第十三話
アスレイドの傷の治りは順調とは言えず、取り替えた包帯はすぐに赤く染まった。薬草を摘みに出ようとしても、彼の手に手首を掴まれれば、ノインはそれ以上何も言えなくなる。翠の瞳が行かないでくれと訴えるからだ。そんな瞳の色を向けられては、ノインは渋々とベッドの脇に腰かけるしかなくなってしまう。
できることといえば、アスレイドの看病と、最低限の家のことくらいだった。
食べ物や生活用品は、主の容体を聞きつけた信徒たちが毎日のように門を叩き、アス様を頼みますと口を揃えて置いていく。まるで神にでも成る瞬間を見ているようで、ノインはただ受け取るしかなかった。
傷が塞がった頃には、湯浴みができるようになった。それでも、アスレイドは背中が痛いからノインに髪を整えてくれとせがんだ。断る理由も見つからず、上半身を起こした男の背に回りノインは木櫛を金髪に通す。波打つように癖のある金糸は、一本一本が細い。襟足までであった長さは、肩口辺りまで伸びている。もう少し、伏せている時間が短くなったら結ってやるのもいいかもしれない。柔らかな金髪を指に預けながら、現実から逃れるように、そんなことを思った。
「すまないね、いつもいつも」
窓から差し込む光は、冷たい空気のせいか黄金色に見える。その色は、アスレイドの肌を、髪を、更に透明に近付けるように思えた。木櫛が、静かに髪を噛む。
「……別に、嫌じゃねえから」
それだけ言って肩を竦めると、アスレイドはまた小さく笑った。きっと、何度も繰り返したやりとりだ。それでも、この形で返すしかなかった。
サイドテーブルに木櫛を置いて、肩を撫でる。短い謝辞を口にしながら振り向いたその顔は、まだ高くない陽に照らされてひどく眩しい。ふと、掌に柔らかい感触が置かれる。アスレイドの指がノインの掌を、その在り方を試しているかのように静かに触れていた。
「君の手は……まだ血を拭う感触を覚えているのかな」
翠色の視線は、ノインの筋張った手に注がれている。懐かしむような、のんびりとした語り口。こうして時々に投げられる、答えの分からない言葉の真意を探るのもとっくに諦めた。ノインが軽く笑いながらさあなと呟くと、アスレイドも笑みを浮かべたまま細く息を吐く。
「……少し、眠るよ」
ゆっくりと肘を折って上半身をベッドに横たえる。その決まった動作を、見届けるまでが役目だった。瞳が閉じられ静かに胸が上下するのを確認してから、ノインはこの部屋を出ることを許される。
まるで、檻のようだった。
彼が傷を負ったあの日、アスレイドの唇がかたどった言葉。それは、愛しく何かを求めるのではなく、それしかないのだと信じ切っているような鬼気迫るものがあった。振りほどけば二度と触れられない。ノインはそう直感したからこそ、掴まれた腕を払うことができなかった。
それからというもの。流石に堪えたのかアスレイドが迫ることは毎夜ではなくなったが、時折なぞるように触れられる。時に髪、時に頬。肩や二の腕。腰や足。ノインという存在を構成する身体をかたどるように、あてがわれる掌から熱を伝えられる。病人を無下にはできないからと好きにさせていたけれど、ノインは内心、皮膚越しに伝わる冷たさに畏れながら安堵していた。
アスレイドと同じように、ノインもまた白と黒が混じった髪が伸びていた。首筋から背に流れ、獣のたてがみのように広がったそれは、動くたびにさらりと揺れる。切りたいとも思うけれど、そう言われたわけではないのに止められている気がする。だから、すべてはアスレイドが再び自由に動けるようになってからにしようと決めた。
微かに聞こえる寝息を聞き届けて、ケープを纏い、汚れた布を入れた桶を手にして部屋を出た。
さて、どうしようか。本当は薬草を摘みに行きたい。アスレイドの薬棚にあった薬草は残り少ない。訪ねてくる人に頼んで同じ葉を見つけてもらえればいいのだが、そこは草の地の民の血が騒ぐ。アスレイドを含めた見知った顔よりよほど草木について知識があると自負しているからこそ、自分が外に行きたくなる。
一度だけ、アスレイドが眠っている時に教堂を出て買い出しに出かけたことがあった。帰ってきたときには、アスレイドは目を覚ましていた。
ああ、ノイン君。よかった、僕を置いていったのかと思ったよ。そう震えた声で告げた表情は、見つけてもらった迷子のような顔だった。泣き出すのを堪えて、笑おうとしているような。ノインはそれ以来、教堂にアスレイドを置いて出かけることができなくなった。
とはいうものの、この灰色の建物でできることも限られている。食材は残っているし、洗濯を済ませてしまえばいよいよやることがなくなる。庭の花は、子ども達がアス様のお手伝いをするんだと張り切っていたから、それこそ手を付けていない。汚れを落とした布から水を絞ると、ノインは一つ溜息を吐いた。冷え切った水滴が、肌に痛い。
そういえば、前にヴェイスが訪ねてきた時。アスレイドは、聖堂の端の棚から紙の束を取り出したか。普段意識して見ていなかったからか、身を置いて随分経っているというのにこの教堂をくまなく探索したことがないことに気が付いた。知っているのは、説話を行なう聖堂、奥にあるリビングと、アスレイドの自室、ノインの部屋という名目になっている客室。それに、聖堂から地下に続く地下回廊。相変わらず、時折幽霊の声が聞こえると言われている。そろそろ、この灰色の建物に目を凝らしてもいい頃だと思った。
前に外周をぐるり回ってみたけれど、知っている部屋に比べて壁が長い気がする。つまり、まだ自分が立ち入ったことがない部屋がある可能性を示していた。そう考えると俄然好奇心に駆られて、ノインは探索をしてみることに決めた。
さて、どうしようか。光差す廊下をあてもなく歩いていると、ふと足を止めた。
曲がり角に差しかかろうとした先、その右手に伸びる灰色の壁を、じっと見つめる。
「……なんか、長えな」
思考の縁を零れた呟き。この建物は何度も往復しているはずなのに、今さらになって妙な距離感に気付く。
記憶の中の外観より、廊下の幅が合わない。壁一枚挟んだだけにしては、妙に厚みがある。
歩幅で数えてみる。廊下の長さと、部屋数が合っていない。内と外の寸法に、ずれがあるのだ。
「この辺に部屋があんのかな」
独り言ちた唇から、白い吐息が色を付けてすぐに消える。誰に問いかけるでもなく、首をひねる。気付いてしまった以上確かめずにはいられない、刺激された好奇心が弾んでいる。
胸の奥で少しばかり胸を高鳴らせながらノインは廊下を戻る。この壁の裏に、空間があるはず。となれば、入り口は。ふと、角を曲がった突き当たりに目をやる。
古びた白布が掛けられた、使われていない棚。よくよく見ると、微かに埃の被った聖具や、昔に誰かが置いていったのだろう木製の玩具が置かれているけれど背板の方がよく見える。
何度も目にしてきたはずの風景。けれど、今日だけは、どうにも視線を引かれる。
布をめくる。埃っぽい空気が立ち昇り、薄く咳が漏れた。
棚の後ろ。壁のつなぎ目に、かすかな筋が見える。ゆっくりと、指の腹でなぞると筋は黒くはっきりとノインの前に姿を現した。
「……あった」
白布を乗せたまま、棚を横にずらして壁を押すと、微かに軋む音とともに、隠された扉がわずかにずれる。壁ではなく、木製の古い扉がそこにあった。まるで、棚は扉の蓋をするように置かれていたのだ。
鍵はかかっていない。隙間から流れる空気が、今よりも更に冷たい。封じられていた時間の気配が、そこにはあった。
ゆっくりと扉を押し開けると、きしむ音と共に、淡い光が室内に差し込んだ。
初めは狭いと思った。だが、二歩、三歩と足を踏み入れると、壁が静かに折れ、奥の居間へと続いていた。
廊下から見えていた距離では想像もできなかった。まるで誰にも見つからぬように、自らを隠していたかのようだった。
「……隠してたんじゃなくて、守ってたって感じだな」
ぽつりと零れた呟きが、冷えた空気に吸い込まれていく。
そこには、かつて使われていたのだろう居室があった。木の枠だけが残るベッドフレーム。その傍には読書をしていたのだろう机と木椅子。そして壁一面には、本の詰まった本棚が並んでいた。
その背表紙はどれも色褪せ、埃を被っている。封印されてから、長い年月が経っているのだろう。本棚さえなければ、アスレイドの部屋よりも少し広く感じる。
まさに、時が止まった部屋だった。
埃が静かに舞う空間で、ノインは本棚の一角に目を留める。ネルガルドの伝承や創世記、戦法の手引きや宣託者の作法書まで古書がぎっしりと並ぶ中、見知った文字で記録、と短く書かれた背表紙の本があった。少しばかり罪悪感を感じながらも、かつてのアスレイドの姿を知りたいと思う誘惑に勝てず、ノインは厚みのある本の端に指先を引っかけた。
『北で見えなかった光は、中枢で見つけることができるだろうか。
神が降りるとされるこの地で、光を得たいと思っている』
書き出しには、遠い過去の日付がしっかりとした字体で残されていた。
ゆっくりと、頁をめくる。
『中枢神殿に行く。
アルヴァリオ卿であれば宣託者ではなく奉神官の座もありますと言われた。
人の手が加えられた祈りなんて、……捧神官とでも名を変えればいいのに。
誰かの手に導かれた光がほしいわけじゃない。
宣託者で、と言ったら神殿にほど近い教堂を勧められたけれど、どれもしっくりこない。
また今度、でいいか』
くすりと、ノインが不意に笑みをこぼした。若いアスレイドは、きっと今よりも皮肉屋だったのだろうと邪推する。小さな窓から入り込んだ光が、文字をくっきりと照らしている。
『教堂が決まった。何もない。随分使われていない。
見学に行ったら、周りの目がひどく怯えているように見えた。
ここには、神の説話が届いていないのだろうか』
『少しずつ聖具を揃えると、近くに住む人達が覗き込んでくる。
僕が招き入れると、教堂に入ったのは初めてだという。
ここの教堂に? と問えば、首を振る。教堂そのものに、と皆々が答えたものだから。
だから僕は、ここでいいと思った。
さて、掃除をしなければならない。
白には、塗らなくていいだろう。この灰色の教堂を、僕はとても気に入っている』
『宣託者としての生活も、なんとか慣れてきた。
シュレインの依頼も時折。
レヴィンとばったり会ったけれど、シェルジュ、と呼ぶから。
僕は知らないふりをした。』
まるで、彼が歩んできた道程を辿っているような記述に、ノインは胸が温かくなる。この手記には、アスレイドがここに至るまでの思いが散りばめられていて、彼という人格の輪郭に触れられるような気がするのだ。
僅かに瞳を細めながら、紙をめくっていく。
『僕が、消えていく。僕は、なんで中枢に来たのだろうか。
これを見返してみたけれど、そうだ、僕は光を求めてきたはずだった。
なのに、僕が光になってしまうような。そんな錯覚が、ある』
ノインの指が、無意識に紙の端を握る。
一文字一文字が、痛みのように胸に沈んでくる。
『見つけた。中枢の古書庫にあるなんて。
エクルシエルの光について。アルヴァリオで聞いたのと同じことが書いてある。
そう、僕はこれを探していたのだ。
貸出ができないというから、伯父上に頼んでみよう』
『誰のためでもない。何かのためでもない。ただ在るだけの僕達が、在ることを肯定される。
エクルシエルの光を受けた、四神と並ぶ存在になるのだとしたら。
それは、神と同じ御座に在る、──第五神に至ることだ。
アルヴァリオで何度も聞いたことだ。確かに、あったんだ』
『エクルシエルの光を得た者は、四神と等しい存在になるという。
それが神の啓示であるなら、受けた者もまた、神と同じ御座に至る。
この世界に生きる者すべてが、還るべき場所を持っているのだ。
でも、エクルシエルの光は、誰かに決められるものじゃない。
与えられるのではなく、自分で、掴まなければならない。
ああ。また。
僕は、光じゃない。
僕も、光を探していただけなのに』
理解するよりも先に、目が文字を追ってしまう。
意味を咀嚼する前に、感情だけが押し寄せるようで、頁を繰る手が止まらなかった。
『僕は神じゃない。
なのに、皆がそう見てくれる。
そのたびに、自分を失っていく。
それでも光を求めた。
僕だけの、僕のための光を。
他者の祈りに宿る神ではなく、
僕の内に、確かに在ると感じられる光を。
だって、僕が神なら。僕は、エクルシエルの光を受け取ることができない』
『いつのまにか神様ごっこをしている僕。
誰かに祈られれば、それが僕の価値になる。
誰かに触れられれば、それが僕のかたちになる。
……本当に? もう、僕には分からない。
僕の身体は、心は、まるで見えない殻に包まれているようだ。
僕は、もう、僕で在れない。
こんな僕は、壊れてしまえばいい。壊されれば、僕を確かめられる気がする』
ノインは、息を呑んだ。
あんたは、神になりたかったんじゃない。
誰かの救いになりたかったわけじゃない。
ただの記録帳だ。けれど、今ここで、アスレイドの心に触れているようだった。
紙を捲るたび、文字を追うたびに。何かに辿り着いてしまいそうで。けれど、手は止まらなかった。止めたくても、止まってくれなかった。
『誰かに祈られるために、僕は生まれたわけじゃない。
僕は、僕として在りたい。
僕のまなざしを、僕の声を、僕の触れたものを。
誰かが、僕のものとして見てくれたら。
それが、僕の光なんじゃないか。
だから、僕は。僕を、壊してほしいと、願う』
ここで、記述が終わっていた。
ノインの胸に、音もなくなにかが降りてくる。
「……人になりたかったんだな、あんた……」
アスレイドの輪郭が残る書を、閉じることができずにノインはただ、立ち尽くすしかなかった。
若き日の彼が、どのような思いで中枢に来たのかなんて、この僅かな記述で理解しようだなんて思っていない。それでもここに残されたのは、かつての彼の命の叫びのような気がして。
ノインは静かに手記を棚に戻すと、ゆっくりと部屋を出る。開けた時と同じように、棚を戻し、布を被せて。そして、廊下でへたり込んでしまった。
アスレイドは、中枢で、この教堂で。否、もしかしたらこの世界で。自分自身の存在を肯定してくれるエクルシエルの光を探し続けていた。彼が何度も言っていた破壊の願望の理由に触れてしまったことに、ノインは激しくなる動悸を抑えられないでいる。その裏に込められていた渇望が、時を越えて流れ込んで気がして。胸を掻きむしりたくなる衝動を必死に抑えていた。
過去の行動が、次々と記憶の底から呼び起こされていく。そのたびに、頭を殴られたような衝撃が走った。
光は、変わらず差し込んで灰色の教堂の中を照らしている。白雪の季が深まった廊下は、底冷えがするというのに身体は今にも溶け落ちてしまいそうに熱い。額に張り付いた髪が、拍動に合わせて揺れる。頭を抱えたくなる衝動を抑えていたのは、ある一つの疑念であった。
エクルシエルの光が、この世界にいる誰もが受け取れる可能性があって。その光を受けた者は神と等しく在れるのだとしたら。
ノインは。自分自身には、その資格があるのだろうか。
頭を鷲掴んだこの手は、かつて幼馴染みを手にかけたものだ。そして、咎人となり中枢に流れ着いた自分は。自分の罪も贖えず、生き続けているこの身は。肯定されることはあるのだろうか。
未だ生きているのかも死んでいるのかも分からない俺は、エクルシエルの光を受ける資格があるのだろうか。
汗ばんだ掌を青い瞳でじっと見つめる。この手が赤く染まり、肉を割いた夜の感触を覚えている。その記憶が染みついている以上、自分にはそんな御座など与えられはしないだろう。
アスレイドの言葉が、残響して響く。──血を拭う感触を覚えているのか。忘れる訳が、ないだろう。忘れてはいけないのだろう。
「……、まあ、当然だろ」
漸く冷静さを取り戻してきた頭が、腰を浮かせることに成功する。そこまで長居した訳ではないが、いつ何時アスレイドが目を覚ますとも分からない。少し頭を左右に振ると、彼の部屋に戻ることにする。足元はまだ震えが残っていて、歩幅が揃わない。それでもなんとか、アスレイドの部屋の前に来た時には何も変わらない素振りができるくらいには整えた。
ノインが扉を開けたとき、アスレイドは既に目を覚まして上体を起こし、窓の外を眺めていた。高いところに昇った陽の光を、地の底から眺めているような。普段と変わらない風景であるのに、絶対に手が届かない何かを求めるような姿に見えた。
「……おかえり」
ドアの開閉が合図とばかりに、ゆっくりと首が捻られてふわりと笑う。
その声に、いつもの艶はなかった。熱でも、執着でもない。ただ、ここにいることを告げるためだけの声だった。
ノインは一言も返さない。視線だけで、彼を見つめていた。アスレイドはその視線を受け止めると、ゆっくりと手を伸ばす。
「……ノイン君、今、君に……触れてほしい」
それは甘えでも、誘いでもない。ひとつの確認だった。力の抜けた指先が、伸びた白と黒を掻き分けて頬に揺れる。肉付きの薄いそこをなぞって、首筋へ。冷たい体温が、確かなものを求めている。何かを問うように。
だから、ノインは何も答えなかった。その代わり苔色のケープを床に落とすと、片膝をベッドの端に乗せる。
アスレイドがそうしたように、ノインは冷たい指をアスレイドの頬に添えた。冷えていた彼の肌が、触れた瞬間、微かに震える。
「……俺は、あんたを、壊したいわけじゃねえ」
けれど、壊さなきゃ届かないんじゃなかったのか。
あんたを肯定する言葉も、術も、俺にはまだ見つけられてねえ。
それでも、俺は、あんたを離したくねえ。
離したら、俺はもう、この世界で、自分を保てなくなる。
ぽつりと、ノインが言った響きを聞き届けたアスレイドは、静かに顔を伏せ目を閉じる。そして、微笑んだ。
「そう……壊さなくても、君は僕を欲しがるんだね」
言葉には穏やかな色があったが、その奥に、ノインには読めないものがあった。まるで、自分自身に言い聞かせるような、もしくは、確かめるための祈りのように。
「……なんで、俺なんだよ。俺じゃなくても良かったじゃねえか」
「……ノイン君だからだよ。祈らなかった、あの夜から」
「……わかんねえよ、俺には……」
ノインは、ゆっくりと指先を這わせていく。寝間着から覗く、骨の凹凸。滑らかな肌。首に一番近いところにある釦を一つ、外した。
痛みも、強さもない。肌の温度をなぞり、鼓動の在処を探すような触れ方だった。
「……君が、言ってるんだよ」
アスレイドが呟く。もう一つ、釦が寛げられる。言葉が、短く、それでも業火を纏って紡がれる。
「壊さなきゃ、いけないって」
ノインの指が止まる。布の隙間から、胸の丘と色付いた頂点がちら見えた。
「違う……っ、そうじゃねえ……」
「……君が壊してくれるのなら、僕は、どこにも行けなくなるよ」
「違う、違うんだよ……」
壊したいわけじゃない。アスレイドの過去の単片を知った上で、心の底からそう思う。しかし同時に、壊してしまいたいとも思う。こうして求められれば尚更だ。
どうしたら、壊さなくてもあんたを肯定してやれるのだろう。
どうしたら、俺はここにいると伝えられるだろう。
あんたの願いが壊してほしいと思うことなら、俺はそれを叶えることでしかここにいられないのか。
そんなことをしなくても、俺は。
前の合わせが一番下まで解かれると、ノインは衣を剥がすように肩の隙間に手を滑り込ませながら、露わになった胸の先を食んだ。舌で掬い上げるとぴくりと反応するから、唇で挟んでゆっくりと何度も吸い上げる。アスレイドの指がノインの後頭部を抱き抱えるように絡んできた。
「あ……、ん、ノインくん……っ」
音を立ててやれば、戦慄きが更に大きくなる。空いた方は指先で弾いて転がしてやれば、包帯が巻かれなくなった腹筋がぴくぴくと震えた。
せがむように頭を抱える指に力が込められたから、ノインは更に舌で乳頭を甚振る。細やかな喘ぎが、鼓膜を揺るがしていく。
ノインはゆっくりと瞳を開けると、人になりたかった神の、暴かれようとする身体をじっくり眺めたいと思った。ノインよりも色素の薄い肌の色や、ノインのより陰影がはっきり浮かぶ筋肉の付き方。今まで散々見てきたと思ってきたけれど、どれもこれも青い瞳には新鮮に映る。視線に籠ったねちっこさに気付いたのか、アスレイドが眉を下げながら身じろいだ。
「……今日は、よく見るね」
「……見なきゃいけない、気がするから……」
ノインの視線が、身体からアスレイドの顔へと移る。その瞳には、壊したいという衝動だけでない何かが生まれていることが分かって、翠色の瞳が僅かに震える。生まれ出るものの正体が分からず、アスレイドは僅かに困惑した。
「……見て、何がしたいんだろうか……」
「俺にだって、分からねえよ。でも、俺がそうしたいと思ってる」
答えはない。あまりに真っすぐ見つめてくるノインの瞳から目を逸らそうとしても、見えない何かで囚われているようだった。アスレイドの、何かを決めかねているような素振りにノインは一つ短く息を漏らすと、背中に腕を回して首筋に舌を這わせた。
「は、ぁ……っ」
触れた肌は、柔らかな熱を孕んでいる。生きている。そう実感するような、人としての温かさだった。
背中を下にすると傷に堪えるかもしれないから、ノインは抱いた腕を横に倒す。せっかく塞がった傷口に触れないよう、その部分を避けながらそれでも背中に回した腕は外さない。舌の腹で感触を味わうように、肌を舐める。二人横倒しになったまま、互いの身体に回した腕に更に力が籠る。
アスレイドの味が、香りが。ノインの身体に沁み込んでいくようだった。その感覚が強くなればなるほど、下腹部が熱く息衝いてくる。それは彼もまた同じのようで、きっと無意識だろうが求めるようにこちらに腰を押し付けてくる。
太腿に触れる熱を感じながら、ノインは背に回した腕を緩めた。
「なあ、こっち。背中向けてくれるか」
穏やかな声に、アスレイドもまた腕の力を抜くとおずおずと身体を反転させる。向けられた背にある真新しい傷は、治りかけて赤く盛り上がっている。他の肌より色が異なるそこを極力避けて、ノインは背中からアスレイドを抱き締めた。重なった体温に、アスレイドが短く笑みを零す。
「……僕を閉じ込めるみたいだ」
「逃げるなら、今のうちかもしれねえぞ」
言葉とは裏腹に、回した腕に力を込める。
アスレイドは、喉を震わせて笑った。けれど、その笑みはどこか不安定で、脆かった。
「……やっと、僕を選んでくれたんだね」
その言葉の意味を、ノインはまだ知らない。
選んだことの先に何があるのかも知らない。
「っ……ぅ、ふ、……っ」
無言のまま下に滑ったノインの掌が、アスレイドの前を撫ぜる。衣の上からもはっきりと形が分かる括れに指を這わせれば、くぐもった声が腕の間から甘く響いた。
「なあ、聞かせろよ。……俺しか聞いてねえだろ」
耳の縁をべろりと舐め上げれば、息を飲んで身を震わせる。散々、あられもなく自ら嬌声をあげてきたというのに、改めて乞うとどうやら抵抗があるらしい。
悪戯心が刺激されて、耳からうなじ、肩を味わいながらアスレイドの陰茎を引っ張り出す。既に大きく膨らんだそこに指を絡め、ゆっくりと上下に擦ってやる。
「の、い……っ、ぁあ、は、あ、っぁ、あ」
ノインの息も短く上がる。ぐりぐりと尻に腰を押し当ててやれば、どれだけ張り詰めているのか伝わるだろう。このまま奥まで欲しがれば、きっとアスレイドは受け入れてしまう。
けれど、それはまだ──違う気がした。
……壊したって、届かねえなら意味がねえだろ。心の中で呟いた。それでも熱が欲しくて堪らなくて、ノインは空いた手でズボンを寛げると熱を持った芯を取り出す。アスレイドの身体が期待からか、こちらに振り向くことなく震えた。
横向きに足を伸ばしたまま、アスレイドの片足を僅かに持ち上げると陰嚢の下にノインの怒張を挟み込ませる。先走りで僅かに濡れていたそこが、肌が触れたところで粘着質な音を立てた。太腿をゆっくりと下ろすと、しなやかな脚で茎が締め付けられる。
「あ、っ、これ……っ」
「ああ、わかる、あんたのも……熱い……っ」
横向きに重ねた体。温かな体温と共に、互いの呼吸が肩越しに伝わってくる。
「ん……っ……ふ……」
前に、擦りつける。熱を孕んだ肉と肉の間を、濡れた茎が何度もなぞっていく。
割れ目の奥に、ノインの先端がほんの少しだけ沈みかける。けれど、それ以上は踏み込まない。踏み込めない。
「……ッ、奥までほしく、なるよな。……分かってるよ、俺だって」
ノインの言葉に、アスレイドが目を伏せて唇を噛む。それを知らないふりをして、吐息まじりに囁きながら背中に口づけを落とす。
指先で下腹を押さえながら、茎を少し上へずらしていく。敏感な陰嚢の裏から先端をなぞらせれば、アスレイドの呼吸が引き絞られる。
「ぁ、く……、ん……ノインくん……っ」
アスレイドの股間から溢れる粘液が、ノインの茎を汚す。生々しい快楽の証が、互いの間をぬらぬらと繋いでいた。
すり、と腰を引いて、擦れる音がくぐもる。
中に入れないと決めたものの、強く昂った茎がアスレイドの谷間を押し広げ柔らかな粘膜の外縁をこすり上げるたびに、濡れた声が微かに漏れる。
「……っ、ふ、ん、あっ、」
ノインの腕に包まれながら、彼はそっと囁いた。それは、甘く強請るものではなく、もっと、命そのものが叫ぶような悲痛さを込めながら。
「僕を、ここに、いさせて……──!」
その言葉が、胸の奥にまで沁みてきた。
じゃあ、どうしたらいいんだよ。
壊されたがるあんた。壊したくない俺。
俺は、あんたを壊すために、世界に在りたいわけじゃない。
壊さないと、いられない気がするからだ。
こんな俺が、この世界にいていいはずじゃない。
それを、俺に、壊すという役目を与えてたのは、あんただろ。
でも、祈りは、届かなかった。
……俺は、ただ、あんたを。俺は。
答える前に、気づけばノインの腰が動いていた。茎を走る血管を擦られ、先走りで濡れた切っ先で裏筋を擦られれば、アスレイドもまた閉じた瞼の裏に終わりの光が見えてくる。
ノインの掌が、動きに合わせて揺れていたアスレイドの熱茎を柔らかく包み、腰の動きに合わせて上下に手首を往復させるから、もう唇からは意味のない音しか出せなくなってしまう。
だからこそ、アスレイドは笑った。
その笑みの奥で、僕だけのノイン君になってくれたと、確かに思っていた。
「っ──! アス、レイド……、出る……っ」
背中に額を押し付けながら、ノインは眉間に皺寄せる。アスレイドの香りに包まれながら、それでも、自分では届かせられないと思いながら腰の重みを解放する。
ぐ、ぐ、とまだ硬さが残る陰茎を押し込むと、掌の中でじわりと湿り気が広がった。交わらなかったふたりの中で、何かが流れていく。
……俺は、あんたを壊したいわけじゃねえ。
もう一度、繰り返す。けれど、その先に続く術をまだ知らない。
壊さなきゃ届かないのか。
違うはずだと叫びながら、それでも答えは見つからない。
腕の中のアスレイドは笑んでいた。その笑みの意味を、ノインは最後まで掴めないまま沈む最中、ふと壁際に視線を投げた。
掛けられたままのコートが、裂け目を抱えた姿で沈黙している。黒い血痕が沈み、分断された端には毛のほつれが何本も立っている。アルヴァリオを象徴すると言っていた金色の刺繍は、もう元の形を思い出せない。
直るんだろうか。必死に堪えた余韻の中で、心の中で呟き、視線が落ちていった。
アスレイドは、その視線に気付いていた。
コートに向けられているはずの眼差しに、小さな兆しを見たような気がして、胸の奥がかすかに揺らいだ。
──自分を壊さないで繋がろうとする、ささやかな兆し。
その揺れは、痛みでも虚しさでもなかった。
まだ言葉にもならないままの、淡い予感のようなもの。
もし──壊さずとも繋がれるのだとしたら。
その可能性を、信じてみてもいいのだろうか。
けれど、そう思った瞬間に、胸の奥がきしんだ。
それでも、信じてみたいと思ってしまった。
でも、そんなことが可能なのだろうか。
切望した光を、得ることができるんだろうか。
いつの間にか与える側になってしまった僕が、壊れなくても、在れるのか。
壊されることでしか確かめられなかった自分自身が、それでも繋がれるのだとしたら。
もし、叶わなければ。自分には、──もう、在りようがなくなる。
その、未だ知りえぬ痛みを想像しながら、アスレイドもまた瞼を閉じる。
アスレイドが外へ出るようになって、真っ先に向かったのは仕立てが得意だと言っていた女性の居宅だった。
久方ぶりに教堂の主の姿を見とめて、手にしていた針仕事を机に投げると泣きそうな顔で笑いながら近寄ってくる。いきさつを説明すると長くなり、本来の目的が達成できそうになくなる。
だから、アスレイドは話もそこそこに、手にしていた血が残る白いコートを見せる。背中を大きく破かれ、黒くなった血痕が滲む白衣を見て、女性は手を口に当てて悲痛さに瞳を歪ませた。
「……お時間いただければ、縫い直すことはできますが、刺繍までは……」
背中には、アルヴァリオを象徴する金糸の刺繍が施されていた。
異形に抉られたその痕跡は、かつて何を描いていたのか。もう、アスレイド自身にも思い出せなかった。
「元通りにしなくていいんだ。これを、別のものに作り直してほしくて。できるかな」
それであれば、と女性は自信なさげに応える。北の貴族の衣など触ったことがないから、上手くできるかは分かりませんがと付け加えて破れたコートを受け取った。
具体的にどのようなものが良いかと尋ねられて、アスレイドは微笑んだ。
「うん、二つなんだけれど。一つは、僕のために。もう一つは……」
そこで言葉を切り、微笑みに紛らせた。
最も深い白雪の季を越えて。芽吹きの頃には、きっと彼と一緒に、新しい衣を迎えられる。これは、おそらく期待なのだろう。もしかしたら、掬われない願いなのかもしれない。
その矛先は、どこに向けられているのか、自分でもわからないまま。