは言葉より深く刺さる。
形を確かめるように指先がノインの頬をなぞる。冷たいはずの手に、血の温度が混ざっている。触れたところから、沸き上がる違和感のような感覚に、ノインは影を貼り付けられたように動けなかった。
やがてアスレイドはゆっくりと離れた。
背の奥で裂け目がじくじくと疼いた。外套の下で、温かいはずの体液が冷え、肌に貼り付く。
――この痛みの中でしか、辿り着けない場所がある。
そう思うほどに、胸の奥の熱は増していく。
「……戻ろう」
ふらつく足で雪と赤と灰を背負い、低く呟く。やがて、降りしきる雪が、残された痕跡さえ覆い隠していった。
消えていく灰を踏む音だけが、しばらく二人の間を繋いでいる。
ノインは掌に残る脈の速さと、あの瞳を、振り払えずにいた。
外気の冷たさを衣服に貼り付けたまま、教堂の扉を押し開けた。
ノインはその冷たさごと、アスレイドを抱え込むようにして中へと運び入れる。戸口から射し込んだ月明かりが床を白く縁取り、その上を、ぽたり、ぽたりと赤が落ちた。
暖かな空気が頬を撫でても、指先の感覚はまだ戻らない。抱えた身体は想像以上に軽く、それでいて、異様に熱い。
アスレイドの寝室まで運び、ベッドにそっと下ろす。
コートを外すと、裂けた布の隙間から背の抉られた傷口が露わになる。生々しい赤が、まだ脈を打っているように揺れているのに、ノインは息を呑む。
アスレイドは浅く笑みを浮かべていたが、その瞳は一度もノインから離れない。
「……すまないね、重かったろう」
荒い息の合間を縫って投げられた労いの言葉にノインは小さく舌打ちをすると、忙しない様子で部屋の棚から乾燥した薬草や包帯を漁る。
「黙ってろ」
ノインは短く言い捨て、部屋を一度出ると水の入った桶を運び込んだ。アスレイドの身体を横向きにすると、手際よく布を濡らし、血を拭う。
アスレイドは素直に従うふりをしながら、その指の動きを心で追っている。触れられるたび、熱が冷めていくはずなのに、胸の奥だけはじわじわと灼けていく。
「動くなよ」
無意識のうちに、指が動いていたのだろうか。制止する声に、手の先に意識を向けて大人しくしていようと思った。
包帯を巻く手が、強く締めるたびに背の傷が鈍く疼く。荒く息を吐くたびに、ノインの呼吸も荒くなる。だがアスレイドは眉をひそめず、ただ音を聞いていた。
音が途切れるのが怖い。耳の奥に、それだけが残るように。意識を、ひたすらに向けるように。
最後の結び目を整えると、ノインは手を止めた。
「……しばらくは、安静にしてろ」
一仕事終わったノインは、自らを落ち着かせるように大きく息を吐いた。アスレイドを抱えてきたときに付いてしまったのだろう鮮血が、ノインのケープに所々付着している。時間の経った赤は黒みを増して、苔色に染み込んでいた。
その姿を見て、アスレイドは胸が高鳴るのを抑えられない。傷の疼きよりもはるかに重い痛みが、歓喜を伴って心奥で鐘を鳴らしているかのような。
――君は、やっぱり僕を神から剥がす存在だ。だから……手放せない。
胸の奥でだけ、静かに呟く。
「なんか、持ってくるか。ほしいものとかねえのか」
アスレイドは短く、ただはっきり、いいと答える。ただ、ここに来てと静かに呟いた。声の色こそ穏やかなものなのに、ノインは行くなと言われた気がした。溜息を吐きながらベッドの縁に腰かけると、アスレイドの顔に視線を投げる。翠色の視線が、こちらを真っすぐに絡めとる。まるで、獲物を捕らえた蜘蛛のように。
「食えるんなら、なんか食わねえと、――っ」
纏わりつく視線の違和感に、優しさでごまかして離れようとしたところで、立ち上がりかけた腕を掴まれた。
手の冷たさが、異様に強く感じられる。食い込んだ指先から、体温を、感覚を奪われていくようだった。
「……君を」
翠色の奥に焼き付けるような視線が絡む。ノインの背筋に、言語化できない冷たいなにかが走った。なのに、掴まれた手首の熱が皮膚の奥にじわりと残る。
「今、離れたら……二度と放せなくなる」
「……は?」
反射的に手を引こうとしても、力は緩まない。脂汗が吹き出す一方で、掌の奥に微かな脈動が伝わり、戸惑いの中に別種の熱が紛れ込む。
「君は僕から、――僕の祈りを、地に落とす」
瞳の奥の奥。アスレイドの、最も深い心の部分。そこから見えない何かが手を伸ばし、ノインを飲み込もうとしている。
唇の端が、僅かに笑んだ。
「だから、もう二度と……離さない」
もう片方の腕が、ノインの下腹部に伸ばされる。布越しの触れ方は柔らかいのに、そこにあるのは快感ではなく、冷たい呪いのような感触だ。払おうとした手が、新しい包帯の白を視界に入れた瞬間、力を失う。
「何言ってやがる、あんた」
「君を見つけた。僕を神から引きずり下ろせるのは、君だけだ」
掠れた声は、祈りの告白のようでいて、その実どこか危うい、所有の誓い。
ノインは額の奥で眉を寄せる。意味は分からない。ただ、その声の温度だけが体内に沈んでいく。
ねっとりと注がれる視線が、この身を暴いてくれと訴えていた。
「怪我人を抱く趣味はねえ」
「僕は、このまま君に抱かれたい」
あまりにも迷いのない声音に、ノインは舌打ちした。
「……頭おかしいんじゃねえか」
「君がそうした」
「おい……っ」
拒む声が、手の動きで途切れる。腿の間に忍び込んだ指が、布越しに形をなぞり、押し上げる。
「……やめろ。背中が……」
「関係ないよ」
熱を帯びた吐息が耳殻をかすめ、指は緩急を刻んで形を握り込む。
「痛いのは、僕じゃない」
「……っ、は……」
息が詰まり、喉奥で苦鳴がこぼれる。逃げようと身体を引こうとしても、抱き寄せる腕が腰から離れない。
アスレイドは片腕を突き、痛みを押し殺して身を起こした。ノインの腰を掴む掌は血の匂いが混じり、鼓動が暴れている。
顔が近付く。視線が逸らせない。呼吸の近さが、傷口の痛みを忘れさせるかのように迷いなく腰を抱いた手に力が込められる。
怪我を負っているとは思えない滑らかな動きで、アスレイドの指がズボンの内側に入り込む。指先で触れてもぴくりとも反応がないことに不服なのか、その動きが大胆なものになる。
柔らかい茎を直接掌で包むと、やわやわと緩急を付けて握り込んだ。
「ぁ、や……めろ、おい……!」
拒む声は、背骨を這い上がる快感に削られて細く揺れる。
制止の言葉を意に介さず、アスレイドの五指が柔らかく曲げられると茎の形に沿って上下に擦られる。意思よりも素直に、身体の奥で熱が湧き出す。僅かな芯が立ち上がるのが分かって、ノインの背がゆるく弧を描く。
耳元で低く囁かれる声音が、まるで病のように甘く絡みついた。
「……声を、もっと」
握り込む手が根元を押し潰すように締まり、腰骨の奥から熱を引き抜くようにそのままゆっくりと亀頭までを引き上げる。包帯の布が擦れるかすかな音と、ノインの荒い吐息が交互に重なった。
「っ……あ……く、そ……」
悲痛さと熱が混じった声が、喉の奥で震えながら零れる。声そのものを唇で受け止めるように、ノインの耳元に寄せられたままのアスレイドの唇が、まるで誰かを抱くときのように甘く響く。
「逃げないで」
「……っ、ぅ、逃げ……なんて、ねえ……っ……あ……!」
膝が痙攣し、腰が無意識に前へ押し出される。視線は絡め取られたまま、掌の動きはゆるやかさを失い、より深く、容赦なく熱を煽った。一層深く根元まで食い込み、掌で血管の脈動をなぞり上げる。
「……そう。君は、ここにいる」
耳元での囁きが、まるで恋人の吐息のように皮膚へ溶け込み、ノインの呻きが一層熱を増していく。指は竿の裏筋を丹念になぞり、亀頭下の敏感な縁を指腹で軽く押し揉む。最早雄々しく勃ち上がった茎は、与えられる快感をすべて受け取ろうとずくずくと息衝いていた。
「……っ、あ……や、……ぁあ……」
声を殺そうと噛み締めても、奥歯の隙間から熱が漏れる。腰を引こうとしても、背を支える腕が逃がさない。
「もっとだよ……僕だけに聞かせて」
根元から先端まで、指先は一定の緩急で擦り上げながら、時折爪先で先端を弾かれる。その瞬間だけ、ノインの腹筋が跳ね、首筋まで赤く染まっていく。
「……っ、や……あ……っ……」
悲痛さを孕んだ声が喉奥で擦れる。
その震えを、アスレイドは耳元で一滴も逃さぬようにすくい取る。
「もっとだ……僕に縫い付けて」
握り込みが強まり、裏筋を丹念に押し上げる。
先端を爪の腹でわずかに弾き、視線を絡め取ったまま、さらに深く擦り上げた。
「……僕の名前を、呼んで」
「……っ」
ノインの瞳が逃げるように揺れるが、けれど言葉は出ない。
青と翠が、絡む。どこを見ているのか分からないままで。
「どっちでもいい。……でも、今の君が呼ぶのは、どっち?」
指先が一段と深く擦り上げる。容赦なく快感を紡がれて歯が鳴った。これまでされてきた同じ動作より、脳髄に沁み込むような快楽に意味のある単語を発せない。
「は……っ……なに……」
「呼んで」
それでも声はかぎりなく穏やかに。どこか、駄々を捏ねるように。ただ、ノインの喉が震えるのを待っている。
快感で戦慄いた唇が、絞り出すように声をかたどった。
「……あ……っ、アスレイド……っ……」
その音を飲み込むように、翠色の瞳が細く笑う。
――選んだね、君は。
僕を。神を剥がす声で僕を呼んだ。
この瞬間のためなら、背を裂かれても構わない。
もう一度聞くためなら、何度だって。
「ノイン君……もっと……聞かせて」
一度言葉を発してしまえばもう止められない。決壊したように喘ぎに乗せて名前を呼ぶ。アスレイドは満足そうにノインの身体に身を預けながら、掌の熱芯を擦り上げた。
名前を呼ぶ声が悲痛から熱へと変わる。
何度も何度も、その音を掌で搾り上げるように受け止める。
一際大きく名を呼ぶ声と同時に、手の中で熱が弾けた。アスレイドは一滴も逃がさぬよう包み込み、瞳の奥で何かを確信したように嗤った。
――シェルジュ、と呼ぶ母の声が遠く聞こえる。
ぼくは、声がした方向へ振り返った。
母は優しく、ぼくの頬を両手で挟みながら笑う。
エクルシエルの光は、誰にでもあるのよ。そう、誰にも。
ぼくにも?
ええ。だけど、みんながみんな、見える光ではないの。だからあなたにも……いつか、見える日が来るといいわね。
うん。見てみたい。
――いつだったか。もう、随分前のことだ。
今、見えた。
君が僕を呼んだ声が、光だった。
だから、もう離さない。