外伝7 灰に立つ
中枢の市場を抜けた先に、ノインが足を向ける店がある。ネルガルド中の物品が持ち寄られ軒を連ねる通りの外れで、いつも足を止める。そこから漂う香辛料の香りがどの地域からもたらされたものかを、ノインは気にしたことがない。いつだったか、香りに誘われるようにふらりと立ち寄って、気がつけば、足繁く通うようになった。
買い物のたびにおまけだと言って手渡される、小瓶を返すという名目で再び足を運んでは、また別の粉が入った小瓶を手に帰る。店主の知識や香辛料に掛ける思いは聞いていて不快ではなく、むしろ波長が合うというのだろうか。それもノインが足繁く通う理由の一つになっていた。
うららかな昼下がりの気候にあたりながら、ノインは気をよくしたまま灰の教堂へと向かう。今頃、アスレイドは聖堂で信徒達を前に、道しるべの一つとしての役割を遂行している。ネルガルドの倫理を説き、その倫理から外れた、あるいは則れなかった者達へ向けて宣託者として立っているだろう。何度か、白いコートを脱いで講話を行うアスレイドの姿を眺めたことがある。ネルガルドの中に立ちつつも、どこか外れているようなその語りは、彼自身を表しているようだとも思った。同時に、衣を乱して身を捩る姿とどうしても結びつかなくて、どれが本当の彼なのか分からなくなる。説話の感想を求められたこともあったけれど、曖昧な返事で逃れてきたからか、最近はアスレイドの宣託を積極的に眺めることはしなくなったし、彼もまた求めない。だからこそ、アスレイドが聖堂に立っている間はどうしても手持ち無沙汰になり、こうして中枢の街をぶらつくのが日課になっていた。
そんなことより、今日買ったものに思いを馳せる方がよほど大事なのだ。店主曰く、東と北、それぞれの地域しか生えない草を乾燥させて混ぜ合わせたものだという。香りは弱いが、口に噛むとぴりっとした酸味の後に甘辛さが口の中に広がるから、淡白な食材にとても合うのだそうだ。それを聞いて、昨日買った魚が残っているから、えぐみを取るためにも使えるかもしれない。早速試してみたいと気持ちがはやり、灰の教堂に向かう足取りも軽くなる。
帰りまであと半分の道のりほどとなったところで、左手にある家の門が静かに開き、陶器のように白い肌をした細身の女性が現れた。腰まで真っすぐに伸びた栗色の髪をなびかせながら、細い肩に大判のストールを羽織り、鉄門を抜けようとしたところで膝が崩れそうになる。
「……っ!」
言葉を投げかける前に、ノインの靴底が地を蹴っていた。女性の膝が地面につく寸前のところで、腹に腕を差し込み支える。青い瞳が、細い栗色の髪の一本一本が日の光を浴びて煌めくのを映す。腕に乗る重みは成人のものとは思えないほど軽く、力を込めたら折れてしまいそうなほど頼りない。伏せた長い睫毛が震えるのを、ノインは息を飲んで見入ってしまった。
「大丈夫かよ、あんた」
声を掛けずに身体に触れてしまった罪悪感からか、ノインの声は呟きのようであった。腕の中の女性は、関節の錆び付いた人形のようにゆっくりと顔を上げ、ノインの顔を見る。
「……ごめんなさい。助けていただきましたね」
こちらを真っすぐに見つめる、その透き通るような色素の薄い瞳の色に、見覚えがあった。灰の教堂に時折、説話を聞きに来ていた信徒ではないだろうか。ノインがまだアスレイドの宣託者としての姿に興味を持って見ていた頃、ベンチに腰かけていたのを覚えている。薄暗い聖堂の中で、彼女が身に着けていた白い衣服以上にその色素の薄い身体はよく目立っていた。だからこそ、記憶に残っていた。
「あんた、前に」
「こら、勝手に出歩くなと……」
ノインがそのことを告げようとしたところで、鉄門の向こうから扉が開き怒気と心配を混ぜた声色で言葉が投げられる。弾かれたようにそちらに顔を向けると、眉間に皺を寄せた男性が慌てた様子で屋外へと飛び出してきた。男は、ノインに抱きとめられた女性を見るなり眉の皺をもう一つ増やしてみせる。そこには、怒りと言うよりは心配でたまらないといった心情が、これでもかと言わんばかりに浮かんでいた。
「すいません、妹が、ご迷惑をおかけしたようで……」
「いや、迷惑だなんて……俺だって、いきなり手ぇ貸しちまったから。驚かせたと思う」
妹、という言葉から、目前の男性は兄にあたる関係の者だろう。彼はノインの腕にあった痩せた肩をゆっくりと撫で、一人で立てるように支える。腕から離れた体重は、やはり羽を思わせるようだった。
「……一人で出るなと言ったろう、今日は寝ていると」
「でも、アスレイド様のお話を聞きに行きたくて……」
「……また、行けばいい。アスレイド様には、また会える」
諭すような兄の声に、妹は渋々といった様子で静かに頷いた。大木の幹と同じ色をしたストールの裾をいじらしく摘まみ、家へ戻ろうと踵を返す。その肩と背を支えながら、兄がこちらに振り向き、申し訳なさそうな表情のままノインに軽く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。そして、妹を助けていただきありがとうございます」
「あ、ああ……」
二人が連れ添って屋内に入っていく背中を、ノインはぼんやりと眺めた。路上で一人残されてしまったから、再び灰の聖堂を目指して歩みを進める。
腕に残るかすかな重みは、心の底に沈んで離れない。まるで、意識は二人にまだ向けて残っているようだ。
慣れた感触の扉を押し開けば、大衆が引いた聖堂の中でアスレイドが一人、説話の片付けをしていた。外気が入り込んで空気が動いたことで、モノクルのチェーンを揺らしながら手を止めて頭を上げて見せる。
「おかえり、収穫はあったかい?」
その声は普段と何ら変わるところはない。聞き慣れた落ち着きのある声色が、まだざわついている心を鎮めてくれるようだ。
だからこそノインは、馴染みの店で買った商品を手にして軽く上げて見せた。
東と北が合わさった香辛料は、アスレイドの口にも合ったようで。試供品だと渡された小瓶はあっという間に空になった。肉にも魚にも合うから次は買ってきてほしいと、口元を拭いながら放たれた申し出に、ノインは二つ返事をした。空は相変わらず透き通るように広がり、日差しも刺すほど強くない。髪を揺らす風はどこかへ運ぶような軽やかさでもって、ノインの歩みを進めているかのようだ。
店主に味の感想を伝えると、ノインが持ってきた小瓶とは別に、粉の入った瓶を当然のように紙袋に詰め込む。もはやその行為を止めることもなく、ノインは包まれた品物を受け取るのを表情には出さずとも心待ちにしていた。
歩くたびに、紙袋の中の小瓶がこすれて小さな音を立てる。傷付けないようにしっかりと手のひらで抱えながら、白畳の街を歩く。早く新しい香辛料の味を楽しみたい、そんなことを考えながら歩いていると、目の前から知っている人影が歩いてくるのが見えた。
「あ、先日は……」
男はノインの姿を見ると、小走りに近寄ってくる。一人でいるからか、眉間に皺のない顔は前よりも血色がよく見えた。
「また会ったな。一人か?」
「ええ、妹は家で寝ています。その、……この間は、ありがとうございました」
「いい。礼を言われることなんかしてねえ」
それきり二人の間に沈黙が落ちる。ノインに返す言葉がないというより、男は何かを言いづらそうに視線を逸らしていた。やがて何かを決意したように、先日よりもはっきりと意思の色を濃くした瞳を向けてきた。
「あの、少し、お時間いいですか? 話があります」
半ば気圧されたように、ノインは兄の後ろについていき、彼らの居宅の扉をくぐった。二人だけで暮らしているのだろう、テーブルや椅子は必要な分しか置かれていない。それでも所々、織物や花が生けられていて自分達の住まいとはこうも違うものかとノインは内心で思った。椅子を勧められ静かに腰を下ろすと、男はまずは強引に連れてきてしまったことを深く詫びた。
「謝るこたあねえ。で、なんだ、話ってのは」
努めて穏やかに促したつもりだが、元来の口調でどこか責めているようにも聞こえる。それ以上に、目の前の男は伏し目がちに、やはりどこか話すのを躊躇うような素振りを見せていた。やがて、細々と語り始めた声は、静かに部屋の中に響いていく。
「……妹は、生まれたときから、丈夫な方ではありませんでした」
男はそう前置きして、指先を組んだ。力を入れているわけでもないのに、関節の白さが目につく。
「医者からは、長くはないだろうと。子どもの頃から、何度も言われてきました。……それでも、ここまで生きてくれた。正直、それだけで、十分だと思っていました」
「だから、妹には、できるだけ静かに生きてほしかった。無理をせず、期待も持たせず、穏やかに終わらせてやれれば、それでいいと」
そこで男は、ほんの一瞬だけ視線を落とす。
「アスレイド様の聖堂に通ったのも、この教区では断られたからです。でも、アスレイド様の聖堂に通うようになってから……妹は、少し変わりました」
言われてみれば、この地とアスレイドの教堂とは距離がある。意識をしていなかったが、周りを見渡せば宣託を行なう白い建物が近くにあるはずだ。
ノインは何も言わず、続きを待った。
「話を聞くだけでいいはずだったんです。祈りを受けて、帰ってきて、また横になる。それだけで、十分だった。……けれど、いつからか、妹は聖堂の話をするようになりました」
それは、とても些細な変化だったのだろう。男の語り口も、そう告げている。昔を懐かしむように、もう戻れない記憶を撫でるように。男の口調は、至極穏やかなものだ。
「説話の内容ではなく、人のことを。誰がいた、どんな声だった、どんな歩き方をしていたか。最初は、アスレイド様の話でした。次に、……あなたの話をするようになった」
男は、そこで初めてノインを見る。
「名前を聞いたわけじゃありません。ただ、聖堂に立っていない時間の、あなたの姿を、妹はよく覚えていました」
ノインの喉が、わずかに鳴る。
「……止めました。期待するなと。そんな目で、人を見るなと。あの聖堂に来る人は、皆、何かを背負っている。お前一人のために、何かが変わることはないと」
それでも、と男は続けなかった。続ける必要がないことを、もう知っているようだった。
「妹は、聞きませんでした」
断言だった。恨みも、怒りも、そこにはない。
「自分の時間が、残り少ないことを、妹は分かっていました。……分かった上で、選んでいました」
男は、深く息を吐く。
「兄として、止めるべきだと、今でも思っています。こんなことを頼む資格は、ないとも」
その言葉は、自己弁護ではない。むしろ、自分に向けた判決のようだった。
「それでも」
そこで、ようやく間が落ちる。
「……妹の願いを、なかったことには、できませんでした」
男は、視線を逸らさないまま、言葉を選ぶように口を開く。固く結ばれていた指は、いつの間にか解けていた。
「だから、お願いします。妹を、抱いてくれませんか」
それからどうやって灰の教堂に戻ったのかは、よく覚えていない。掌にある香辛料が詰まった瓶が包まれた袋の感触だけが確かだった。
彼女の、あの日抱いた軽さと、揺れた髪。長い睫毛の奥にある瞳。彼の、何かに勝てなかったことを認めたような瞳と願い。すべてがぐるぐると腹と頭の中で渦を描いて、どこに立てばよいのか分からなくなる。覚えているのは、すぐに返事をしなかったことだけだった。確かに腕に乗った重みは、おおよそ年相応とは言えなかったけれど。しかし、兄の言うことは本当なのだろうか。彼女が、自分に心を寄せていて、その上、今生の願いとして抱かれたがっているだなんて。あまりにも現実味がなくて、とても自分事として考えられない。
教堂の門を押した先にある聖堂には誰もおらず、がらんとした静けさが拡がっていた。居室へ続く扉を開けば、アスレイドはこちらに背を向けて昼餐を作っているところだった。蝶番の低い音と足音に反応して、くるりと振り向いた男の金糸が、ふわりと揺らいだ。
「ふふ、丁度いいところに帰ってきた。おかえり、ノイン君」
「ああ……」
買ってきたものをテーブルの上に出すと、アスレイドの顔が嬉しそうに綻ぶ。この香辛料、とても美味しかったから。きっとスープにも合うんじゃないかな。野菜を沢山入れてみたんだ、今からでも遅くないかな。
アスレイドの声が遠くから聞こえるようで。鼓膜を叩く音の鳴りは、ノインの生活に染みついた日常だと言うのにどこか切り離されたようにも思う。
こうしてアスレイドと一緒に住むようになって、自分達の関係は何なのかと問われても答えを出すことができない。夜毎身体を繋げても、それは愛の交歓とは程遠い。何より、互いに互いを縛るような言葉を投げあった記憶もない。だから、兄妹の頼みを叶えることは、咎められることではないはずだ。それなのに、アスレイドには言えなかった。それは、自分と彼らとだけの、秘め事でなければならないと感じている。
アスレイドが持ってきたスープからは、買ったばかりの香辛料の香りがする。湯気は天井に昇る前に室内の空気に溶けていく。その先を眼で追うこともなく、ノインは意識して鼻を鳴らし笑ってみせた。
木の扉の前で握り拳を作り、あの日教わった間隔と回数で叩いた。この叩き方であれば、妹はあなたが来たことを悟るだろうと兄は言っていた。それから少し経って、中に入ってきてほしいとも。その間に自分は、頭を冷やしてくると彼は少しだけ笑った。
溜息とも深呼吸とも分からないまま大きく息を吐くと、ノインはゆっくりと扉を押す。ついこの間来たばかりの他人の家は、既にどこか懐かしい気もする。ただ、あの時と違うのは、ノインの前に腰かけているのは男性ではないということだ。
真っすぐに伸びた細い髪が、昼下がりの陽光に照らされて水面の光のようにきらめいた。閉じられていた瞳がゆっくりと開いてノインを見据えた目は、ただ儚さだけを湛えているわけではなかった。その瞳の奥には、隠しきれない歓びと悲しみが同じ色をしながら少しだけ揺らいだ。
「……ほんとに、あんたが、望んだんだな?」
他の誰でもない、目の前の女性の本心なのか。それを確かめずに、触れることはできない。ノインの白と黒の髪が、小刻みに揺れている。それはどうか、間違いであってくれと望んでいるかのようだった。
彼女は、真っすぐにこちらを見たまま頷いたから。だから、ノインもそれに応えようと思ったのだ。
椅子の上から両手で抱え、細い腕を首の後ろに絡ませ持ち上げる。横抱きにした体は、前に抱きとめた時よりも軽い気がする。彼女に誘導され、ノインは軽い身体を抱えて家の奥へと進んでいく。ここだと言われて開けた扉の先には、彼女が拵えたのだろう作品が数多く置かれていた。棚の上には春色の敷物が、その上にはこの時期らしい花が花瓶に生けられている。壁を見れば何色もの糸が使われた綴織の装飾が飾られていて、海の色にも似ていた。窓枠からは乾燥させた花が束ねられ、宙吊りになりながら最も美しく咲いた形を保っている。間違いなく、彼女の手によって彩られた世界がここにあった。
ノインはベッドの上に静かに下ろすと、不安げに見上げてくる彼女の前髪を静かに払い、額に唇を寄せる。かすかに震える手を取って、静かに指を絡めていけば漸く身体から余計なこわばりが抜けていくのが分かった。
骨の浮く身体を、少しずつ丁寧になぞっていく。ここにあることを確かめるように、ノインは指先に感覚を集中させながら身体を拓いていく。誰にも触れられたことのないだろう痩躯が打ちひしがれるようにわなないたのは、……それ以上は、考えるのを止めた。
痛みに耐える細い指がシーツを引き、深い皺を刻んでいる。ノインはその手を解かせることなく、静かに重ねた。ゆっくりと、何かを残すように静かに動き始める。くぐもった呻きしか零れなかった唇から、微かに甘さを含んだ吐息が漏れた時、背に彼女の細い腕が絡められて思いがけず強く引き寄せられる。ノインはなぜか、泣きそうになった。
行為は、静かに終わった。
どれほどの時間が過ぎたのか、ノインには分からない。ただ、重ねていた身体を離すと、彼女は小さく息を吸い、吐いた。その呼吸が整うまで、ノインは何も言わずにそばにいた。
窓から差し込む光が、彼女の頬に淡く影を落とす。長い睫毛が伏せられ、しばらくしてから、ゆっくりと目が開かれる。
「……ありがとう」
掠れた声だったが、はっきりと届いた。吐息や呻きではない、初めて聞いた、彼女の声だった。その音は熱の引かない身体をそっと包んで、鎮めていく。
だけれどその一言に、ノインは何も返せなかった。
返すべき言葉が見つからなかったのか、それとも、返してはいけない気がしたのか、自分でも分からない。ただ胸の奥が、きつく締めつけられる。
かわりに、そっと腕を伸ばして、彼女を抱き寄せた。
細い身体が、すんなりと胸に収まる。壊さないように、けれど離れてしまわないように。彼女の額が、鎖骨のあたりに触れ、小さく息がかかる。
彼女は何も言わなかった。ただ、そのまま身を預けてくる。
ノインは目を閉じた。この温もりを、言葉で置き換えることはできないと思った。だから、抱き締めたまま。しばらく動かなかった。
額に触れていた髪が、さらりとシーツに落ちる。彼女は目を閉じたまま、かすかに唇を動かしたが、それ以上、言葉は続かなかった。
しばらくして、彼女の呼吸が穏やかになるのを感じるとノインはゆっくりと腕を緩め、音を立てないように身体を離した。身を起こし、衣を整える。視線を向けることもできず、ただ、そこにある寝息を背に、静かに部屋を出た。
扉を閉める直前、一度だけ立ち止まる。振り返ることは、できなかった。
外に出ると、空気がひどく澄んでいた。昼下がりの光はまだ街に残っているのに、どこか夕刻の手前のような静けさがある。
ノインは深く息を吸い、吐く。
胸の奥に残る重みは、離れても、消えることはなかった。
そのまま、白畳の道を歩き、灰の教堂へ向かう。
門を押し開くと、聖堂は静まり返っていた。昼の説話を終えた後の、何もない時間。慣れた床の感触に、ようやく足が地につく気がした。それでも、心だけは、まだあの部屋に置き去りにされたままだった。
小さく息を吐き、奥へと歩を進める。何もなかったかのように、それでいて、もう戻れない何かを抱えたまま。
アスレイドの姿がなかったのは、どこか救いのようにも感じた。真っ先に居宅の奥にある湯浴み場に向かい、ノインは全身を水で流す。溜め桶に置いておいた水は、日光によってほのかに温められている。肌を弾く水滴を掌で滑らせながら、一つずつ動作を確かめるように意識を向けた。足の底に感じる石床の感触も、ここに来るまでに鼻孔をくすぐった香りも、ここには自分が知っているものばかりだ。それらは、ノインがここにいることを静かに教えてくるようで、漸く肺の奥から呼吸ができたような気がする。
湿り気の残る身体のまま、ノインはいつも通り夕餉の準備を始める。アスレイドが買って残していったのだろう白い穀物を、ミルクで煮込む。同時に別の鍋で肉と野菜の入ったスープをかき混ぜる。彼が気に入った香辛料の壺は、既に半分よりも少なくなっていた。
あらかた準備が終わったところで、ノインは長椅子に腰かけて大きく息を吐いた。見慣れた部屋に一人、珍しいことではない筈なのに、まだどこか足が地に着いていないような感覚だ。少しでも早く、ここに戻ってきたという実感が欲しかった。それは焦がれるのとはまた異なる、もっと別の感情がそう思わせている。
だからこそ、聖堂ではなく教堂の門が軋む音がしたとき、ノインの心は静かに浮き足立った。知らぬふりをして居宅の扉が開くのを待っていると、足音が近づいてきた。
「遅くなったかな、ただいま」
「おかえり。飯、できてる」
努めて感情を出さずに声を掛けると、アスレイドは嬉しそうに鼻を鳴らした。夕日が差し込む部屋で、二人は向かい合って席につき、湯気の立つ食事に手をつけた。
先に湯浴みを終えたアスレイドは、二人の寝室で中枢から拝借した書を読み進めている。窓の外からはこの時期になると盛んに鳴く虫が、会合を楽しんでいるようだ。賑やかな声を聞きながら、モノクルを外した翠色の瞳を文字に落とす。
やがて微かに軋む音を立てながら、後から水を浴びたノインが現れる。アスレイドは静かに書を閉じると、笑みを浮かべながら視線を投げた。
ノインがゆっくりと近付き静かに手を伸ばしてくるのが見えたから、瞳を閉じる。すぐに触れられると思った感触より先に、息だけが先に届いた。瞼を開ける前に、まだ少し湿り気が残っている指先で頬をなぞられる。そのぬくもりに目を細めたのを合図に、二人はもつれあうようにベッドに倒れ込んだ。
「ふ、は……、のいん、くん……」
アスレイドの鼻先が、ノインの肩口に埋もれる。まるで獣が香りを確認するかのように。
ノインは結ばれていない金糸のカーテンを分け入り、強く背をかき抱いた。もう片方の手は室内着の裾に忍ばせ、素肌をなぞる。形よく浮かんだ筋肉に沿って掌をさまよわせれば、アスレイドの鼻からくふんと甘えるように息が漏れた。
触れたところから、ようやく自分という形が浮かび上がるように思う。アスレイドに触れなければ、自分がここに在ることが分からない。だから、彼に触れていたい。
「ぁ……っ」
肌の上で踊っていた掌が胸の頂を掠めた時、甘い悲鳴が静かに鼓膜を叩いた。ノインの背に回っていた腕に、わずかに力がこもる。ノインはアスレイドの耳朶に軽く歯を立てながら、少しずつ弾力を帯び始める乳首を指の腹で押し潰した。
「ぃ、あ、あぁ……!」
嘆声は痛みによるものではない。高く上がった声の奥にある欲を知っているから、ノインは二本の指で挟み、ぐりぐりと擦り上げる。そのたびにアスレイドの腕に引き寄せられるのに身を任せる。舌先で形の良い耳をなぞってやれば、いたたまれないように腰を捩った。
「なあ、声、聞かせてくれよ。ここにいるって、分かるから」
ノインの喉を鳴らした言葉は、まるで哀願するような響きをしていた。彼が自分を求めれば求めるほど、自分という輪郭が象られるのだ。逡巡するかのようにぎこちなく止まった腕の中の身体もまた、何かを得るように身じろいで震える腕でシャツの裾を大きく捲って見せる。月明かりに照らされた身体は、陰影をはっきりと浮き立たせながら静かに震えていた。
「……ああ、あんたの望む通りに」
白と黒の混じった長い髪が静かに揺れる。ノインの唇は蜜を求める蝶のようにアスレイドの胸の先端を吸い上げた。熱のこもる口腔内で包みながら舌で先端をころころと転がし、根元を舐め上げると腕の中の男がびくんと全身を震わせる。無意識なのだろう、擦り付けられる脚の付け根は既に衣服の下から昂ぶりが分かるほどだ。膝先で軽く小突いてやりながら一度口を離すと、唾液でてらついたそこを見せつけるように舌の腹で大きく舐め上げた。
「んぅ……、ふ、ん……っ、は、ぁ……あ……っ」
うっとりと潤んだ翠色の瞳を向けられると、背筋に快感が走る。鼻から息を吐きながら、ノインは下衣を引き下ろすとアスレイドの身体を跨いで膝立ちになる。ノインの茎もまた、大きく膨らんで赤く熟した先端からは雫が浮かんでいた。男の目前に突き付けると、アスレイドの唇が大きく開いて反り返った熱芯を包み込んだ。
「……っぐ、ぉ……」
躊躇なく含まれた体温に、ノインは息を詰まらせる。意識せずとも腰が震えて、快感が腰から背骨へと駆け上っていく。ぬめる舌で、唾液を塗りたくるように絡められ勝手に腰がゆるゆると前後に動き出す。湿った水の音が荒くなる吐息に混じり、聴覚が甘く溶かされていく。アスレイドの腕がノインの腰に絡められて、まるでもっととせがんでいるようだった。金色の髪に指を絡めながら喉の奥を切っ先で抉ると、生理的な反射なのだろう涙で頬が濡れていく。それでも太い幹を飲み込むのを止めはしない。
「ん゛ぅ、う、っ!、うぐ、ん゛、う、ぶ、っ、んんっ」
アスレイドの献身に、ノインの視界が熱に浮かされたように狭まる。ああ、そうだ。こうしてきたはずだ。
受け入れていた喉がひくひくと震えたところで、ノインはゆっくりと腰を引いて濡れた幹をずるりと引き抜いた。先端の割れ目と、アスレイドの舌を結ぶ糸が音もなく途切れる。先走りを飲み込んだのだろうアスレイドが、少しばかり咳き込むのと同時に、ノインの身体が後方へ下がる。アスレイドのズボンの腰回りを掴むと、何も言わずに腰が少し浮いたから、下着と共に抜いた。大きく開いた脚の付け根にある奥の蕾からは、湯浴みの時に仕込まれたのだろうオイルで湿っている。本来自然に濡れないそこに、日中の出来事が差し込んでこめかみの辺りが微かに痛くなったから、払うように首を振った。
考えるな、と自分に言い聞かせる。
触れていればいい。動いていれば、戻れる。
慣れたそこに二本の指を性急に差し入れると、甘い悲鳴とともにアスレイドの幹もまたぴくんと震える。根元まで飲み込ませた指は、きゅうきゅうと強請るように締め付けてくる。すぐにでも中に入りたい衝動を抑えながら、わざとらしく指をゆっくりと前後に動かした。
「うぅ、ん……っ、あぁ、あっ、あ――っ、ひ、あ、んぅッ」
中のしこりを掠めると、アスレイドの腰がかくかくと震える。開けっ放しの口許からは、飲み込めない唾液が今にも零れそうだった。求めるようにノインの白と黒の髪に両の指を絡ませ、渦巻く快感を逃そうとぐしゃぐしゃとかき乱す。頭皮に感じる爪の硬さにノインもまたうっとりと青い瞳を細めると、指をもう一本増やして三本の指でアスレイドの内側を擦り続ける。
「ぁあ、ああ、いあっ、あっ、……っ、のい、ノイン、くん……っ! 僕、もうっ……!」
その後の言葉は続かなくとも分かる。指では、足りない。埋め尽くしてほしい。頬を赤く染めながら、眉を下げ、懇願する姿に全身の細胞がざわっとさざめいた。ずくずくと息づく下腹部に微かな痛みを覚えながら、ノインはずるりと指を引き抜くと幹に手を添える。今しがたまで指が入っていた窄まりに熟れた先端を飲み込ませ、一気に奥まで沈ませた。艶やかな悲鳴が室内に響き、雨のようにノインの鼓膜を震わせる。乱暴な挿入にもかかわらず、体内がうねるように締め付けてくるから、思わず腰が引けそうになる。それを力でねじ伏せ、もう一段深く腰を貫いた。
「ひっ、ぐ、うぅ、う、ぅ――ッ、あぁ、あ、ああ゛っ、あああ!」
アスレイドの腕が背に回り、更に迎え入れようと身体を引き寄せる。胸元にあたる荒い息の熱を感じながら、ノインは腰を掴む指に力をこめて、貫くように突き上げる。止まない乾いた肉の音の中、しがみついてきたアスレイドの背中に腕を回し、強く抱き寄せた。
「……っ、この……! 締めすぎだ……っ!」
熱源を食む肉の感触に酔いしれながら、ノインは腰を揺さぶるのを止めない。止められない。止めてしまったら、戻れない。立ち昇る汗の香りと嗅ぎ慣れた男の香りが、ノインを現実に繋ぎ止める。体液とオイルでぬめつく肉の輪にきつく締められて、すぐにでも達してしまいそうになるのを奥歯を噛んで耐えた。
律動で揺れていた長い脚が、ノインの腰に巻き付いた時にはもう抑えられなかった。最も奥を目指して、ノインは何度も茎を抽送させる。ベッドが悲痛な叫びを上げながら軋み、二人の肌がぶつかりあう音が響く中、快感の波が頂点へと向かっていく。
「ぁあっ、ノインくんっ! も、もっとっ……! もっとぉっ……!」
果てしなく繰り返させられ、アスレイドの声は崩れ切っていった。恥辱も快楽も溶け合って、声が壊れていく。
奥を突くたび、突かれるたびに、限界を超えた波が体を襲い、視界が白く弾ける。突き上げられるたびに背が跳ね、全身が痙攣する。泣きながら乞えば乞うほど、容赦なく奥を叩かれる。
「……ッ、俺、もう……!」
アスレイドを抱きかかえながら、耳元で終わりを告げる。それに応えるように、アスレイドの四肢に更に力がこめられたのが分かって、ノインは最奥に亀頭を押し付けるようにして、最後の一突きを放った。その瞬間、熱い奔流がアスレイドの体内に注ぎこまれていく。
アスレイドは絶叫し、痙攣しながら何度も体を震わせて果てた。中を抉られたまま、涙と汗に濡れた顔で、ノインの胸に崩れ落ちる。ひくひくと震える身体を、ノインは力を振り絞って腕の中に閉じ込める。ここに自分がいると、声にならない確認をするかのように。
抱き締めたまま、ノインは、どこにも立っていなかった。
数日が過ぎた。
特別なことは、何も起きなかった。香辛料が尽きれば、また買い足し、アスレイドは説話を語り、ノインは灰を掃いた。夜になれば、同じように身体を重ねた。
何も変わらない日々だった。変わらない。変わっていない。同じ手順を、繰り返していた。
その朝も、光は静かに差し込んでいた。
窓からの陽光に微かに顔をしかめ、ノインは無意識に隣へ手を伸ばす。あるはずの熱を探すように、指先が布を辿った。触れたのは乱れたシーツの冷たさだけだった。胸の奥が、一拍遅れて沈んだ。
今日は説話の日ではなかったはずだ。だからこそ長いこと身体を繋げていたというのに。
欠伸を噛み殺しながら居室へ向かい、扉を開ける。
黒い神父服に身を包んだアスレイドが、そこにいた。襟元までぴったりと整えて、袖口の皺まで正している。
あまりに整っているせいで、逆に胸がざらついた。
ノインの気配に気づいたのか、アスレイドは振り向いて、いつも通りの微笑みを浮かべる。
「起こしてしまったかい、……急にね、呼ばれてしまって。少し、行ってくるよ」
テーブルの上には、四神の祝福を受けているとされる、特別な装飾が施された小瓶と、パンが一切れ、そして聖具店でしか見ない聖水が置かれている。それらが何を意味しているかは、説明されなくても分かった。
ノインは頷くことしかできず、アスレイドはそれ以上を求めないまま、戸を開けた。
外気が入り込み、室内の空気がわずかに動く。服の裾が揺れて、金糸の髪が一度だけ光を拾った。
ノインは、聖堂の窓からその背を見送った。
いつも自分が香辛料を買いに向かう道へ、アスレイドは迷いなく歩いていく。やがて、その背は見えなくなった。
聖堂の中は、静まり返っている。朝の光が、いつもと同じ位置に落ちていた。
それでも、ノインはしばらく、窓の前から動けないでいる。指先は窓枠に触れているのに、力の入れどころだけが見つからない。
床は、確かにここにある。
それでも、踏みしめた感触だけが、戻ってこなかった。