第十一話
中枢に戻ってきてからというもの、気の抜けた毎日を過ごしている。
アスレイドとのことは、祈りが届いていなかったことが明らかになった後でも、特段変わりがない。求められるがままに、身体を差し出し、享楽の時間を過ごす。壊せば届くと思っていたのに。その祈りが否定された今の行為は、自傷行為にも似ていた。アスレイドの声も、熱も、喘ぎも受け取っているのに、何もかも届いていない。
けれど、その声が止まるのが怖くて仕方ない。止まってしまったら、いよいよここに、この世界に在れなくなる気がして、ノインはアスレイドを抱き続けている。
俺は、何をしてるんだろうな。
久々に戻った灰色の教堂は、花壇の幅が拡大していた。三人で見た時よりも更に色とりどりの花が、楽しそうに咲き誇っている。高い日差しのもとで水を撒きながら、ノインは日がな一日あてもなくふらふらとしていた。
アスレイドといえば、民衆に向けた朝の説話が終わって、聖堂で細かい片付けを行っている。二人でネルガルドを廻ったけれど、やはり東と中枢の祈り方は本質は同じなのかもしれない。しかし、それに至る準備や手順が異なるようにも思えた。最終的に目指すのが神の御座であるとしたら、本当はさして気にすることではないのかもしれない。もっとも、随分前に倫理から外れた自分にとっては、なんにせよ関係のない話だった。
柔らかな日差しが眠気を誘う。今夜も繰り返されるだろう祈りに備えてひと眠りしようかと思ったところで、人気のなくなった教堂の門に近付く人影があった。
アスレイドと同じ、否、それ以上に白い祭服を纏い、詰襟から長い裾で隠れる爪先まですべてが同じ色で染められている。だから一際目を引くのが、その髪の色だった。鉄のような赤褐に濡れて光を弾くそれは、まるで血が乾いてもなお、その熱だけを残しているかのようだった。
切り揃えられた一本一本の細い髪の表面にだけ、わずかに光が走る。冷たいのに、熱い。枯れたのに、まだ燃えているような。信仰の残火をそのまま髪にしたような色だった。
奉神官だと分かったのは、そのいでたちからだ。ここ中枢で四神の宣託を管理する者達は、皆決まった格好をしている。ノインを裁こうとした頭上の男達も、皆同じ格好をしていたし中枢で生活していれば見ない日はない。それでも、首から垂らした刺繍の入った金の帯が、見慣れた者達とは異なる立場の者であることを示していた。
男は、門前に立つと庭先から注がれる視線に気付いた。釣り上がり気味の瞳を細めながら睨み返してくる。
「……異端は、異端を呼ぶというからな。番犬の代わりか」
「ああ?」
まったく、ネルガルドの男は人を犬扱いする輩が多いのだろうか。その白さと対照的に、頭から爪先までほぼ黒く染まったノインの姿は見ようによってはそう見えるのかもしれないが、おおよそ初対面で随分な挨拶だとつくづく思う。
ノインの眉間に微かに皺が寄る。番犬なら、番犬らしい振る舞いを見せようではないかと一歩前に出た。男の視線が、ノインの姿を一瞥して鼻を鳴らす。
「生憎、犬に用はないのだ。取り次ぎなら不要だ」
「番犬だからな、鼻が利くんだよ。妙な奴には噛みつくように躾けられてる」
「どうやら、主の教育がなっていないようだな。主が狂っていれば、傍にいる者も狂うという訳だ」
「あんたの中じゃあ、そうなんだろうな。ああ、傍にいたのに狂えなかったってやつか」
「昔の話だ。今のあれは、もう、知らないものだ。お前の眼には相当よいものに見えるようだが」
「どれだけいいものだったか知らねえけど、俺は今のあいつしか知らねえからな」
「なんと浅ましい。過去のあれを知っているからこそ言う。……お前が隣にいる限り、あれは戻ってこない」
「戻らなくていいんじゃねえのか、戻る気もねえだろ。それに、あいつが選んだのがここなら、俺もここにいるだけだ」
「選んだ? 本気で言っているのか、それを。お前といるあれを見て、あれの誇りがどこに残っている?」
「誇り? は、何を見てたか知らねえが。俺にはそんなものがあったなんて見えねえよ。あんたの見てたのは、ただの像で、あいつ自身じゃなかったってことだろ」
門を間に挟んで、不毛な応酬が続く。話の中心となっている存在を置き去りに、言葉だけが熱を帯びていく。けれどそれは、いつまでも続くものではなかった。
ひやりと、この場の空気が冷えた。教堂の奥から、床を踏む微かな足音が聞こえてくる。
「……喧嘩は、庭の花が枯れてからにしてほしいな。水、撒いてたんだろう? ノイン君」
静かな気配とともに、アスレイドが光を払って現れる。コートを纏っていない姿は、喉元を隠す襟から靴の先までが真っ黒で、客と言ってよいのか分からない男と対照的だった。開かれた扉の中から姿が見えた時に、一早く身を引いたのはノインで。来客は、いかにも不機嫌そうな表情を崩さずに今度はアスレイドに言葉を投げる。
「アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ。かつて貴殿が記録、保管していた祈祷言語群の一部につき、精査および記録整合のための提供要請が通達されている。本日は、中枢奉神管、ヴェイス・イリドールがその通知および確認のために来訪した次第だ」
ノインと言い合った時とは全く異なる、形式ばった物言いでヴェイスと名乗った男がアスレイドに口上を突き付ける。アスレイドの身長より頭二つほど小さいというのに、その口ぶりは、天上から下された宣託の模倣のように高圧的だった。
それでも、アスレイドは微笑を崩さずに、偽の宣託を黙って受け取っている。眉一つ動かさない態度もきっと気に食わないのだろう。苦虫を嚙み潰すしたような不快感を隠さずに来訪者が続けた。
「……本来であれば、第三の手を通すべきだったが。相手が君となれば、直々の方が早いと思ってね」
「君と僕の仲じゃないか。そう、形式ばることもない」
軽口とも嫌味とも本心ともつかない言葉に、こめかみがひくりと震えたのをノインは見逃さなかった。何故かこみあげてくる笑いを我慢しながら、静かに閂を引く。ノインは、色の異なる二人の男が聖堂に入ったのを確認した後、誰も入ってこれないようにゆっくりと門を締めてその後に続いた。
既に人々の熱も失せた祭壇の奥では差し込む光に照らされた埃が、ただ静かに宙に浮いていた。ベンチに腰掛けるようアスレイドが促したけれど、用が終わればすぐに発つとヴェイスは固辞した。教えから外れたこの場所から一刻も早く抜け出したい。教えに染まりきっている男は、語らずにそう言っていた。
金糸の男が、聖堂の中央に据えられた小さな木机の傍まで歩を進めると、確認するように振り返る。
「随分、丁寧な言い回しだったけれど──つまり、昔の僕の書き残しが必要なんだね?」
ヴェイスは返事をしなかった。
その瞳の奥には、遠くを眺めるような光が宿っていたが、すぐにかき消される。
「……精査のためだ。形式的な整合を取る必要がある」
「変わらないね。昔から、そういうところ。でも、どこかに残っているはず。確か、このあたり」
思い出すように顎に指をかけながら、アスレイドは壁際に並んだ棚の一つに歩み寄る。古い書や、説話で使う小物が整理されたそこには、古びた紙束が数冊、麻紐で軽く括られていた。
彼はその一つを手に取り埃を軽く払うと、表紙の紙を一枚だけめくって覗き込んだ。
「……祈りの文が、文様の一部とされていた頃の記録だ。言葉というよりは、音と形の残滓。読めるかどうかは、わからないけれど」
そういって再び紐で括り直すと、男の前に立ちその束を無言で差し出す。
だが、ヴェイスはすぐには受け取らなかった。
沈黙が、落ちる。
ノインはその間、何も言わなかった。
ただ、アスレイドの差し出す腕と、立ち尽くすヴェイスの表情とを交互に見ていた。
「……君は、本当に、これを差し出せるのか?」
ようやくヴェイスの口から漏れたのは、先ほどとは打って変わって低い声だった。その声色に、過去に経てきたどのような感情が乗っているといるのだろう。きっと、ヴェイスが求めているものはそこにある。しかし、少しも喜びも満足感もない、ざらついた声。
聖堂の中で、息が詰まりそうになる。
「あの頃の祈りだぞ。君がまだ、神の声を語れていた頃の──」
最早、形式の鎧を纏うこともできていない、きっと、本当の彼に近い口調。その声を聞いて、アスレイドは微笑のまま、言葉を遮るように静かに返す。
「語ってたんじゃないよ。……語らされてたんだ。多分、君が見てたのも、そうだったんじゃないかな」
再びの沈黙。指先が、ほんの少し、震えた。
ヴェイスは無言のまま、アスレイドの手から紙束を受け取る。
「中を覗くなら、ここでどうぞ。外の光じゃ、文字が滲んで読みにくいと思うから」
気遣うような声音すら、ヴェイスには刺さるのだろう。明らかに苛立ちを押し殺すように、ただ紙束を懐に仕舞い込む。
「……用は済んだ。これで失礼する。ここに来たのは、あくまで、第五神の伝承的検討のためだ」
くるりと背を向け、彼はもう一言も発することなく門へと歩き出した。
ノインは、しばらくそれを見送っていたが、やがて振り返って、アスレイドにぽつりと問いかける。
「あれは」
「ヴェイス君だよ。中枢きっての、天才と呼ばれているね。歴史上最年少で奉神官になった」
「随分ご熱心な奴じゃねえか」
揶揄うような言葉に、アスレイドは同意をせずふふと短く笑う。ノインは続けて、もう一つの疑問を投げかけた。
「……渡しちまって、よかったのか」
「うん。あれは、昔の僕の祈りだから。……君と、探したものとは、違うものだよ」
アスレイドの声は、どこまでも穏やかで、でもその奥にあるものは、ノインにはまだ掴めない。
ノインは、軽く息を吐いて天上を見上げる。そのまま言葉を継がず、扉の向こうへと消えていったヴェイスの背中を、どこか、懐かしさすら覚えるような目で見送った。
西陽が落ちきる直前の空は、まるで燃え尽きる寸前の灯火のように朱に染まっていた。
ノインは昼間に水をやってまだ湿り気が残っている花壇の前に再び立ち、白い建物の隙間で潰されていく夕日を眺めていた。
気付けば獣の尾のように長く伸びた後ろ髪が、風に揺れるたび、薄く撓んでは跳ねる。夕暮れの微かに冷たい風が耳の横をかすめて、黒と白の混じった髪が残光に染まることなく揺れる。
陽が高い内はアスレイドの隣にいることを避けているような気もする。夜にはあの微笑みで当然のように彼の部屋に誘われるから、ノインは中枢に戻ってからというもの、与えられたベッドに横たわった記憶がない。
西の森で、アスレイドに優しく拒まれた時、今度こそ自分の足元から世界が崩れ落ちていく気がした。アスレイドの背を追うままここに戻ってきたけれど、まさかまた手招きされるとは思っていなかった。まるで、当然のように。湯浴みを終えたアスレイドは、日付が変わる前にあの形のよい唇で、ノインを誘うのだ。
何がしたいというのだ、彼も、自分も。
──壊せば届くと、そう思っていたのに。
風が吹くたびに花壇の草花が揺れ、黄や白の花弁がゆっくりと宙に舞う。
ノインは、その花々のどこにも触れずに、ただ立ち尽くしていた。
一日が終わっていく。
けれど、何も変わらなかった。
どうせ、また呼ばれるのだろう。
黒い衣の裾をめくるのは、いつも自分の役目だ。
今夜も、また。
溜息にもならない吐息を小さく吐いて、教堂の中に戻ろうと踝を返した時だった。
「花を眺める趣味があったなんて、意外」
唐突にかけられた声に、ノインはわずかに肩を揺らす。振り向かずとも分かる、気配。声色。
軽く首を捻れば、教堂を取り巻く塀の上で頬杖をつくリュエルの姿があった。
「……あんた、いたのか」
花壇に咲く花を集めたかのようなその姿は、南であった時より更に鮮やかに見えた。首を軽く捻って見せれば、横顔を見えたことが心底嬉しそうに笑う。
「たまたまね。中枢に呼ばれたから寄ったの。ここで、こんなに愛が溢れる花が見えるなんて。わざわざ来た甲斐があったわ」
「手入れしたのは、俺じゃねえけどな」
「あら、きっかけはあなたじゃない?」
確かに花の位置は変えたけれど、その後のこまめな世話はノインが施したものではない。むしろ、その後直ぐにネルガルドを巡ってしまったから、その間のことは何も知らない。
彼女は、足元で咲く花々を見ては瞳を細めた。おそらく、真意はそこにはない。その仕草にノインは気付く素振りもみせず、艶やかな花弁に視線を向けたまま。
「……ねえ、あなた。祈ってたのって、いつ?」
唐突な問いに、心の真ん中を穿れた気がする。祈り、祈り。届かなかった祈り。そもそも、祈りとはなんだったのか。子どもの頃から教えられたものはずいぶん遠くにいってしまって、信じたものは打ち砕かれて。今では、祈りが何だったのかも分からない。
リュエルの声色は、初めて会った時と同じように軽やかだった。でもその言葉だけは、胸に風穴を開けて背骨に突き刺さるように重かった。
ノインは、答えることができずに足元の白い花にそっと視線を落とす。
「壊せば届く、って思ってたのよね。あの夜も、今も。ずっと、そうやってた」
「……」
なぜなら、それしかなかったからだ。彼が、望んだからだ。それしかなかったからだ。そうしないと、在れないと思ったからだ。
それでも、祈りは届かなかった。届いていなかった。
押し黙ったノインを責めるわけでもなく、だからといって諭すわけでもなく。夕餉の献立を考える悠長さで、リュエルの言葉が続く。
「……あなたの祈りって、誰に向いてたんだろうね?」
「……、俺は」
開きかけた口は、その先の言葉を紡げない。
ノインは、ゆっくりと視線を彼女に向ける。リュエルは頬杖を崩し腕を塀の上に添えると、その上に頬を乗せた。
「言葉にしなくていいのよ。だって、言いたくないじゃない」
自分は、誰に祈っていたのだろう。リュエルの問いが、遅れて思考に浸透していく。アスレイドに、乞われたから、だったんだろうか。アスレイドが、祈れと言った、から。……誰に?
リュエルは少し笑う。その笑みの奥に、ほんの少しの寂しさが滲んで見えたのは、沈みゆく夕日が感傷を引きずっているからかもしれない。
「でもさ、あなたのいいところって。届かなかったと気付いても、やめないところだと思うの」
止めたいさ、こんなこと。
内心では叫びたかった。存在の輪郭がはっきりしないで、生きているのか死んでいるのかも分からない、変わらない毎日を過ごすのはもううんざりだ。ただ、アスレイドが。優しく笑って求めてくれるから。あの瞬間だけは、確かにここにいていいのだと思うのだ。
夕焼け色の髪が、夕陽と同化する。形の境を消していくように。
「ただ、そのままだと。……届かないまま終わるんじゃないかな」
細められた瞳は、何かを賭しているような。穏やかなのに、切羽詰まっているような。その瞳を見ていると、何故だから胸が締め付けられる思いがした。
リュエルが向ける視線と、ノインの青が確かに交わった時。彼女は腕から顔を上げた。
「そろそろ、どこを見てるのか。決めたほうがいいんじゃない? ノイン君」
背中を押すようににっこりと笑ったと思えば、ぱさりと風が花を揺らす音だけが残った。一つ瞬きをすると、彼女の姿はもうなかった。
ノインは、目を閉じて呼吸を整える。
どこを見ていたのか。
今、誰に祈っているのか。
それすら分からないまま、夕陽は音もなく、沈んでいった。
いつものようにテーブルを挟んで二人、夕食をとるとアスレイドは先に風呂を終えた。自室のベッドに腰かけ静かに髪を拭きながら、窓の外の気配を感じていた。モノクルを挟まないで見る世界は、色が強すぎるようだと思う。目が悪いわけでも、色の受け取り方が違う訳でもないのに、世界が薄い膜を纏っているような。お守り代わりではあるけれど視界の補助を目的としないそれは、机の上に光沢を湛えながら置かれていた。
何もかもを覆うように黒く染まる夜の闇が、部屋中に残っていて、丁寧に壁に掛けた白い衣の裾に影を落とす。
扉をノックする音はなかった。
代わりに、足音もなく入り込んできた気配に、アスレイドは自然に微笑を向ける。
ノイン君。
その名を呼ぶ代わりに、手を差し出す。
心許ない灯しかない部屋では、言葉は祈りよりも音になりやすい。何か唇から零すより、触れるほうが確かだった。
彼の手が、ためらいなくアスレイドの手を取る。
ただ、それだけで分かってしまう。
まだ届いていないのだと。
軽く引き寄せると、ノインもいつものように隣に座る。湯浴みを終えてきたのだろう、体温とは異なる熱を纏わせながら高鳴る鼓動と微かに荒い息遣いを聞いていると、こちらの鼓動も律されていくようだ。
隣に座った男を、横目で見るとどこか切羽詰まったような、耐えているような表情を浮かべているものだから、アスレイドはベッドについたノインの掌の上に自らの指を重ねた。
それが合図だと言わんばかりに、少しだけ腰を浮かせたノインの身体がアスレイドに覆いかぶさる。衣の隙間から見える肌に唇を這わせられると、アスレイドがうっとりと吐息を零した。首元に舌を押し付けられた時、思わず目を伏せた。
祈りではないのだ、これは。
けれど、彼が求めるものはまだそれしかない。ただ、そうするしか知らないだけ。
だから、忙しなく軋む背にゆっくりと腕を回す。それでいいのだと、そのまま進んで構わないと。
ノインの掌が、衣の裾から滑り込んで脇腹を撫でる。身体の形を確かめるように、肌の上を滑っていく。その感触がもどかしくてアスレイドは身じろいだ。
「ぅン……っ」
触れられたところから発火しそうだった。ノインの身体がアスレイドをベッドの上に押し倒すと、寝間着を大きく捲り上げられた。短く上下する肌のあちこちに、軽い音を立てながら唇が吸い上げる。その、君が口付けたところから、僕という存在が飲まれてしまえばいいのに。
まさぐるように身体を這う熱を受けながら、アスレイドはゆっくりと瞳を閉じる。
君は、まだ知らない。僕が君しか見ていないことを。
ノインの指が、背の奥をなぞっていく。
繊細さと執拗さの狭間で、衣の下に忍ばせた手が、胸部から腹部、腹部から更に下へと徐々に熱を移していくたび、アスレイドの呼吸が浅くなっていった。衣を剥がされた肌が、外気に触れて小さく震える。
「……ん、ノイン君……」
掠れた声は、天井まで届かずに消える。
それでも、名を呼ばれたのを合図に、ノインは身体を起こすと袖のない肌着を脱ぎ捨てた。露わになった身体は、驚くほど細い。
鎖骨の下、胸板は厚くはない。それでも、僅かな幼さを残しながら削ぎ落とされた筋肉が鋭く立ち上がり、肋骨の影と混じり合って、骨と肉の境目を曖昧にしている。
かつて意思の地を駆け抜けた若い獣が、今、アスレイドの身を貪ろうとしていた。
「……また、笑ってんのか」
その短い言葉は、苛立ちのようで呆れのようで、諦めのようにも聞こえる。肌に絡んでいた衣の袖を抜きながら、アスレイドはやんわりと返す。
「そんなに、笑ってるように見えるのかな」
ノインはそれに答えず、勝手知ったる手つきでベッドの横にある棚の中から潤滑油の瓶を手にして戻ると、太腿を押し上げた。身じろぎの隙すら与えられず、露わになったアスレイドの中心に指先が触れた。
「ん、く……」
湿った指が、難なく中に入ってくる。もうすでに、内側のどこを撫でれば身が捩ることを知られているから、ノインの動きはアスレイドを試すように時に外し、時に狙って弱いところを擦ってくる。
「……っ、そこ、……や……ぁ」
「嫌じゃねえだろ、嘘吐くな」
控えめな抵抗をよそに、すぐさま深くまで触れられる。中指の第二関節まで挿し込まれた瞬間、喉の奥からくぐもった喘ぎが洩れた。
「っ、あっ……ん、んっ……」
もう、慣れた感触だった。
けれど、慣れてしまったことがどこか悔しくて、アスレイドは目を伏せる。
どこを探っても、全身が反応してしまうのは、もう知っているのだ。
ノインが、僕の身体のことを、きちんと覚えているのを。
君がこうしている時だけ、僕は、在ることを許される。
快感で壊れていくこの身が、僕という存在を再び構築するには、ひどく、できるだけひどく崩れなければならない。その破壊が苛烈であればあるほど、僕は生きているんだと、心から思える。
――その最中に、不意に鼻先をかすめる感覚があった。
花の香り。白く小さな花弁が夜風に揺れる光景が脳裏をよぎる。
夕暮れの空気の、あのひやりとした冷たさまで、腰に触れているはずの熱を一瞬だけ奪っていく。
部屋には花などない。生々しい体液の匂いで満ちたこの空間に、その香りだけが異物のように肺の奥へ沈み込んでいく。
その一瞬だけ、君がどこか別の場所で風を受けているように思えて、胸の奥が軋んだ。
指が何度も出入りするたび、勃ち上がった陰茎の先端から雫が静かに濡れて、布団に染みを作る。
くちゅくちゅと生々しい水音が、何度も小さく響く。
奥を掻かれるたびに足が震えて、膝が勝手に閉じようとする。けれど、逃げるより先に、片脚を肩に担がれる。身体の片側がベッドに沈み、横向きに傾いた視界がノインを捉えたのと同時に指が威勢よく引き抜かれて、またその感覚で甘く嘶いてしまう。
愛撫の名残で脈を打つように微かに収縮している奥の窄まりに、雄々しく天を向いていたノインの先端が口付けるように宛がわれ、湿った音を立てて熱芯を挿し込まれた。
「っノイン君、……まだっ、……ぉ゛、あっ!」
喘ぎが濁る。ゆっくりと、だが一切の猶予なく、深く、深くまで。一番奥まで、届かせるように。ノインの雄が、アスレイドの肉を割き分けるように貫いて、奥に届かせてくる。
入り口を広げられる感覚が、どうしようもなく快感で、どうしようもなく苦しい。どれだけ繋がってきても、どうしても暴かれる瞬間の、微かな痛みには慣れない。それでも、その痛みでさえたまらなく、かけがえのないものだと愛しく思うのだ。
腰が触れ合うたび、乱れた息が口から漏れる。ノインの手が、躊躇なく身体を引き寄せる。
そのたびに、どこかが痛む。優しすぎる痛みだった。
「やっ……あ゛っ……あ、ああっ……ノイ、ン君……」
首を仰け反らせて、布団に爪を立てる。助けるために集まったかのようなシーツの皺が深く刻まれたけれど、受け入れる熱を和らげることはできない。
自然に喉を吐く名前。体内に埋め込まれた存在が、確かなものだと言い聞かせるように。少しでも届けばいいなんて思うこともあったけれど。
その名を掠れた声で呼ぶと、ノインは僅かに動きを止める。その刹那だけが、通じ合ったように感じられるのだ。
突かれるたびに、下腹部で陰茎が揺れるのが見える。醜い、欲に濡れたそこが歓びの涙を流し続けている。穿たれるたびに、皮膚が音を立てて剥がれていく感覚だった。痛い、気持ちいい。もっと、この身を壊してほしい。そして、僕を、神様なんかじゃなくしてほしい。
この声が届かなくてもいい。
君の目に、僕だけが映っていれば、それでいい。
だから、気づかれなくていい。
僕が君しか見ていないことなんて。
唇が首筋に触れたとき、アスレイドは小さく喉を鳴らす。
夜が深まっていく。
呼吸が熱を帯びて、浅くなる。
ああ、気づいてほしい。
でも、気づかないでほしい。
君に知られてしまったら、もう赦されてしまうから。
──このまま、終わってしまえばいいのに。
そう願いながら、アスレイドはノインの腰を掌で強く引き寄せた。一際深くなった結合で、ノインの肌を、体温を身に沁み込ませたいと強く願いながら。
もっと深く。
もっと奪って。
もっと、もっと、知らないままでいて。
「ノインくんっ……」
君にとっては、ただの夜でも。
繋がっていなくても、僕は君から視線を外せない。
知られなくていい。けれど、見ているのは君だけだ。
瞬きすら惜しむように、アスレイドの視線はノインの瞳だけを見ていた。その熱がふっと、深くなる。
……君がいるなら、それでいいんだ。
ノインは、その言葉を冗談めかした照れ隠しと受け取ったのか。一瞬、視線を逸らすように笑って、それ以上は踏み込まなかった。けれど、その手は、まるで何かを確かめるように背を強く抱き締めていた。
やがてノインの呼吸が穏やかになり、寝息に変わる。
アスレイドはその顔を、夜の静けさに溶けるまで見つめていた。
目を閉じても焼き付いて離れない光景を胸に残し、静かにベッドを抜け出す。衣擦れも立てずに室内着をまとい、まだ夜明け遠い聖堂の扉を押し開ける。
しんと静まった中枢には、誰一人の影もない。建物の隙間から漏れる灯もなく、見上げた空には遠い星々が光を湛えていた。
頼りない明かりを背に、アスレイドは丁寧に手入れされた花壇の前に立つ。
瞳に映る彩どりは、異質であった。じきに、中枢には北から流れてきた雲が冷たい雪を降らせることを知っている。花が咲くには遅すぎる。にもかかわらず、足元にはこの時期では見られない、生命のきらめきがあった。
「……白雪の季に、まだ残っているのか」
あの子たちが持ってきた花の種。庭は空いているから、好きな場所に埋めていいと告げたのは自分だった。毎日のように水をやる姿は見てい た。けれど、芽が出ぬことに落ち込む背中ばかりを覚えている。
やがて、小さな花弁が土を破った日。
その根は、最初の場所から移されていた。
ノノが、こっちがいいって。可愛らしく告げられ、アスレイドはそう、ノイン君が。と返したきり、続く言葉を見つけられなかった。
咲く場所を変えた花は、土中の仲間を呼び起こし、今では誇らしく群れ咲いている。
夜風に揺れる花弁は夜露を帯び、微かな香りが、つい数刻前に肌の奥で感じたものと重なった。触れずともそこに在る。花の冷たさとともに、その感覚が指先から胸の奥へ沁み込んでいく。
咲く場所を選び直した花。
触れた温度はもうないのに、そこには確かに彼がいた。
彼が触れていった証が、そこには確かに残っている。
「あなたたち、同じことをするのね」
きい、と門がわずかに軋み、金属音が夜気に滲む。
滑り込むように現れたリュエルが、軽やかな足取りでアスレイドの横に並んだ。誰と同じことをしているのか──それは問わない。
「セディが泣いてたわ。もう、あなたの中に入れないって」
セディ。誰の名だっただろうか。リュエルの口から出るということ、泣いていたということ。そのことから、南で一夜を相手にした誰かだということは推測できる。しかし、数が多すぎて誰のことなのかは、正直分からない。
今までもそうだった。たくさんの人が、自分のことを神だと評してくれた。説話の後に歩み寄り、アスレイドに対し私の神様ですと言ってくれた者の数も、もう両手では足りない。それ以上に、一糸まとわぬ姿で語られる祈り。その無防備さは、まさに捧げるという形容がふさわしかった。
ある者は泣きながら、ある者は笑いながら。くちびるが、光だと讃えてくれるたびに、アスレイドの肌は輪郭を失っていくのが自分でも分かった。
「……そう」
それ以上の言葉もないアスレイドに、リュエルは続ける。
「これから南に帰るのだけれど、あなたの顔を見ておきたくて」
「一人で帰るには、遅すぎる時間じゃないかい」
夜明けまではまだ遠い。開けた道を行くとしても懸念は残る。そんな心中を見透かすように、リュエルは口角をわずかに上げた。
「シュレインとしてのあたしを知っているでしょう? それに、あなたはもう、付いて来られないじゃない」
花壇をかすめた夜風が、二人の間を通り過ぎる。星明かりに浮かぶ白い花弁が、ひとひら音もなく落ちた。それを視線で追いながら、リュエルは何かを量るように黙っていた。そして、静かに。口を開く。
「昔はさ、祈りが世界を変えるって本気で思ってた。……あなたが、そう言ってたから」
「今は?」
「今もよ。でも……名前のない祈りは、届かないわ」
リュエルは笑みを保ったまま、水底のような静かな寂しさを滲ませる。
本心を掠めるような言葉に重みがないのは、きっとまだ確信に至ってないからだ。それでも、おそらく芯に近いところに届きかけている。そんな些少のもどかしさを孕んでいた。
「──ねえ、あの子だけを見てるんでしょ?」
それは、変わっていく祈りを築けそうな、その在り方への、小さな悔しさ。
かつて自分が至れなかったものが、形を持ち始めている瞬間を見てしまった──その事実が、静かに胸に爪を立てている。
不意に投げられた言葉に、アスレイドは何も答えなかった。
花壇の前、夜気に揺れる影が長く伸び、白い花影がかすかに震える。
胸の奥で答えはとうに決まっている。けれど、祈りに名前を与えてしまったら、赦しに似てしまう気がしたからだ。
祈りに満たされない虚無の中で、救いではなく、ただ在ることを見てしまった。その事実が、ゆっくりとアスレイド自身の祈りを破壊していく。
「……中枢がね、異形の生まれが観測された場所があるって言ってたわ。一つは、南に戻るところ。もう一つは、北に向かうところで」
風が、まだ遠い朝を連れてこようと柔らかく靡く。二人の髪が、そのそよぎに乗って揺れた。
「北の方は、あなたに話がくると思う。……ヴェイス奉神官が、言ってたから」
「……僕の知っている場所、ということか」
リュエルは、それ以上の言葉を紡がずににっこりと笑って見せて、門の前で一度振り返り、白い花弁の揺れる庭を見渡した。
「──まだ第五神を探してるのね。四神の座の次、空白の神の椅子、だっけ。あなたが昔に言ってた」
アスレイドの目がわずかに揺れたが、口は噤んだままだった。
「まあ、神様の名付けごっこね。おかしいでしょ、空白を埋めるために祈りを作って、光を見せて、それで完成だなんて。……世界はそんなに単純じゃないのに」
「……続けるつもりなんだね、まだ」
呟くようにアスレイドが言うと、リュエルは肩を竦めてみせた。空気を払うように身を翻すと、ノイン君によろしく伝えておいてね、また南に遊びにきてねと鈴の音を響かせ、門を静かに押した。
羽を持つかのように軽やかに揺れる結った髪とスカートが夜気に遠ざかり、やがて闇に溶ける。
アスレイドは、その背をただ一人、見届けていた。