四神の御手にて作られし魂が、その御座に還ることを心より願う
――――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ

第八話

 

 吹き抜けるような風は少しも湿り気を帯びていない。まるで、そんな感傷は荷物になるだけだと、この地で吹くウィルナの吐息はいつでも軽く身体を押してくる。
 音もなく揺れる、膝下の高さの青々とした草原を、会話もそこそこに歩く。東の民は、道を作らない。それは、自らの意思は誰かの礎にはならないという、自由と選択を重んじる土地柄だろうか。だからこそノインは、奇麗に整えられた中枢の白い石畳の感触に爪先が慣れるまでしばらくかかった。
 それなのに、今靴裏に感じる柔らかい土草の感覚に慣れない。改めて、自分は既にこの地の者ではないと突き付けられているようだった。
 フードと前髪とで狭められている視界の先には、アスレイドの白いコートが揺れている。刺繍が施された裾は、東の風に吹かれていてもどこか重みを感じられる。穏やかな日差しのもと、一面に広がる草原の中をひたすら歩き続けていた。
「ノイン君。……、まだ後ろにいる?」
 振り向いたその表情は、いつも通り静かな微笑みを湛えたものだ。付いてきているかどうかを伺うその言葉の底には、輪郭のない幼さが透けて見える。いつも通りの、芯のある声だというのに、風に乗って消えるような心細さが感じられた。
 それは愚問というものだ。ノインは、アスレイドなくしてはこの世界にいられない。更に言うなれば、アスレイドに祈らなければ、生きていけないのだ。思えば中枢教区に連れられて断罪を待っていた中、拾われてしまった身であるのだ。今更男の手から逃れてどこへ行けばいいというのか。既に東の地を捨てて随分経つけれど、今では祈る神もない。空いた神の玉座にアスレイドを仮置きして、何とか正気を保っていると言っても過言ではない。
 返答のない様子をさして気にすることもなく、アスレイドは金色の髪を風に揺らしながら言葉を続けた。
「風が……赦すように吹くから、分からなくなるよ。何を許されてるのか」
 きっとその台詞は、ノインに向けられたものではない。気まぐれな東の風に乗せるような独白だった。
 赦す、許す。何にそれを乞うというのか。神がいないことなんてとっくに分かりきっている。罪を犯したノインを誰も裁かなかったように、この世界は最早神の祝福はない。ただ、それに縋っていないと不安になるから、誰もかれも誂えた枠組みに則っているだけだ。だからこそ、形ばかりの中枢の裁判も、教典に背くアスレイドの在り方もそのままでいられるだけなのだ。
 では、自分は。ノインの青い瞳が知らず細められる。自分は、何を許せるというのだ。誰からも赦されていない自分は、何ができるというのだ。
 南の地を発つときに言われた言葉が今更ながら胸を打つ。アスレイドの中に入っていったと言われた自分は、アスレイドに許されているのだろうか。そして、赦されるためには何をすべきなのか。
 立ち止まると無駄な考えが巡るから、東の地の民は走り続けろと幼いころから教えられる。ウィルナの風が止むとき、意思の民は選択することができなくなるのだと。意思を失くした自我は、与えられた選択を前にとまどうしかなくなるのだ。
 だからこそ、ノインは歩き続けたかった。アスレイドの言葉が答えを求めていないのなら尚更だ。すべての決定を託されているようなこの軽い風が、ノインの背中を静かに押し続けている。
「この風、どこまで君が僕を祈ってくれるか試してるみたいだね」
 祈り。祈りってなんだ。俺は、誰に祈ればよいというのだ。
 祈りは既に崩れて消えている。幼馴染をこの手で殺めたあの夜から、どれだけ祈っても神は沈黙したままで、何もしてくれていない。だから、祈る、という行為はノインの中では無価値なものとなって久しい。
 自分は、アスレイドに何をしているというのだろう。毎夜毎に行なう無体が祈りだとでもいうのか。あれが、祈りか。未だ瑞々しさの残る張りがある肌に唇を滑らせ、形の良い骨格を、筋肉をなぞり、最も奥を暴くあれが。自分はただ、アスレイドの乞われるままに。
 ここまで考えて、下腹部が熱くなるのを自覚する。ああやはり、歩調が遅くなればなるほど碌でもないことを考えてしまう。
 アスレイドが前を歩くたびに、裾が風に揺れる。ノインはその揺れに手を伸ばしたくなる衝動を、靴音に変えて殺した。
 俺は、祈ってなんかいねえ。ただ。
 熱を帯びた空気が覚めたのは、やはりアスレイドの声によるものだった。腕を伸ばして指し示した先に、草原の中で三角形のテントがぽつぽつと身を寄せ合っているのが見えた。

 風にあおられる布の屋台が連なり、草の匂いと異国の香辛料の香りが交じり合っていた。杭と布だけでできた小さな商いの形が、まるで生き物のように息づいている。それは町というより、流浪の民が一時的に腰を下ろした野営の市場だった。定住の香りはなく、それでも火の煙と笑い声が草原に溶けていた。
 東の民は、この広い草原を季節に合わせて移動し続ける。地域によっては定住地を決める者達もいるそうだが、ほとんどはこのように移動した先で幻の町を作りながら生活をしていた。
 ウィルナの加護を受けた民は、風と共に在ることを選び続ける。その風に吹かれて、どこに行くか、何をするかを常に問われ続けるのだ。
 流石のアスレイドも東の文化は物珍しいようで、軒先に並べられた品々に興味深そうに視線を落とし続けている。がやがやと賑わいを見せるまぼろしのような営みの中で、ノインは懐かしさと同時に居心地の悪さを感じ続けている。
 この在り方も、踏みしめた草の香りも、すべてが血肉となっていた筈なのに。今では剥がれ落ちたかのように実感が沸かない。二度と踏み入ることはないと思っていた東の地は、最早ノインをウィルナの民として祝福しない。生の音と色と匂いで満ちているというのに、すっぽりと自分自身の輪郭が抜け落ちていくかのようだった。
 少しでも世界から零れたくなくて、隣で目を輝かせている男に低く声を絞り出す。
「……面白いのか、あんた」
 その音は、アスレイドの鼓膜を無事に叩くことができたらしい。翠色の瞳を細めながらにこりと笑ってみせる。目深にかぶったフードの下でも、その笑みが嘘を吐いていないことは分かった。
「そうだね、興味深いよ。君が失くしたものの形を、少しだけ拾える気がしてね。……もちろん、僕には拾えるだけ、だけど」
 今更何を得られるというのか。得たところでなにができるというのか。あんたに拾われたって、俺の祈りは戻らねえよ。
壊したんだ、あの夜に。俺が、俺の手で。
「……そうかよ」
 これ以上語る言葉もなく、ノインはそれきり押し黙ってしまう。あとは、あちこちの露店へとふらふら立ち寄るアスレイドの背中を追いかけるしかない。
 何度目かの立ち止まりに溜息も吐けなくなった時、後ろから潜めた声で名前を呼ばれて振り返る。そこには、昔の、ノインがいた地区に住んでいた同郷の男が立っていた。フードで顔を隠しているとはいえ、見知った者に認識されたことに背筋が凍る。
「お前、中枢に行った筈じゃあ……生きてたのか」
「……死に損ねただけだ」
 覚えている。惨劇の夜、赤く濡れた身体が横たわる場で、後ろに手を回されて地面に押さえ付けられた時。ノインを中心に囲んだ人だかりの中で顔を青くしていたか。とはいえ、あの場にいた者は全員真っ青な顔をしていたが。
「……心配しなくても、お前がここにいたって事は言わないよ」
「は、死んだ人間を見たなんて言ったら、幽霊でも見たのかって頭を疑われるだろ」
「俺は、俺達は。……お前を裁けなかった側だから。でもお前は、自分で選択したんだろう? 新しい生き方を」
 ケープの下で握り締めた拳に自然力が込められる。選んだというのか。まさか、自分は選んで生きている訳じゃない。もう、選択肢なんて与えられていないというのに。
 そもそも。あの夜、あの子の唇が動いたから。だから俺は、殺すことを選んだ。その結果、選ぶことを奪われたのが今だと言うのに。俺が祈ったから、あの子は。
「……選んだ訳じゃねえ」
「それでも、お前は、生きてるじゃないか」
「……」
 どうなんだろうな、という言葉を飲み込む。アスレイドの教堂に置いてもらい、とりあえずの衣食住に困ることはなくなった。今はこうして二人でネルガルドを廻っているが、そもそもどれもノインが決めたことじゃない。
 あの夜からノインの傍に在ったのは、この苔色のケープと、腰に差した使い古しの短剣だけだ。それ以外、自分には、なにもない。何も選べていない。
「ノイン君」
 少し離れたところから聞こえたアスレイドが、こちらの名を呼ぶ。どこか、声に迷いがあった気がした。けれど、それでも確かに、自分の名を呼んだ。ノインは内心助かったと思いながら、旧知に背を向けると声の主の許へと踵を返す。頬を、東の風が軽やかに叩いて黒と白の混じった髪が微かに揺れた。
 俺は、生きてるのか? それとも──、まだ、あの夜の続きをやってるだけなのだろうか。

 エクルシエルの手がかりはなかったと言うアスレイドに、並べられた品物を見ていただけではないかと言う気にもなれず、二人はその場所から離れる。離れたところで一際深い緑色が見えたから、アスレイドは草原にも森があるんだねと軽く笑った。
「……よく行ったとこだ。今夜は、あそこで野宿だな」
 小さくなったテントの群れを振り返りもせず、今度はノインを先頭にして歩く。木漏れ日の間から振る日の光は、夕暮れに染まり始めていた。耳を澄ませば近いところで鳥の囀りが聞こえる。ああ、ここも変わってないのだなとノインは一人、どこか安堵した。
 立ち止まりアスレイドの方に向き直すと、辺りに人がいないことを確認してからフードを剥ぎ取る。漸く、アスレイドの形をはっきりを見ることができた。
「川が、あるから。水には困らねえだろ。食い物は……」
「それなら心配いらないよ。さっき、調達したから」
 アスレイドは、小さな革袋の中から干し肉とパンを出して見せた。いつの間に買っていたのやら、と呆れる前にとりあえずの食事の心配がなくなってノインは緑の中を再び歩き続ける。
 小さく聞こえてきたのは、川のせせらぎの音だった。清流が静かに水の音をたたえながら水面を煌めかせている。やはり、覚えがあるところに足は勝手に向かうものらしい。
「昔、よく来たんだよ。忘れてた筈なんだけどな」
 ノインの言葉に、アスレイドは何も言わなかった。ただ、ちらりとノインの足元、草の間にちらつく小石の輝きに視線を落とすと、また川面へと目を戻した。
「……そうだ、思い出した。ここだ。昔、ここで……」
 ノインは足元の感触を確かめるように、草を一歩踏みしめた。そして、アスレイドに腰元に携えていたダガーを見せる。刃を覆う獣皮のカバーも、柄に巻き付けた布も、馴染みすぎて黒く汚れてしまっているけれど。
「このあたりで、拾ったんだ。……俺が、まだ誰かを祈れると信じていた頃の話だ」
 アスレイドの翠色の瞳がひと呼吸、刃先に視線を落としてから、ノインの顔に戻る。
「……そう」
 けれど、それ以上は何も言わなかった。
 ノインは短く息を吐くと、刃を再び腰に戻す。見たところで面白いものでもないだろう。
 日が暮れる前に野営地を決めようと、彼はまた足元の草をかき分けるように川辺を歩き出した。
 しばらく歩いた中で、先に足を止めたのはアスレイドだった。背中で聞こえてきた草を踏む音が聞こえなくなったところでノインが振り向くと、翠色の視線が川岸の足元に注がれている。
 近付いてみたら、そこには手のひらほどの大きさで蠢く黒い塊があった。コイン程の大きさの窪みが三つ、あるいは四つか。大きく小さく収縮させながら不定形な形を野に晒しているところであった。
 いつか、アスレイドの教堂の地下で見た異形の首を思い起こさせる。土地のせいか、ノインの頭の奥で名を呼ばれた気がした。
 ……違う、声なんて、聞こえるわけがない。
 けれど、もしあれが、あの子だったとしたら。
 たった一度だけでいい、俺の名を、と。
 近付くためにもう一歩踏み出そうとしたとき、アスレイドの声が静かにそれを止めた。
「……放っておいても、消えるよ。これはもう、祈られることもない」
 異形がこの世界にある理由。ノインが祓ったあの黒い影。この世界に留まるのは神の倫理から外れ、どこにもいけなかった記憶や執着の成れの果てだろう。そんな道外れた者が灰となり消えるには、祈りが必要だったはずだ。この、行き場をなくして揺れる異形は、誰にも祈られることなく、灰にもなれないまま消えていく。きっとそれは、形崩れてもなお、神の道から外れ続けるのだ。シュレインの口は、そう語った。
「君が祈ってたものじゃ、ないだろう?」
 いつでも、アスレイドの声は優しくて。何かを見るように穏やかな瞳のままだ。
 それでも、似ていたのだ。目の形か、声の残響か。わからない。
 けれど、あれがあの子だったと思えた方が、楽だった。そうすれば、もう一度祈る必要なんてないのだから。
 これ以上眺めているとやはり妙なことを考えてしまうから。森に来た時より日の光が昏くなったことを理由に、ノインはアスレイドに背を向けて歩き出した。
 背を向けたノインの影を、アスレイドはしばらく見送って、川面に映る影を一度、そしてもう一度、静かに目でなぞる。
 そのまなざしに、わずかに揺れるものがあった。
 漸く、寝床になるだろう場所を定めて腰を下ろす。落ちていた枝を集めて火打石を弾かせると、火の手が上がった。すっかり暗くなった森の中、柔らかな灯りが二人を照らす。
 焚き火の熱に肩をゆだねるようにして、ノインがケープを外す。袖のない肌着から覗く鎖骨を、炎の赤が静かに撫でていく。
 アスレイドは気付かれないように、皮膚の上で彩る色の移り変わりに視線を這わせていた。ぱち、と乾いた木が小さく爆ぜる音が、沈黙の中にアクセントをつける。
「……さっきの影」
 火を見つめたまま、アスレイドが静かに言った。白いコートは折りたたまれ、身体の横に無造作に置かれている。
「君は、あれを知っていた?」
 もう一度、火が鳴いた。ノインは直ぐに応えず、ただ一度だけ目を閉じる。その穏やかな動きが、何かに手を伸ばしているように見えて、アスレイドの胸の奥がじわりと赤く染まる。
「似てたんだよ。……誰かに」
 ノインは最後まで返さなかった。そして、その後に続いた沈黙は否定ではなかった。ぽつりと零れた言葉には、誰に向けたのか分からない戸惑いがあるのが分かる。
 アスレイドはそれ以上問い詰めなかった。ただ一歩近づき、ノインの頬にかかる髪を指先で払う。くすぐったそうに、青い瞳がひくりと戦慄いた。その瞳が、自分を見ていなかったと気づいた時。ほんの一瞬、アスレイドの呼吸が浅くなった。
「君の目が……僕を見てくれてたら、それでいい」
 炎の揺らぎに重なるような囁きだった。アスレイドの細い指が、黒いシャツの隙間から入り込んでノインの腹筋をなぞる。既に、どの部分にどのように触れられれば身を捩らせられるか知られてしまっているから、自然に下腹部が熱くなる。
 薄い唇が露出した肩口にあてられて、音を上げながら吸い上げられる。静かに、ゆっくりとノインの身を昂らせる動きはどこか緩慢で何かを探しているかのようでもあった。
「――ぅ、ん」
 モノクルのチェーンが、這い回った舌の跡を追うように肌に張り付く。腹筋で遊んでいた両の手は、胸元の筋をなぞって指先をそれぞれの胸の天頂に留まらせた。優しく力が込められるのと同時に、首筋から耳の付け根へと唾液を纏った舌が這い上がる。
「ぁっ……!」
 ズボンの下で息衝き始めた肉茎がじくじくと熱を帯び始める。ノインの喉がかすかに喘ぎを刻んだのを、アスレイドは見逃さなかった。細く笑んだ口元は、まるで赦された音を聴くかのようにゆっくりを口角を上げる。ぬめる舌が、微かな星の月明かりを帯びてねっとりと煌めいた。
 焚火に照らされた白い指先がシャツの中から這い出ると、緩やかに太腿を撫でる。ベルトのバックルに手を掛け、ノインの許可を得る前に頭を擡げさせている楔を取り出した。うっとりとその有様を瞳を細めて眺めたあと、長い睫毛が伏せられる。
「ぅあ、あ……っ」
 くぐもった声が、張り詰めた股間の根元から立ち上がる熱に溶け込んでいく。前口上もなく、ただ静かに。アスレイドは、己の唇でノインを咥えた。
 水音と、火の爆ぜる音の中で、そこだけが別の旋律を奏でていた。舌先が亀頭をなぞり、鈴口を指先で拭うように押し上げ、くちゅ、と唾液が深く絡みつく。水浴びも済ませていない、一際強い体臭にも関わらず、アスレイドはすべてを舐め取る動きで舌を這わせる。張り詰めた亀頭を飴でも舐めるようにびしょびしょに濡らし、浮き出た血管を爪先でやんわりとなぞる。ノインはその姿を見下ろしながら、背筋をわずかに反らす。青い瞳が、夜の底で燃え上がるように光を宿していた。
 今までも何度も口腔で愛撫されたことはあったけれど、アスレイドの口はいつでも、奉仕でも義務でもない、ただの欲が滲んでいた。
「祈るようにって、言っただろう?」
 ぴちゃりと、体液で汚れた口元から熱を孕んだ言葉が零れる。その意味を捉えるには、冷静さがまったくもって足りない。形の良い口唇で扱かれ、肉厚の舌で甚振られた熱は、今すぐにでも味わい慣れた肉壁に包まれたくて先端から透明な雫を零し続けている。
「なにいって、っ、ぁあ、」
 言葉は、再び口腔に包まれた感覚によって最後まで紡がれることを許されない。きつく窄まれた唇で上下に擦られて、いよいよ熱が出口を求めて体中でぐるぐる回る。
 呻きながら仰け反った腹の筋が、焚火の明滅に照らされて陰影深く浮かび上がる。その動きを、アスレイドの翠の双眸が、咥えたままそっと見上げていた。唇に肉芯を咥えたまま、視線だけが、まっすぐノインの顔を探している。
「……っ、あ……そ、んな目で……っ」
 そんな目で、見ないでくれ。俺を赦すような、底の見えない瞳で。
 上擦った喉が、湿った吐息にかき乱されて音を漏らす。突き上げる快感が脳髄の奥で火花のように跳ねて、腰がひとりでに浮いた。
 舌先が、張りつめた先端を捏ね回し、鈴口に唾液を擦り付けてぬらりと這う。
 飴を舐めるなんて生ぬるい、しとどに溢れる液をすべてすするように、じゅる、じゅく、と咥え直す音が水音に混ざる。
「あぁ、っ、う、あ……ッ」
 なのに、腰は逃げない。言葉の裏腹に、熱の芯はぴくりと跳ねている。まるで、祈っているのは自分だと、そう思い込ませるような。汚されているのはアスレイドのはずなのに、唇で、舌で、眼差しで。赦されてしまっている。
「……っ、くそ、俺……」
 息の切れ間で洩れたのは、抗いと、甘えと、欲の名残だった。ぴくぴくと茎が戦慄いたタイミングを見計らって、アスレイドはゆっくりと動きを止めると、ちゅぽんと間の抜けた音を立てながら肉茎から口を離す。先端と唇とに銀糸が引いたけれど、すぐにぷつりと途切れた。
 アスレイドの手に押されるまま、湿った地面にノインの背が横たえられる。川辺からはみ出した膝下が、冷たい水の中に沈んで僅かに眉を潜めた。布が水を吸って、緩やかにくすぐるようなその感覚は、次第に現実から乖離していくように身体の境界を曖昧にしていく。
 金色の髪が揺れて、スラックスと下着とを脱ぎ捨てた裸体が覆い被さるようにノインの腰に跨ってきた。ほんの少しだけ指先で触れて勢いを確かめた後、手を添えながら自らの奥の窄まりに熱芯を導いた。水の音と焚き火の爆ぜる音、荒い二人分の吐息が、沈黙の間を繋いでいる。
ノインの掌がアスレイドの太腿に添えられ、期待するように二、三、撫でたときだった。
 翠色の濡れた眼差しが、ふと空を見上げるように揺らぐ。既に夜も深い森の中では、星の一つも見えやしない。だけれど、求めたくて仕方ないというような。
「……僕はね、ノイン君」
 一拍置かれた声は囁きというには明瞭で、だけど焚き火の影にまぎれてしまいそうな微かな響きだった。
「君が、祈る限り……赦したいと思うのだけどね」
 それが願いか、誘惑か、それとも──祈りの成り損ないか。
 ノインは答えなかった。けれど、その瞳で赦すと告げられた気がして。祈らされるように、屹立を上から沈められていった。
「っく、ぁああ、ああ……!」
 切なげに顰められた眉間の陰影を、炎が赤く照らす。歪んだ翠色の瞳は、欲塗れだ。身体の奥を見透かすようなその瞳に、ノインは一瞬息を詰めた。
 ああ、この男は。こんなにも自分を見つめて。欲しくて欲しくて堪らないと、ノインをすべて飲み込むような在り方をしていた。
 その姿がひどく淫らで、ここではじめて赦されたように思えて。ノインは答えるように瞳を細めてみせた。
「すっげ……、やらしい。……欲しがりだな」
 低く漏らした言葉に反応するように、後孔がきゅうと締まる。腹の上で立てた膝大きく左右に開くと、結合部分を見せつけるように激しく上下に揺れ始めた。
「あ゛ッ──、っ、ぁっ、ノイ、ンくん……! もっと、ぁ、ぁあっ……っ」
 律動に合わせて揺れる水面が激しく音を立てる。アスレイドはいやいやをするように頭を左右に振りながら、ノインの太腿に手を添えて、はしたなく身を跳ねさせている。
「っ、あ……っ、ぅ、くっ……」
 くぐもった吐息が、ノインの奥から搾り出る。声を抑えようとしても、我慢しきれない甘い音が漏れる。それが合図であったように奥がまた締まって、ノインの熱がねっとりと吸われていく。
 快感で霞む思考の中で、ノインの意識が滲むように浮上した。
 見ている。いや、ずっと見ていた。
 この身体が欲しがるよりも前に──あの夜から、ずっと。
 けれど何を、どんなふうに視ていたのかは、今もはっきりしない。赦しを探していたのか、それとも。ただ、壊したかっただけなのか。
 見つめていたのは、アスレイドか、それとも自分自身か。答えの出ない問いが、快楽の波間に沈んでいく。
 それでも目は、逸らせなかった。
 壊したいと思うたび、赦されたいと思うたび、俺は──あんたを、見ていた。
「……君は、僕にしか……そんな顔、見せないで……っ」
 アスレイドを見つめる瞳は、どんな色に染まっていたのだろう。歪んだ翠色が、哀願するようにノインを見下ろしていた。
「君の、祈り、っ、を、っ誰に、もっ、! きみ、をっ、見られたくない……!」
 返事の代わりに形のいい臀部を両手で鷲掴むと、アスレイドの律を無視して思い切り突き上げた。甘く嘶きながら円を描くよう反らした背中と、微かな灯りで照らされた金色の髪は、やはり綺麗だった。
「あ゛、ぁっ、あっ、っく、ぅっ、ノインくん、だめ、それ、下から、っぁ、っちゃうっ……!」
 耐えきれなくなって前のめりに倒れ込んだアスレイドの重みを感じながら、掴んだ腰を乱雑に揺する。先走りと腸液が混ざった水音がけたたましく鳴る中、ノインもまた終わりの兆候を掴んでいた。
「く……っ、は……くる、……中、出すっ……!」
「あ、あっ、ぁあああっ……! ぁ……あ゛っ、……くる……っ、……出ちゃ……ぅッ!」
 最後の動きは何もかもが嚙み合っていなかった。それでもただ二人、絶頂を目指してひたすらに腰を振り続けていた。ノインの熱茎がひときわ脈動し、アスレイドの奥目指して熱を放ったのと同時に、腹の上で温かい感覚が広がるのが分かった。ひくひくと身体を戦慄かせた男はノインの頭を両の腕で搔き抱いて、縋るように自らの胸元に押し付けていた。
 しばらく、音だけが満ちていた。快楽の終わったあとの静けさは、なぜか冷たくて心地よい。水の音と、焚き火のぱちぱちという爆ぜる音。夜の草が、二人の吐息を包んでいた。
 アスレイドはノインの胸に顔を預けながら、しばらく呼吸を整えていた。火照りの残る肌が夜気に晒されて、汗が少しずつ引いていく。
 ぽつりと呟いた言葉は、星の見えない空へ昇っていく。
「……なあ、今の。祈り、……だったんだよな?」
 答えを求める問いというより、確かめるような口ぶりだった。
 アスレイドは答えなかった。ただ、胸元に顔を埋めたまま、小さく目を伏せた。
 祈り──。
 誰の。何の。何に向けられたものだったのか。その問いすら、今はもう、うまく拾えない。
「でも、俺……何を祈ったのか、よく分かんねえ」
 ノインが笑うように言ったその言葉に、アスレイドの心臓がひとつ、小さく脈打った。
 そうだ。分からないままで、きっと構わなかった。
 だからこそ、壊すように抱かれたのだ。
 赦しを与えるでもなく、与えられるでもなく、ただその代替物として。
 けれど。
 アスレイドは静かに肘を曲げると、ノインの体から、熱と余韻だけを引き剥がして起き上がる。絡んだ視線の、その奥にある熱は既に引いていた。
「……北に行こう」
 ノインが少しだけ目を細める。少しずつ、アスレイドに飲まれていた熱芯が、何もない時の形に戻り始めているのが分かる。
「急だな。なんでまた」
「君の短剣のことだよ」
 背中に流れる汗が夜気に冷える。アスレイドは、すでに拭いきれたはずの記憶を、指でなぞるように思い出していた。
「昔、ああいうものを持っていた子を……見たことがある。まだ、僕が北に居た頃に」
 ノインは黙って聞いていた。問いも詰問もなく。ただ、視線だけが、アスレイドを貫いていた。
「もう一度、思い出しておきたいんだ。……今の、祈りの続きを」
 アスレイドの言葉に、ノインはゆっくりと頷く。焚き火の灯りが、ちらちらとノインの頬を照らしていた。
 足元を冷たい水がさらりと洗っていく。遠く、川の音が深くなったような気がした。
 夜はまだ終わっていない。祈りの余韻だけが、夜に残されたままだった。

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