四神の御手にて作られし魂が、その御座に還ることを心より願う
――――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ

外伝5 紫煙

 

 灰の教堂の庭先に、薄い煙がひと筋、朝の空へと立ち昇っていた。
 ノインが片肘をつきながら腰を下ろし、火のついた巻き煙草を指先で弄んでいる。湿った土の匂いに、乾いた葉の香りがゆっくりと混ざっていく。誰も起きてこない静かな時間に吸う一本は、東にいた頃からの癖のようなものだった。
 花壇の花々は、朝露を浴びて瑞々しくきらめいている。未だ低い位置にある陽の光を浴びて鮮やかに地面を彩る色は、月日が経つごとにその範囲を広げている気がする。いつかの日に、ノインが子ども達と共に植え替えた小さな花たちは、今では灰の教堂を華やかに見せる役目を堂々と仰せつかっているようだ。
 ノインは煙草を吸い終えると靴裏で火を揉み消し、灰が散らないように丁寧に折った。
「……よし」
 まだ誰も来ない庭に声を落とし、ほんの少しだけ花壇の手入れを加え、東の地で得てきた知識を気付かれないように置いておく。そしてミーシャとトッドが植物の成長を見て声を上げるのを、離れたところから見守るのがここしばらくの日課になっていた。
 寝起きの身体はまだ硬い。両腕を上げて身体を伸ばしていると、まだ往来のない中枢の白い道の上、見知った人影が歩いてくるのが見えた。その髪の色を見た瞬間、ノインは知らず眉間に皺が寄る。胸の奥に、わずかに冷たい感覚が落ちた。
「……番犬は、朝が早いのだな」
 門の前でぴたりと足を止めた男は、鉄錆色の髪を朝日に浴びながら静かに言い放つ。その淡々とした音の響きも、ノインを苛つかせるには十分に効果があった。口の中に残っていた煙草の余韻の、味が変わる。
「朝の散歩とは、随分健康的じゃねえか。運動不足の解消にはもってこいだ」
 いつかも、こうして門を挟んで不毛な言い合いをしたことがある。来訪者、ヴェイスはノインの挑発も意に介さず、そしてあの時と同じように自分から門を開けようとしない。それどころか、いつもと纏う雰囲気が異なる気がした。
「ノイン・ハトレア。今日はお前に用がある。不本意だがな」
「はあ?」
 あの時は、アスレイドに用があったから邪険にされたのが分かる。しかし、このたびの来訪の目的が分からない。素っ頓狂な声を上げながら、ノインの眉間に寄った皺が一層深くなる。中枢の天才奉神官が自分に何を求めているというのだ。思い当たる節は、ありすぎる。中枢神殿で裁けなかった罪を再度審判するとか、そもそも審判を経ずとも斬首が決まっただとか。はたまた自分が持っている、聖痕のないダガーのせいか。自分がこのネルガルドの異端である以上、中枢からしてみれば厄介な存在であることに変わりはない。
 裁かれなかった罪を終わらせてくれるのなら、願ってもない話だ。説明を求めたところで、聖堂の扉が開いた。
「ノイン君、朝ご飯ができたよ……と、ヴェイス君。来ていたのか」
 ヴェイスはアスレイドを一瞥すると、再びノインを真っすぐに見つめる。ノインの青い瞳と視線が絡んだ時、もう一度同じ言葉を吐いた。
「今日はお前に用があるのだ、ノイン」
 眉を顰めたのはアスレイドの方だった。聖堂を背にしたノインはその機敏に気付くこともなく、話の先を促す。
「神域の残滓が見られた場所が見つかった。ノイン、お前は私と一緒にきてもらう。異端を連れて行くのは甚だ論外だが……異端でしか見えないものがあるだろう」
 端的に説明された言葉には、余計な詮索は不要、と静かな圧がある。だからこそアスレイドは翠色の瞳を細めてみせる。
「……ノイン君である理由は?」
「ノイン・ハトレア。彼だからだ。アスレイド、貴殿の器では届かない」
「……そう」
 ノインを挟んで勝手に進められるやりとりに、今度はノインが眉を顰めた。
「俺に拒否権は?」
「ある。ただし、犬らしい生活を営んでもらうことになるが。だが犬小屋の居心地は保障しよう」
「は、ねえのと同じじゃねえか」
 笑いながら舌打ちをすると、ヴェイスに向かって肩を竦めてみせる。一つに結われた黒と白の髪が、静かに揺れた。
「はいはい、分かったよ。……散歩くらい付き合ってやるよ、奉神官さま」
 吐き出すように悪態をつくと、アスレイドの方へと振り向いて薄く笑う。
「心配すんな。そんなやわじゃねえの知ってるだろ」
「ああ、知っているよ。……」
 アスレイドの唇が、言葉を続けようとしてこわばった。ノインが言葉を最後まで聞く前に、ヴェイスの方へと首を捻ってしまったから。
「犬を連れていくだなんて、あんたも大概物好きだな。精々噛まれないようにしとけよ」
「心配なくとも、管理者責任という言葉くらいは知っている」
 ノインは出立の準備のためだろう聖堂へと戻る。アスレイドは目前を横切っていったノインの袖口に目を落とした後、ヴェイスに視線を投げる。若い奉神官は、黙して何も語らない。ただ、心の底を覗くように、じっとこちらを、アスレイドを見つめていた。
 再び聖堂の扉が開くと、苔色のケープを纏ったノインが姿を現す。アスレイドは、無意識にノインの腕を一瞬だけ確認する。そこには、自分が贈った白い祈りの残骸が巻き付けられていて、ざわついていた心の波が僅かに穏やかになる。それでも、奥底に沈んだ一つの針のような何かが抜けていない。
「……それで、どこへ行くんだよ」
 ノインが教堂の扉を開けて、ヴェイスの隣に並び立つ。ヴェイスの瞳は、まだアスレイドを射抜いたままだ。
「北東の方角だ。……なに、日が変わる前には戻る。私も散歩ばかりできる立場ではないからな」
 その言葉は誰に向けられていたものなのだろうか。アスレイドは、聖堂の扉の前で小さくなる二人の後姿をいつまでも眺めていた。

 背の高い木から鳥が一羽、高く鳴きながら枝を蹴った。中枢の白い石畳はとっくに消えて、北の山脈へと続く森の中。木漏れ日が差す大地は、新緑と紛れた苔とで一面緑色に染まっている。
 道中、二人の間に会話らしいものはなかった。ノインは文字通り、散歩についてきた犬のようにヴェイスの背中を追うように歩いてきた。ヴェイスは飼い犬に語りかけない性分なのだろう、気遣いの一つも見せずに粛々と歩みを進めてきた。
 それまで従順についてきたノインが、歩みを止める。草を踏む音がしなくなったことに、鉄錆色の髪がふわりと揺れて後方を振り返った。
「空気が変わる。……一旦ここで止まる」
 ノインは、主の許可を取る前に足を止めてきょろきょろと辺りを見回す。芽吹きの季節を迎えて久しい辺りには、火を起こす枯れ木は背の高い草に隠れてしまっている上に、露を含んで湿り気がある。それでもなんとか火を起こせそうな木を拾い集めると、腰を屈めて火打石を弾いた。
 ヴェイスは、ノインの行動をじっと見つめたあと同じように木を拾う。二、三本見繕ってノインに近付くと、青い瞳が微かに細められた。
「そんなんじゃ火は起きねえよ。湿りすぎてる」
「……犬は野営に慣れているのか」
 高く、石がぶつかる音が響いた。ノインが集めた枯草に火花が移ると、ゆっくりと灰色の煙が立ち上る。手際よく枯れ枝を集めては、生まれたての火を絶やさぬように乾いた草に近付けた。やがて橙色の炎が躍ったところで、ノインは地面に腰を下ろして胡坐をかいた。
「東じゃ普通だからな。火がない夜のほうが怖い」
 ヴェイスはその言葉になにも返せない。ヴェイスの普通は、この男の、ノインの普通ではない。その逆もしかりだ。そこに言葉を挟むのは、何かが違うと察したけれど、それでもそのままにしておきたくない。
 だから、火を挟んだノインの斜め前に静かに腰を下ろす。直接草を踏む感触も、随分感じていなかったものだ。
 傾きかけた陽が、木々の葉の間から今日という日の最後のきらめきを落とす。
「……お前は、不思議だな」
 ぽつりと零したヴェイスに、ノインは焚火から視線を外して訝しげに瞳を細めた。
「急にどうした」
 ぱち、と枯れ枝が一つ弾ける。ノインの手にある、ヴェイスが拾ってきた枝で飛んだ枝を火の近くへと寄せた。
「裁かれずに残った魂というものは……。なぜ、こんなにも静かに座っていられる?」
「裁かれてねえんじゃねえ。裁きが届かなかっただけだ」
 瞬間、ヴェイスの心が大きく揺れる。
 幼いころから、エクルシエルの教えを、教えだけを忠実に守ってきた。守り、それに則るように。先駆の文献を読み漁り、過去の知見を吸収し同じように、否、そこに更にもっともエクルシエルらしい意義を乗せ、振舞ってきた。中枢の地は、誰よりもエクルシエルらしいヴェイスを讃え、若い奉神官の台頭に喜んだ。その中心で、エクルシエルとしていられる自分が常に立っていた。
 しかし、目前の男は。エクルシエルの倫理とほど遠いところに在る。そして在ってなお、揺らぎを抱えて生きている。おそらく、このネルガルドの地を踏むことすら諦めたこともある男は、それでもここに在るのだ。
 その異分子は、異端だ。中枢の秩序からは最も遠い。限りなくエクルシエルから離れたところにいる。
 それきり黙ってしまったヴェイスに、ノインもあえて言葉をかけることはしない。ただ、静かに揺れる炎を見つめていた。
 そんな時だった。突然顔を上げたノインが、ヴェイスの方をじっと見つめる。正しくは、ヴェイスの肩の向こうを睨み付けている。その瞳の鋭さに、ヴェイスが口を開こうとした瞬間、ノインが低く声で制した。
「動くな。そのまま」
 苔色のケープが大きく翻って、立ち上がった男がヴェイスの背中へと一歩踏み出した。かばうように伸ばされた腕の向こうには、夜よりも暗い影が左右に揺れているのが見える。まだ日も落ちきっていない黄昏の中で、二足の異形がぐねぐねと身を伸ばしながらこちらに近付いてきていた。
 ヴェイスとて、異形の脅威を知らないわけではない。ましてや間近で見るのも初めてではない。しかしそれは、自分が安全な位置で観察対象として見てきたものだ。こうして丸腰の中で対峙したのはこれが初めてで、背中に冷たいものが走る。
 声にならない呻きを上げながら、異形がノインの姿を捉える。どうやら、先に屠る対象を定めたようだ。ノインは腰元のダガーに手を添えると、異形から視線を逸らさない。その瞳は、どこか底の知れない深さがあるようにも見えた。
 音がなくなった森の中、先に地を蹴ったのは影の方だった。喉を引き絞るような声を上げながら、真っ黒な手足を拡げてノインに飛びかかる。黒と白の髪が揺れ、男が一段腰を低めると目前に短刀を構えたまま異形を受け止めるかのように前方へ飛んだ。
 その時、ノインの口許が小さく動いたように見えたのは、木漏れ日の見間違いかもしれない。
 それでも次の瞬間には、ノインのダガーが異形を断ち切り、灰がはらはらと揺れて静かに森へと溶けていった。その光を逃さぬように、ヴェイスの瞳が大きく見開かれる。
 ノインの罪は、東の地で幼馴染を殺めたこと。幼馴染は、異形に胎を暴かれていた。そして、既に異形化の兆しがあった。ノイン・ハトレアは、その哀願に応える形で命を断った。
 その後のことだ。人を喰らった異形を灰へ還したのは、誰だったのか。
 北の地で鍛えられた武器は、中枢に運ばれ、そこではじめて聖痕を刻まれる。その刻印を得てようやく、異形の脅威は灰へと変わる。それがエクルシエルの理であり、世界が長く信じてきた、一つの真実だった。
 だが──今、目の前の灰は。中枢の祝福を受けていないはずの刃で、確かにこの森へと還っていった。
 ヴェイスの理解が追い付く前に、ノインがダガーを一度横に払うと、刃に残っていた灰も風に乗って静かに消えていく。最後のきらめきを見届けるように、灰が消える瞬間までを眺めた後、息を吐いて焚火の傍に戻る。
「……君でなければ、死んでいたな」
 その声は、ざらついている。死を予感した恐怖より、それよりも強い感情で乱れている。
 だが、それでも。この男の、ノインの生き方に。ヴェイスは今まで見てきたものと異なる、しかし確かな光を見てしまった。目の前の焔が形もなく揺れるように。
「そんなやつ、ここじゃ腐るほどいるだろ」
「それでも……私は、君でなければ困っただろう」
 ノインの心臓が、呼応するように拍を打った。意図の分からない言葉の先を聞いてみたくなったけれど、ヴェイスの顔をまっすぐ見ることができない。
 夜を連れてくる風が、吹いた。
「なあ、ヴェイス。……なんで俺だったんだ?」
 その声を、どうか葉擦れの音と聞き間違えてもらえるようにと、祈るような思いだった。その祈りが届いたかどうかだけを確認したくて、頭を上げる。
 そこには、砂浜の色をした瞳が、ノインを見つめていた。
 そしてそれが合図のように、形の良い唇が震える。
「異端でしか見えないものがある。そして、君が見る世界の歪みは、誰よりも正確だ」
「……持ち上げんなよ」
「持ち上げてなどいない。アスレイドでは、その役目に当てはまらない」
 ノインは息を飲んだ。言葉を放とうとも、喉が震えない。
 どくどくと心臓の鼓動がうるさい。足元がふわりと、何か見えないものに掬われたかのようだった。
 自分は、異端だ。それは重々分かっている。エクルシエルの教えから外れた、ネルガルドの異端分子。そして、終わることを許されなかった者。
 その罪の重さを抱きながらごまかすように生きてきた。抱えた物が重くて、意識すると壊れてしまうから。朝、何事もなく目覚める自分を落ち着かせるように煙草を食んだ。先端の小さな火から昇る紫煙の揺らぎを見ると、ひどく落ち着いた。流されるように天に消えていくそのあり方が、どこか羨ましかった。
 ヴェイスは、罪に揺らぐノインを真正面から見つめてくる。それは、アスレイドとも異なる瞳をしていた。
 だから、ノインはケープに忍ばせておいた煙草を一本取ると、焚火に近付ける。細く移った火を暫し眺めると、唇に咥えて煙を飲んだ。少しばかり甘い、焼けた香りが、静かに漂う。
 そしてヴェイスもまた白い衣の内側から金属製の細い箱を取り出し、同じように煙草を一本取り出した。ノインと同じように焚火から火を取ろうとしたけれど、予測のできない橙の動きに躊躇する。
「……仕方ねえな」
 その様子を見ていたノインはうっすら笑みながら短く声をかけ、煙草を咥えるようヴェイスに指示をする。指先に挟んでいた煙草を自分の唇で食み、焚火を避け少しだけ身を起こし、顔を近付かせてヴェイスの煙草の先端に火を近付ける。
 紙が触れたところで、軽く息を吸う。もう一本立ち上がった細煙からノインの煙草とは異なる、乾いた金属のような香りが鼻孔を突いた。
 静かに二人、身を離す。それからは言葉を交わすことなく、ただ焚火が燃え尽きるのを待っていた。

 中枢に戻った頃には、すでに辺りは暗い帳の中にあった。ぽつぽつと建物から漏れる灯りを眺めながら、中枢神殿の前でヴェイスが足を止める。
「今日は付き合わせてしまったな」
 言葉とは裏腹に、詫びる思いは感じられない。しかし、その距離感は不快ではない。二人の間には、会話は必要なかった。ただ、時間を共にしたことだけが、確かにあった。
 だからこそ、ノインはその余韻を消したくなくて、短く声をかける。
「じゃあな」
「……ああ。気を付けろよ」
 今度こそ、言葉と思いとが重なったような声色。夜闇の中でも、砂色の瞳が僅かに細められているのが分かる。
「お前が言う?」
「君だから言っている」
 青色の視線が絡み、言葉はそれきりだった。ヴェイスは振り返らず、四神が見下ろす高い門の先へと消えていく。ノインもまた、その背中が消えていくのを最後まで見届けることなく歩きだしていた。
「……なんだったんだ」
 結局、ヴェイスの目的は分からないままだった。自分を同行させた理由も、なぜ自分である必要があったのかも。穏やかとは言い難い感覚を抱いたまま、白い石畳を急ぐ。とにかく、疲れていた。考えてみれば朝から何も食べていない。やったことと言えば、異形を祓ったことか。自分一人でも対応ができるものでよかったと今更ながらに安堵する。いつかの、何本も脚を持つ巨躰が現れたとしたら流石に灰化はできなかっただろう。
 一日に起こったことをぼんやりと思い起こしながら歩いていると、灰の教堂の前に辿り着いていた。ゆっくりと苔色のケープの中から腕を伸ばし、その門を押す。
 暗い聖堂を抜けて細い光が漏れ走る居室へ続く戸を開けば、そこには長椅子に腰かけ、読書をしていたのだろうアスレイドがいた。扉が開いた音で書から視線を上げて、ノインを見て翠色の瞳を細めた。モノクルをつけていないのは、世界を通して見なくていい時だけだ。それは、彼がいまこの灰の教堂で、ようやく落ち着いている証でもある。その素顔で迎えられるのは、いつも決まってノインだけだった。
「おかえり、思ったより早かったね。ご飯できてるよ」
 すん、と鼻をすすれば台所の方からアスレイドの料理の香りが漂った。東とは異なる、北の地の食事のそれは掴めない感覚のまま帰った胃をほどよく刺激する。
 嗅ぎ慣れた香りに包まれ、張り詰めていたものが、少しだけ緩んだ。帰ってきた、と胸の奥がようやく静かに落ち着いた、その瞬間だった。
「ああ。じゃあ、荷物を置いてくる、……ッ」
 アスレイドの前を横切って、奥にある二人の居室へ続く廊下へと向かおうとしたところで、苔色のケープの裾をくいと引かれた。僅かに首が締まった感触に、ノインはアスレイドへ視線を投げる。
 そこには、奥に昏い炎を宿した双眸がじっとこちらを見上げていた。
「アスレイド……?」
 ふ、と音が消えた。揺れぬ視線の奥で、見慣れない影がゆっくりと形を結んでいく。
「……君が、揺れた香りがする」
 その声は、何かを確信した低いものだった。
 瞳の奥で影が告げる。君の心がどこかへ傾いた時だけに混じる、あの匂いだと。
「煙草か? ヴェイスも吸ってたから」
 ケープを摘まむ指に力がこめられる。しかし、アスレイドが求めた答えではないようだった。翠色が、歪む。
 次の瞬間には、ノインの視界は反転していた。触手のように伸びたアスレイドの掌が、ケープの下にあるノインの腕を掴むと、強く引き寄せて長椅子の背もたれに押し付けていたからだ。金色の髪が揺れるのを辛うじて視線で追ったけれど、背を打った衝撃でノインの理解が遅れる。背を打つ衝撃だけが現実で、何が起こったのか思考が追いつかなかった。
「ってぇな……なにすんだ……っ」
 微かに怒気を含めた声を投げてみても、アスレイドは答えることはない。鼻先をノインの首筋に寄せると、何かを確認するかのように鼻を鳴らした。その仕草が妙に静かで、反射的に生まれた怒りを削いでいく。
 そしてするすると頭を下降させると、ノインの膝の間にうずくまる姿勢になる。何を意図するのか察するより、アスレイドの指がノインのズボンのバックルに伸びて前の合わせを拡げる方が先だった。
 そのまま下着の奥から兆していないノイン自身を取り出すと、口を開けて躊躇なく咥えこむ。
「なっ……、ぁ……!」
 温かくぬめるぬくもりに包まれて、陰茎がぐぐ、とアスレイドの口腔の中で育つ。先端の笠を唾液を絡ませた舌で撫でられて、ぞわぞわとした感覚が腰から背筋を駆けていく。鼻から零れた息が陰毛を揺らして、更に喉奥に迎え入れられるように飲み込まれていく。
 引き剥がそうと頭に置いた手は力を失くして、指先が金髪の波に埋もれていく。白篭手に包まれた腕が、ひくひくとわなないていた。
「ん、ちゅ……っ、む、ぅ……っ、ん、ん……」
 すっかり頭を擡げたノインの熱芯を、アスレイドは頬をすぼめて唇で扱く。うっとりと瞳を細めては、息苦しく喉を塞ぐ熱の塊を吸い上げる。混ざり合った唾液と先走りが唇の端からつうと零れては顎先を伝い、床に雫を垂らしている。
「ぅあ……ッ」
 ノインの喉がぐうと天を向いた。空気を抜くように包まれた温かさの中で、時折舌先で裏の筋をつうとなぞられる。その度に睾丸が締まって、射精欲がそそられる。快感を得ているノインを見つめるアスレイドの瞳が、蕩けるように溶けていく。
 ちゅ、ちゅ、と軽い音を立てながら、赤く腫れた先端に何度も口付けられる。その度に、透明な雫が濡れた幹をさらに湿らせていく。笛を吹くように横向きに唇を滑らせられると、隆起した血管の凹凸が引っかかる感触で背筋が震えた。
 かと思えば根元にやんわりと指を添えられ、再び温かい口の中に包まれる。喉まで迎えられない部分を細かく扱かれ、絶妙な力の入れ加減と、切っ先を包む人の身体の温かさでくらくらする。自然にノインの膝がだらしなく左右に大きく開いて、より深くアスレイドに深く呑まれたいと思ってしまう。
 アスレイドといえば、口を満たす体液を下品に鳴らし続けている。その音さえノインを昂らせるために立てられているようで、自然に腰が揺れる。
 いよいよ限界が見えてきて暴発の予感がした頃、温かい感触が失せていく。名残惜しそうに一本の糸がアスレイドの唇と亀頭の先で結ばれていたけれど、音もなくぷつりと途切れた。途端外界に晒された茎が震えたのは、肌寒さだけが理由ではないだろう。
 息を整えながら、ノインは重い瞼を抉じ開けて目前の男の挙動を捉えようとする。うっすらと開けた視界の先には、アスレイドがすらりとした脚をスラックスから抜き出すところだった。衣が床に落ちる音がしたのと同時に、男の膝が長椅子に沈む。
「アスレイド……!」
 その声に乗った感情はなんだったのだろうか。期待、困惑、怒り。どれもが正解で、誤っている気もする。アスレイドはノインの腰の上を跨ぐと、自ら後孔を雄々しく勃ち上がった陰茎の先端に擦り付ける。
「……君に出会うまで、僕には欲しいものなんてなかった。でも今は……、どうしようもなく、欲しいんだ。ノイン君が」
 視線が、絡む。何かを切実に訴える翠色の瞳で射抜かれて、ノインは何も言えなくなってしまう。
 切っ先が触れた瞬間、開いた孔からたらりと液体が零れる。何も準備をしていない筈なのに、アスレイドのそこは湿っていた。ノインがいない間にひとり遊んでいたのだと悟る。それは、本当にひとり遊びだったのか。それとも。ノインの身体で、一気に熱がぶわっと立ち昇った。
 照準を合わせたアスレイドが掌をノインの肩に乗せ、背を少し仰け反らせながらゆっくりと腰を降ろしていく。訪れる快感に震えた身体は、どちらのものだっただろうか。
「昔の僕は、誰を見ても何も感じなかった。……君の匂いが違うだけで、胸が焼ける……っ」
 言葉が、揺れた。アスレイドの後孔がノインの熱の太いところを飲み込んで、締め付けながら体内へと沈んでいく。ノインは、ただ己の楔がアスレイドの身体へ消えていくのを眺めることしかできない。すらりと伸びたアスレイドの幹もまた、ノインを食むたびにひくひくと、か細く揺れた。
「ぅ、ぐ……っ、ぁあ!」
 強い締め付けに、ノインが喉を鳴らす。アスレイドの脇から腰へと両手が滑り、小刻みに震えている尻に辿り着くと指が沈むほどに強く掴んだ。侵入した圧迫感に慣れて金色の波が穏やかになる前に、掴んだ身体で円を描かせる。
「ああぁ、ああっ、い、いい……っ、あ、ぁ゛、んぁっ……!」
 体内を抉る熱に、アスレイドは髪を揺らしながら身悶える。深く咥えこんだままぐりぐりと中を捏ねられて、自ら気持ちいい個所を擦るように腰を捻りだした。その緩慢な動きの中、ノインの指先はアスレイドの上衣に伸び、首元から一つずつ釦を外していく。カーテンのように黒い衣が開いて、その中から筋肉の乗った体躯が覗いた。快感を求めて遊ぶ背に腕を滑り込ませると引き寄せ、目前に迫った胸の飾りに吸い付いた。
「ぁ゛っ……あ゛ぁっ……やっ、ぃっ、ノイン君……っ!」
 ノインに抱え込まれ、深く突き上げられるたび、アスレイドの身体は震えた。胸の先端を舌先で転がされ、軽く歯を立てられるとそこから電流が走るようにもどかしい快感が下腹部へと向かう。内側の前立腺を擦られて、抑えられない享楽で眉が下がる。
 ああ、ノインに。ノインという男に。こんなにも縋る自分が。自分であってたまらない。
 強い快感に腰を逃がそうとするが、抱え込まれて動けない。中を擦られるたびに、背骨の奥を震わせる快感が突き上げる。
「っぁ゛ああっ……! や、だめ……奥……っ!」
「だめじゃ、ねえだろ……っ、こんな、締め付け……」
 金色の髪が跳ねる。繋がったところからぐちゅぐちゅと湿った音が吐息の合間を縫って空気を濡らす。肉茎が体内を穿つたびに、閉じきれない唇の端から唾液の線が顎先を濡らしていく。
 ノインの形を覚えているアスレイドの肉壺が、無意識にか甘く締め付ける。柔らかい縁で扱かれて、ノインもまた先走りが漏れ出るのを感じていた。柔らかい縁で幹を扱かれて、体温の泥の中で泳がされているようだ。
「っ、くそ……っ」
 筋に合わせて舌を這わせながら、ノインは低く喉を鳴らす。男の腰を掴むと、玩具のように乱暴に上下に揺さぶる。腰を突き上げるたび、アスレイドの声は濁って崩れていった。
「ぁ゛っ、んぁ……っ! あぁ゛あ、っす、ご……っ、もっとっ……!」
 乱れた黒衣が絡む腕が、ノインの背中をかき抱く。最早抑えることもなく、アスレイドは膝を立てると自ら腰を淫らに振り続ける。雁首の辺りまで身体を引いたと思えば、体重に任せて思い切り体内へ飲み込む。ぎしぎしと長椅子が軋むのも厭わず、ただひたすら目の前の感覚を貪り続けている。
 先に限界を察したのはノインの方だった。睾丸がぐぐ、と震えたのと同時に、奥歯を噛みながら低く唸る。アスレイドの動きを制止する間もなく、ぱちゅんと肌がひときわ高く打ち鳴ったのと同時に白濁を吐き出していた。
「ぁああああっ……! あつい、ノインくんっ、……っ!」
 中を焼く熱に、アスレイドは身を震わせノインの背に爪を立てる。ノインを銜え込んだそこが強く締め付け、はっきりと形を認識した瞬間にアスレイドもまた、全身を震わせてノインの服を汚していた。
 二人、余韻に浸るように身を硬くしながら荒く息を吐く。先に動いたアスレイドが、ずるりとノインの肩口に額を摺り寄せる。その緩慢な動作に、ノインの白く包まれた腕が彼の背を何度も擦った。
「……欲を知った僕は、こんなにも、弱い」
 まだ整わない吐息の合間に、掠れた声が鼓膜を叩く。その弱々しい声色に、ノインは小さく鼻から息を漏らした。
「別に、……弱えのは、悪くねえだろ。欲しがるのも……止めることはねえ」
 擦る掌に、湿り気を帯びた金の髪が絡む。返事はない男に、けど、とノインは言葉を続ける。
「けど……あんたの全部、俺に抱えきれんのか……少し分かんねえ」
 胸を大きく上下させながら震える身体を抱き寄せるには、覚悟が足りない気がした。
 その言葉を聞き終えると、肩の辺りで空気が震えるのが分かった。小さな笑みを零したアスレイドが、もう一度額をノインに擦り寄せる。まるで、ノインの輪郭を確かめるように。
「抱えきれなくてもいいよ。……僕は、君が迷ってくれるだけで……救われる」
「……随分と性格が悪くなったじゃねえか」
「誰か、のせいでね」
 呆れとも笑みともつかない、細い息が零れる。二人の呼吸だけが、しばらくのあいだ重なって、言葉は行き先を失っていた。
 ノインは天井を見つめたまま、この先に何が待っているのかを考えないことにした。
 考えたところで、答えは出ない。
 ただ、腕の中の重みだけが、今ここに在る現実だった。