外伝4 シスターエム
神よ、この小さな手の中にも光をお与えください。
あの子たちが穏やかに眠れますように。
私のぬくもりをあの子らに分け与えられますように。
神よ、この小さな手の中にも光をお与えください。
どうか、夜が寒くなりませんように。
私の指はもう少しで凍えますが、それもあなたの試みでしょう。
神よ、この小さな手の中にも光をお与えください。
今日も子どもたちは少しだけパンを分け合いました。
私は、
目の前で渋い顔をする男は、会うたびにその丸い身体を縮こませ肩を竦める。
インクの乾ききっていない紙を手に、アスレイドの顔と書面とへ交互に視線を動かしながら、時折地獄の底で助けを求めるような低い声で短く唸る。こうして呼び付けたのだから、何をすべきかは分かっているだろうに、いざ本人を前にすると難しく感じるものがあるようだ。
アスレイドはそんな伯父の苦悩も露知らず、にこにこと微笑を浮かべながら言葉の続きを待っている。なんせ大体はこちらから中枢神殿に出向いて、あれやこれやと無理難題を言っている自負はある。伯父、セラファンから呼び付けられるだなんて、それこそ指で数えるくらいしか覚えがない。
そんな希少な機会の時は、決まって見返りを求めることにしている。大概は面倒ごとを押し付けてくるのだ。持ち出し禁止の古文書を手に家に帰るくらいは許してほしいものだ。
とうとう観念したかのように、セラファンはひときわ大きい溜息をつくと、椅子の上からアスレイドを見上げて重い口を開いた。
「西北西でな、孤児院が野盗に襲われた」
随分勿体付けた割には、とアスレイドはどこか拍子抜けする。
それだけなら、シュレインである自分に依頼することはないだろう。中枢の警備隊に指示すれば、西の森や北の山まで鉄靴の音を響かせに行くだろう。
「そこのシスターは、中枢の管轄外でな……勿論、異端の扱いはしていなかったが。どうやら、第五神にいたく傾倒していたようでな」
「ほう?」
ようやく、翠の瞳に興味の色が差す。第五神、セレストに至る光。自分以外にも興味を持っている人物がいたことに胸が躍る。しかしそんな素振りを一切見せず、アスレイドは続きの言葉を待つ。
「話では、子ども達にエクルシエルの旧い祈りを教えていたらしい。それこそ、アルヴァリオ家に伝わっていたもののような」
人は誰しも、内なる光を得ることでネルガルド神話の空席、第五神となる。アスレイドが幼少の頃から教わった祈りは北の地で打ち砕かれ、ここ中枢でその手がかりを求めて辿り着いた。しかしそれよりも前、いや同じ時期に、自分と同じように原点としてのエクルシエルに関心がある者があったとは。
「シスターの記録はお前に任せる。まあ、焼かれていなかったらの話であるが」
「もし何もなければ、伯父上に協力してもらうだけです」
にっこりと返されたものだから、ぐう、とセラファンが胃の辺りを押さえて身を屈める。名門の伯父である自負より、甥の笑顔の方がよほど恐ろしい。
セラファンとて分かっている。危険な場所へ任務とはいえ行かせねばならない葛藤と、上役からまたねちねちと詰められる予感と。どっちに、どこに転んだとしても犠牲になるのが自分の身体だけならば甘んじて受けようとも思う。それが名門アルヴァリオ家の寵児の伯父としての務めだと言い聞かせて。この身が果てるまでは、できるかぎり。
「して、その野盗はどうなったのです?」
灰の教堂に戻ってきたアスレイドは、簡素な荷物をまとめてノインに顛末を説明する。これ以上傷を増やさないように、神父服の上には布切れを詰め硬く縫い付けた布製の鎧を身に付ける。ごわごわとした感触のせいで、ショートケープの位置がいまいち安定しないが致し方ない。傷が増えると、隣に立つ男は何も言わずとも辛そうな視線を寄こすから、アスレイドにとってはそれが何より堪える。
「ノイン君、もう少し暖かい恰好をした方がいい。あの辺りは北の麓だけど、いやに寒くてね」
「ああ、長袖があれば借りる。あと、持っていくものは」
「念のため薬草を。君が採ってきてくれたもの、使わないといいのだけれど」
外へ出ると、灰色の空が裂けるように風が吹き抜ける。教堂の扉が閉じる音が、やけに澄んで響く。その音を背に、二人は北西へ向かった。
道を外れるごとに、鳥の声が一つ、また一つと消えていく。道中、ノインはアスレイドに詳細を聞くことはなかった。ただ、西に近い森で、野盗に遭った孤児院があると聞いた。そして、異形を討伐する役目を担うシュレインであるアスレイドに中枢から声がかかったということは、異形の観測がされたか、アスレイドの興味を特別惹く何かがあったか。
なんにせよ、一人聖堂で留守番をするのも手持ち無沙汰だ。だから、アスレイドに同行するかと問われたときに行かないという選択肢はなかった。
靴が緑色の地を踏むようになった頃、北にほど近い地は、ひんやりとした空気が肌を刺す。空は高い木々に囲まれ、陽の光が届かない。
先導するアスレイドについていくと、深緑の中にその建物はあった。野盗に襲われたと聞いていたが、証拠を消すために火までは放たれなかったらしい。木々に抱かれるように佇む石造りの壁は、風に削られ、灰の薄衣をまとっていた。アスレイドの教堂よりも一回り小さいくらいの建物は、祠のように静かに佇んでいる。
外壁の足元には、盛り上がった土の線がひと筋、建物を囲むように続いている。花の名残か、それとも、誰かがまだそこに祈っているのか。
「ここだね」
アスレイドが、入り口の扉をそっと押す。鈍い音を立てながら開かれた先に、外部からの光で照らされた室内が見える。
泥を踏んだような複数の黒い足跡。点々と残る血痕。床に落ちて割れた陶器。散らばった紙。ぐしゃぐしゃにされた、大きさの異なる衣類。蹴とばされたのか乱れた椅子と机。椅子は、大きいものが一つに、小さいものが背板をこちらに向けていたり転んだりしている。
少し前までに営まれていただろう生活の様相を思い起こさせられて、ノインの眉間に皺が寄る。話を聞いたときから希望は砂粒ほども抱いていなかったけれど、こうして現実を突きつけられると胸にくるものがある。アスレイドの白いケープを灯代わりに、その背を追って室内へと足を踏み入れた。
しんと静まる建物の中、木板を踏む二人分の足音だけが響く。微かに鼻をつく鉄の香りを振り払うように、ノインは辺りに視線を投げようとした。
アスレイドと言えば、本棚の前で足を止めていた。野盗の気を引くものがなかったのだろう、そこだけ時間が止まっているかのように整然としている本の並びを、モノクル越しに眺める。
植物図鑑、生活の知恵、料理について。子ども達に読ませるのだろう絵本。背表紙の高さによって揃えられている本を上から下まで見ても、第五神に関わるようなものは見当たらない。
口伝だったのだろうか。ありえる。異端扱いをされていなかったとしても、中枢の教えにそぐわないものは公にしにくい。アルヴァリオ家に伝わっていたのも、半ば代々続いた伝承を覚え書いたもののようだった。しかし。子ども達に教える者、そして道半ばの者が書籍もなくどう思考整理するだろうか。導き出された一つの仮定は、かつての自分が行ったことと同じ。
「日記、か」
そうなると子ども達も手に取るだろう場所に置かれることはない。もう少し探索が必要だろうと思ったところで本棚から視線を逸らし、ノインの方を向く。
「……ノイン君?」
ノインは、部屋の奥を見つめたまま立ち尽くしていた。呼気が荒いわけでも震えているわけでもない。よく見た、よく知っている、よく象ったノインの姿がそこにあるはずなのに。何かが欠けているように見える。
「あ、……ああ、終わったのか」
「ううん、まだ。もう少しいいかな」
小さな違和感を覚えながら、アスレイドは奥の部屋に足を踏み出そうとしたとき、ノインがそれを止めた。
「……聞こえねえか?」
耳を澄ますと、風が抜ける音の奥に、確かにあった。
声ではない。けれど、祈りの残りかすのように、空気が微かに震えている。音は、廊下の先──今いる部屋とつながる奥の扉の向こうから聞こえていた。二人は静かに視線を交わし、言葉を交わさずに歩き出す。
廊下の両壁には、いくつかの扉が設えられている。おそらく個室なのだろう。ただ、突き当たりの扉だけが、こちらをまっすぐ向いている。
近付くにつれ、何かを引きずるような、湿った音が鼓膜を叩いた。
引き戸に手をかける前に、アスレイドの片手が腰に吊るしていた円環の刃にかかる。翠色の瞳が、一瞬だけノインを見たから、ノインもまた短剣を包んでいた革の留め具を外し柄を握る。
声もなく、扉を開く。まず鼻をついたのは、今まで以上の生臭い香り。いつか嗅いだあの夜と、否、それ以上に強い血の香り。そして、泥水を跳ねるような重い湿った音。
光の射さない部屋へ目を凝らしてみると、整然と並んでいただろういくつもの机が、四方八方を向いている。まるで、猛獣を閉じ込めた檻のようにひときわ激しく荒らされていた。
踏みしめた床は、何かが這いずったかのように黒く濡れている。その線は、部屋の角へと続いている。追うように視線を向けると、そこにいた。
黒く大きな丸い何かが、部屋の隅でぐちゃりぐちゃりと何かを咀嚼している。生肉を捏ねるような音に混じって、微かに祈りが聞こえた。
「オタベナサイ……」
こちらに背を向けている黒い塊からは、球体のような胴から人の上半身のようなものがいくつも突き出ている。そのどれもが子どもの形をしており、それぞれ床の何かに肩から大きく腕を伸ばしては戻すことを繰り返している。床の塊からもぎ取っては、揺れる頭に引き寄せていた。
塊の足元には、服を裂かれ、血を流したまま動かない野盗たちの影がいくつも重なっていた。腕や脚は噛み砕かれ、骨の白が泥のように黒く濡れている。
子どもたちの小さな腕がそれを掴み、口元へ運ぶ。開いた口の奥で光を失った舌が蠢く。泣いているのか笑っているのか、声が一つに溶けて判別できない。
黒い塊の頂ではひときわ大きい中心の影がゆっくりと揺れている。まるで、食べさせるように、抱くように。
血に濡れた床がぐちゅりと鳴り、空気の底で祈りが重なる。赤黒く濡れた手が祈るように動く。まるで食卓の前に座らせた子を宥める母のようにも見えた。
アスレイドが、一歩だけ足を進めた。血に濡れた床が靴の裏で鳴る。光を失った室内に、短く息を吸う音がひとつ落ちた。
「タクサン、オタベナサイ……タクサン……」
祈りの連唱が、血と泥の匂いに溶け、部屋の空気そのものを震わせた。
もう一歩、アスレイドが静かに近付く。それでも祈りは止まらない。
「オタベナサイ……オタベナサイ……」
声が重なるたびに、黒い塊の表面が泡立つように揺れる。小さな上半身たちが、同じ動作で口を開け、閉じ、また開いた。
ノインは扉の入り口で、ただ動けないでいる。今動けば、アスレイドのチャクラムが異形を灰化することができるだろう。短剣の柄から指を離すことなく、アスレイドの白いショートケープが揺れる様を後方から凝視していた。あと少し。もう少し。これ以上罪を重ねる前に、灰になれるまで。
いよいよ円がきらめくと思われたその瞬間、ゆらゆらとゆらめいていた影の中心がぴたりとその動きを止める。そして、こちらにゆっくりと振り返ってみせた。髪の代わりに黒い液を滴らせながら、両目だけが淡く光を帯びている。それは瞳というよりも、焦げた蝋の中に残った最後の火のようだった。彼女の唇が動くたびに、子どもたちの口も同じ形を描く。
「マダ……タリナイノ……」
声は柔らかく、けれど肉を擦る音のように湿っていた。
その瞬間、黒い塊がうねった。床の泥と血が弾け、複数の腕が這うように伸びる。
アスレイドは小さく息を吐き、腰の円環を抜く。ノインもまた床を蹴って前に出る。祈りの残響と鉄の軋みが重なり、薄闇が一気に裂けた。
金色の髪に掴みかかろうとする黒い手を、円刃で断つ。灰が舞い、光の粒のように散っては消える。
光が音もなく消えるや否や、別の手が床を這い、アスレイドの足元を掴もうと伸びた。返す刃で、もう一閃。斬り払うたびに、祈りの声が歪み、音だけが部屋に残る。灰が舞い上がり、暗がりの天井で一瞬だけ微かな光を返す。
「オオ、オタベナサイ……」
その声を合図に、黒い影の中にある、いくつもの口のような窪みが大きく開く。小さな影の一つが、アスレイドのすぐ脇を抜けて後方のノインへと狙いを定めた。長く伸びた黒い塊を、短剣で受ける。触れた切っ先は、黒い影を還すことなくただ重みを受け止める。
「く……っ」
まるで圧縮された空気をぶつけられたような衝撃に、ノインは思わず腰を引く。両足で衝撃に耐えながら、黒い影が迫るのを防ぐ。
握った柄の下で、手のひらがじり、と焼けるように痛んだ。
「オタベナサイ……オタベナサイ……」
祈りの声が止まらない。それは懺悔でも嘆願でもなく、ただ母が子を想う声のように響く。
ノインの胸の奥で、何かがひび割れる音がする。痛みでも怒りでもない。ただ、この理不尽に、誰かが泣いていたという事実だけが確かなのだ。
アスレイドの刃が閃くたび、灰が舞う。だが、灰はすぐにかき集められるようにして再び形を取り戻す。
黒い影がしなり、幾つもの子どもの腕がそれぞれ二人に向かって一斉に伸びた。
「……もう、いい」
受け止める短剣の先で、光が揺れる。短剣の刃を圧していた黒い影が、触れた部分から音もなくきらめいて灰になっていく。
もういい。これ以上。理不尽に壊されないでいい。
胸の奥で何かが焼け、耳鳴りだけが雪のように降る。鼓動だけが、自分の外側で鳴っている気がした。
圧がなくなったことで、ノインはもう一度床をしっかりと踏みしめると、迫る手を弾くように短剣を舞わせる。聖痕の祝福を受けていない、罪で汚れたダガーが黒い影を世界から断ち切っていく。誰も救えなかった世界から、灰となって逃すように。
黒い塊の中心が、動揺したように大きく左右に揺れると、言葉にできない声で号令をかけた。もはや何の形かも分からない影が、アスレイドとノインを飲み込もうと長く伸びる。円刃が、短剣が。迫る黒を還していく。
もうこれ以上、あんた達が泣かなくていい世界へ。
低く呟いた声と同時に、ノインは塊に向かって走る。させまいと伸びた黒い影は、横から弧を描いて飛んだ円刃によって音もなく灰になる。
アスレイドの円刃が鈍い音を立てて壁に刺さったのと、ノインの短剣が異形の中心を貫いたのは同時だった。
――温かい、パンの匂い。
子どもたちの笑い声。
母のように、包み込む笑顔。
それらは一瞬だけ脳裏に焼きつき、音もなく崩れ落ちた。
黒い塊が震える。光が床を走り、壁を這い、子どもたちの輪郭がゆっくりと白く染まって崩れていく。大小の影は、まるで合唱をするかのように細くなっていく。
「オタベナサイ……」
それは泣き声のようで、感謝の祈りにも聞こえた。
祈りが止む。音という音が、部屋から抜け落ちる。静けさだけが、在った。
母の影から、つうと細い塊が伸びる。そして、もう場所も分からないその胸にあてるような仕草を見せた後、やがて、灰だけが残った。
それは、確かに、祈りだった。
アスレイドは壁の円輪を抜き取ると、一息ついて改めて部屋の中を見渡す。残されたのは、荒らされた机や椅子と、人だったもの。中枢には、このままを報告するしかないだろう。せめて人であったものの特徴だけでも伝えて帰ろうと、つい先ほどまで異形が最後の晩餐をしていた場所へ向かう。
真新しい死骸は、野生動物に食い散らかされたように無残なものであった。だらりと伸びた腕に踏まれるように、血にまだ染まりきらない紙の切れ端を見つける。そっと指でつまみ上げると、そこには拙い文字でこう書かれていた。
――私は、
その先は、赤く滲んだ灰だった。アスレイドはそっと折りたたみ、ケープの内側にしまう。
「……お疲れ様、ノイン君」
穏やかな声に顔を上げ、答えようとしたその瞬間、視界が白に塗り潰された。
アスレイドの目の前で、ノインは膝から崩れる。
呼吸が荒い。胸が焼けるように痛い。自分という存在が切り離されたようだ。確かにここにあるはずなのに、足元のおぼつかない感覚。
次に見えたのは、灰の降る部屋で崩れていく自分自身だった。
アスレイドが駆け寄り、ノインの身体を抱きとめる。
「ノイン君!」
白いケープが灰を吸い込み、二人の間で粉雪のように舞う。
確かにここにある。あるはずなのに、ない。終わらせることができたはずなのに、終わっていない。祈りを見届けたはずなのに、彼ら彼女らはどこへ行ったというのだろう。自分は、送ることができたのだろうか。違う、ならばこんなに苦しむこともない。これは、まだ残っている証拠だ。なら、なら。まだ続けなくてはいけないのではないか。迷わずに、ただ、安らかにあれるように。俺は、まだ。
ノインは何かを言おうとしたが、声にならない。ただ、指先がアスレイドの胸を掴み、震えていた。
アスレイドはその手を包み込む。
「……もう、十分だよ」
その声は祈りにも似ていて。けれど確かに、人の、言葉だった。
中枢に戻ると、アスレイドは神殿に報告してくるからと灰の教堂に辿り着く前に別れた。それからどうやって歩いたかは、正直思い出せない。
鼻の奥に、皮膚の内側に血の香りがこびりついている気がして、ノインは浴室に向かうと、丹念に身体を洗う。どれだけ肌を擦っても、鉄臭さが染みついているように思うのに、自分ではない誰かのことのようだった。
あれだけ強かった白い視界は、今では何も思うことはない。あれだけ鼓膜を叩いた声も今はもう思い出せない。何もかもが、あったものだと感じることができない。今、こうして濡れているのは本当に自分なのだろうか。身体を見ても傷一つないというのに、空いた穴から自分というものが零れ落ちていくかのようだった。
室内着に着替えて、二人の部屋に戻るとぼうとしたままベッドに腰かけていた。小窓から差し込む光はまだ明るい。本当に明るいのか? もしかしたら本当は既に陽は落ちていて、明るいと思っていたのは月明かりなのかもしれない。わからない。何が現実なのか、どこまでが自分なのかがわからない。
ぎい、扉が開く音がしたけれど振り向くこともない。アスレイドは、椅子の背もたれにショートケープをかけモノクルをテーブルに置くと、ゆっくりとノインの隣に腰を下ろした。
「……まだ、燃えているんだね」
男は、燃えていると言った。何が燃えているというのだろう。心か、身体か。それとも思考か。どれも違う気がするし、そうなのかもしれないと思う。ノインはその言葉を、どこか遠くからぼんやりと聞いていた。
「……燃えてるのは、俺じゃねえかもしれねえがな」
その言葉さえも、誰が発したのか分からない。自分が考えて答えたのか。それとも。
暫しの沈黙の後、アスレイドは腰を上げるとノインの真正面に立ち、ゆっくりと腰を屈める。青い瞳を射抜くように真っすぐ見つめると、両の手を頬に添える。まるで、ノインという男の輪郭を象るように。
「君の中で、祈りがまだ燃えているんだ」
そう言って、アスレイドの指が頬から耳へと移る。黒と白が混ざった髪を掻き分け、耳朶に指先が触れる。わずかに、ぬくもりが感じられたけれどそこに熱はない。
翠色の視線が、ノインをくまなく見つめる。ノインは、その視線に合わせるようにゆっくりとアスレイドを見つめ返している。アスレイドの指先は耳から首筋へ、そして鎖骨を滑っていく。湯浴みを終えた身体はしっとりと湿っているから、男の乾いた指はかすかなざらつきを感じた。
指が鎖骨から肩へ辿り、もう一度首筋に触れられたところでひくり、とノインの身体が小さく震える。その動きを見逃さなかったアスレイドが、上半身を起こすとノインの耳元に唇を寄せた。
「……っ」
ノインは小さく息を詰めた。
柔らかい口唇が押し当てられたあと、肌を軽く吸い上げられる。跡が残るほど吸われたわけではないのに、じんじんとした熱が残っている。
さっきまで何も感じなかったはずの皮膚が、誰かの体温を思い出していく。
「ノイン君」
耳元で囁かれる声の音を、一つずつ拾う。どの響きも落としたくなくて、ノインは静かに目をつむる。
暗い視界の中で、誰かが、アスレイドがノインの両手を取るのが分かる。アスレイドの手に導かれて、何かに触れる。柔らかい感触は、きっと自分がよく知っているものだ。
アスレイドはノインの掌を自分の頬にあてながら、静かに声を震わせた。
「君の手は、まだ。……温かい」
ひくり、とノインの指先がわななく。
触れられるたび、あんたの温度が俺の輪郭を起こす。
押しては引く波にさらわれたものが、ようやく足元に戻ってくるような。失ったなにかが自分の中に入り込んでくるような感覚だった。爪先から、自分の体温を感じる。静かに上がる熱は、鼓動を通じて全身へと伝播していく。
アスレイドはノインの掌を、今度はアスレイドそのものを象るように首筋へと誘う。ノインよりもがっしりとした身体のつくり。指の腹から伝わる、アスレイドの鼓動。まるで導かれるように、ノインの中に自分を取り戻していくような感覚があった。
だからこそ、ノインは触りたいと思った。目の前の男の熱を、確かめるように。――アスレイドを、もっと、感じたかった。
ノインの掌を掴んでいたアスレイドの指から、その思いを汲んだかのように力が抜ける。導き手がなくなったノインは、自分の意思でアスレイドの詰襟のフックを外した。そのまま一つずつ、黒衣の釦が外されていく。
一番下までたどり着き、前の合わせの隙間にノインの手が滑り込むと、アスレイドの胸を探る。ひくり、と金色の髪が微かに揺れたけれどアスレイドは拒まない。ただ静かに瞳を閉じ、ノインの手のひらが胸をなぞるのを受け入れる。呼吸が、二人の間で同じ速さになっていく。
「アスレイド……」
ノインの背が揺らぎ、さきほどされたのと同じように、アスレイドの首筋に唇を押し当てた。舌で首の付け根から耳元へゆっくりと舐め上げ、形の良い耳を食む。唾液の跡が残るたび、長い腕がノインの背に絡んだ。その手つきは、求めるというより、確かめるようだった。
胸に入り込んだ指先で頂を掠めると、アスレイドの喉が小さく震える。
「ぁ……」
零れた声が空気を揺らし、ノインの胸にひどく残る。もっと聞きたくて爪先で軽く擦ると、アスレイドの眉間が切なげに寄った。
その瞬間、金の髪がゆらりと揺れて、アスレイドの身体がノインに覆いかぶさる。
シーツが二人の重みで沈む。息が触れ合い、熱が行き交う。舌がノインの肌を這い、触れたところから焔のように熱が生まれては、ゆっくりと広がっていった。
アスレイドが触れたところから、自分という存在を構成する物質が集まってくるような感覚だった。切なげに眉を寄せながら、アスレイドはノインの身体の上で舌を伸ばして舐め回す。シャツを大きく捲り上げて、肉付きの薄い、それでもしっかりと筋肉の付いた肌を湿らされてノインは身体の芯がかあと熱くなる。先ほどまで掴めなかった自分自身が、はっきりと分かるような。それは、白い霞の沼から這い上がってくるのにも似ていた。
舌が臍の窪みまできたところで、アスレイドは上半身を起こす。静かにノインの手を取ると、自身の腰骨に添えてつうと腹の辺りまで導く。
「……戻っておいで」
それが合図だった。弾かれたようにノインは身を起こすと、アスレイドの身体を強く抱き締めて今度はアスレイドをシーツの海へ落とした。アスレイドの首筋に唇を寄せると、強く吸い上げる。甘く短い吐息が漏れて、ノインはその音の響きに酔いしれた。
首筋だけではない。顎の下、露わになった鎖骨、胸板、脇腹。アスレイドがしてくれたのを辿るように、ノインはアスレイドの身体に赤い花をいくつも散らしていく。自分ではない他者の形がはっきりと見えてくるようだ。その境界がはっきりすればするほどノインは自分自身でいられる気がする。
ベルトのバックルを解き、下着と一緒にスラックスを下ろすと、淡い陰毛の下には既にアスレイド自身が雄々しく天を向いていた。先端の割れ目には雨粒のような雫がぷっくりと浮かび、赤い芯の先端で光を湛えている。
熱が混ざるのに、混ざらない境界だけがくっきりと残る。
そこに俺が、在る。
「アスレイド……っ!」
その声は、どこか泣いているようにも聞こえた。ノインもまたズボンと下着を下ろすと、赤黒く怒張した自身をアスレイドの熱芯と擦り合わせる。薄い皮膚が互いの熱で昂られて、どちらともなく短く声を漏らした。
荒い息と、跳ねるような嬌声。ノインとアスレイド、混ざり合うように熱を分けあう中で、異なる二つの存在がある。ノインは堪らなくなって、手を伸ばすとアスレイドの陰茎ごと掌で包み、上下に扱く。ぶるぶると身を震わせていたアスレイドもまた、翠色の瞳を細めながらゆっくりと手を伸ばしノインの掌に己の掌を重ねて動きに合わせる。互いの幹の先端から先走りが漏れて、陰茎を濡らしていく。
無意識だろうアスレイドの脚が、ぐぐと左右に大きく開く。その様子を熱に浮かされた瞳で見下ろしていたノインは、上下に扱く手首の速度を速めた。
「あっ、あぁ、のい、ノインくん、あぁ、あっあっ」
互いの熱が同じ速度で脈を打つ。アスレイドの掌の動きに、自分の呼吸が合っていく。息の速さが重なり、指の動きも呼吸も、どちらが先か分からなくなる。自分の体温が相手の皮膚に移るのか、それとも相手の熱を受けて自分が熱を帯びているのか。その境目が曖昧になっていく。
やがて先走りが、白く濁り始める。触れ合うたびに、確かにここにいるという感覚が戻ってくる。相手の輪郭が、同時に自分の輪郭を形づくっていく。腰がいっそうずくんと重くなった瞬間、堰き止められない絶頂の予感を感じた。
「ぁああ、あす、れいど……っ、あ、ぁあ」
零れた名前は、ただの響きではなく。目の前にある他者を認識した瞬間だった。もはや一体となってしまったような熱に包まれているけれど、確かに目の前に自分ではない誰かがいる。
だからこそ、自分はここにいる。
先に達したのはアスレイドの方だった。全身を大きく震わせると短く喘ぎながら亀頭の割れ目から白濁を吐き出し、自らの腹に散らす。それを追うように、ノインもまた低く喘ぎながら吐精した。アスレイドの腹の上で混ざり合った二人分の体液は、その違いが、存在の証のように思えた。
射精の余韻がゆっくりと消えていく中で、ただ二人の呼吸の合間に、ひとつの鼓動だけが残る。それが、確かに生きている音のようで。ノインは自らの掌を見つめる。体液で汚れたそれは、どこか懐かしくも見えた。
アスレイドの腕がゆるゆると伸びると、ノインの掌を捕まえてゆっくりと五指を絡めてくる。ぬちゃ、と微かに液体が混ざる音が鼓膜を揺るがした。
「……あったけえな、あんたの手」
ぽつりと呟いたノインに、アスレイドは漸く呼気を落ち着かせた中で穏やかに微笑んだ。
「君が、帰ってきたんだね」
その声は、まるでノインを先導するかのような音をしていた。白い霞の中の導き手。アスレイドという灯を確かに見つけた瞬間、ノインもまた自己の輪郭を認識することができた。
それでも、またいつかあの白い沼に引きずられそうになる気がして、ただただ恐ろしかった。彼という存在が無くなったら、自分はここに立っていられるのだろうか。身の芯から焦がすようなあの熱に、また飲まれてしまう無意識の恐怖だった。知らず、ノインはアスレイドの指が絡む掌に力を込める。
「……俺は、いつか、燃え尽きちまうんじゃねえか」
その呟きに、アスレイドは答えることができなかった。彼の崩れ方は、自分のように、何かに支えられることのない純粋な、彼自身の魂の在り方だった。その燃え方は、ただ美しいと思ってしまったのだ。
彼が燃え尽きるというならば、その前に僕が抱き留めよう。そう思っていたのに、口を開いて言葉を紡ぐことはできなかった。
それでもふたりの掌の熱が、静かに祈りに変わる。どうか。灰に変わることのないように。その願いを拾う者はなく、ただ浮かび上がった二人の熱が夜の闇に溶けていった。