外伝3 深銀
胸に沈む重みで、ゆっくりと瞼を開ける。温かな朝日は、優しく室内に差し込んでいる。隣で眠る男の体温を共有しているからか身体が冷えることはない。
身体を暴いた熱が、余韻を纏いながらゆっくりと抜けていった。それから、二人、離れがたいようにぴったりと引っ付いて眠る。まるで、欠けた陶器の破片をひとつひとつ張り合わせるように。細かな粒は掬い取ることができず、ところどころ小さな穴が空いているけれど、それでも隣に在るのは互い以外に考えられなかった。
ノインの胸には、穏やかに肩を上下させるアスレイドの顔があった。小鳥のさえずりより細い寝息を立てながら、髪の色と同じ睫毛が呼吸と一緒に揺れていた。
湿り気を帯びた肌に、金糸がはりついていて少しくすぐったい。自分も髪が伸びたが、アスレイドのものも随分伸びた。ノインは男を起こさないように彼から遠い方の腕を伸ばし、指先で胸に張り付いた金の髪を掬う。朝の光に照らされて、一層透明感を帯びた彼の髪。こうして肌につくのも、持ち主が眠りについてなおも自分を絡めとろうとしているようにも思えて、ノインはゆっくりと口端を上げる。
指に摘まれて煌めくアスレイドの一部は、蜘蛛の糸のようだと思った。
「随分、伸びたな」
椅子に腰かけたアスレイドの後ろに回り、ノインは立ったまま金色の髪に櫛を入れる。掬うように髪の束を持ち上げ、もう片方の手でゆっくりと櫛の歯を通せば、うねりの強いそれは素直に通っていく。時折くいと絡まる部分を指先で感じ、引く前に丁寧にほぐす。木櫛が、光を受けて白く発光するような髪を潜り肩甲骨の下まで泳ぎきると、もう一度頭頂部から滑り落ちていく。
「長い方が好みだと思っていたよ」
「ちげえ、いや、まあ……どうなんだろうな」
「君に任せていたものね」
穏やかな語り口が心地いい。二人の部屋に住まうようになってから、アスレイドの髪はノインによって整えられていた。意識していたわけではないが、鋏を入れる度になぜか長くなっているような気がする。彼の言う通り、長い髪の方が嗜好に合っているのだろうか。
櫛を唇で咥えて、首にかけていた紐を取ると金糸を一つの束にまとめる。掌で束を握り、紐をぐるりと巻きつける。解けぬよう、少しだけ強く結んだ。
「終わったぞ」
思えば、こうして髪を触るようになったのもいつからだったか。癖のある髪だが、一本一本が細く、指を通せば柔らかな感触がある。ノインの白と黒の混じった髪もまた外側にはねる癖があるが、アスレイドの髪質とは異なり少し硬い。その手触りが愉しくて、いつしかこうして時折アスレイドの髪を結わうようになっていた。
紐だけじゃ、味気ねえな。自分でも驚くほど自然に思った。
金髪の中に、色の異なる紐が不釣り合いな主張をしている。それはまるで、舞踏会に迷い込んだ蛾のような場違いさだ。しかし、整えてやればきっとまた異なる趣があるだろう。彼の髪に映えるような、何かはないだろうか。
「ありがとう。今日は中枢に行って書物を見てくるよ。愛しき伯父上の顔も見てこようか」
中枢神殿には、アルヴァリオ家の親族がいるとは聞いていた。アスレイドからしてみれば母方の伯父とのことだが、やりとりを聞いているとこちらの胃が痛くなってくる。顔も知らない他人に少しだけ憐憫の思いを馳せながら、ノインは櫛を棚にしまった。
「そうか。俺は市場でも見てくるかな」
「分かった。夕方には戻るよ」
ノインを見つめる翠色は、日常を噛み締めるように甘い。その真っすぐな視線に少しだけむず痒い思いを抱きながら、ああと短く返して少しだけ口角を上げて見せた。
芽吹きの季に入ってしばらく経った気候は、暑すぎることも寒すぎることもない。白い街並みの中で、青々とした葉が風に揺れている。足元で慎ましく咲く名もない花でさえ瑞々しい。この時期は一際強く草花の薫りが風に乗るから、ノインの心も知らず穏やかなものになる。
市場に足を運べば、あちこちから威勢のよい店主の声が響いていた。ネルガルド中の物が揃うと言われている南よりは品数も種類も少しばかり劣るけれど、この時期らしい色とりどりの野菜や果物、そして装飾品や日用品が所狭しと軒先に並べられている。この時期ばかりは中枢の住民はどこか浮足立って見えた。
アスレイドに贈り物がしたいと思ったのも、もしかしたら季節が運んだ気まぐれなのかもしれない。それでも、あの金色に似合う何かを渡したかった。いつか彼が、この左腕に白い祈りの一片を巻いたように。
「お、これ」
店の一つに、懐かしい物が置かれていたからノインは思わず立ち止まった。足を止めれば、町の匂いの間を縫って嗅ぎ慣れた香りが鼻孔を擽った。香辛料を専門に扱う店なのだろう。軒先には、指先に載せられるほどの小さなコルク瓶がいくつも並んでいる。透き通った硝子の中には、砂より細かな粉が詰められているものや、乾いた花片や種子が層を重ねていた。
「丁度東から業者が来てね。お客さん、詳しいのかい」
「……少しばかりな。確かに、匂いがまだ強い」
にこやかに笑いかけた商人を前に、小瓶の一つを手に取って栓を抜いて鼻に近付ける。懐かしい香りだ。陽の光で金にも銅にも見える細かな粒は、肉の臭みを抑えて味を落ち着かせる効果がある。ノインが東で獣を狩っていたころは、必ず持って出たものだ。
他にも、香りを強めるもの、色を付けるもの、心身の状態を改善するとされているもの。どれもこれもが思い出を連れてくる。それでももう、そこに縋ることはないけれど。
二、三個の瓶を買い上げると、それだけで心が弾む。そのうち、アスレイドに料理を振舞う時に使ってみようと思った。彼はどんな顔をするだろうか。口に合うだろうか。彼は北の淡白な味付けが基本になっているから、こうした香料の強いものは抵抗があるかもしれない。それでも食べさせるつもりだけど。
再びぶらぶらと店を回っていると、ぽつぽつと装飾品を扱う店があった。しかしどれもしっくりこない。あんまり難しい顔をしながら品物を眺めていたからか、ある店では南の方がお客さんのお眼鏡に合うものがあるんではないかと言われる始末だ。南。確かに、夜の顔を持つあの地ではそれに見合ったものがあるかもしれない。しかし、いつ向かうことができるだろうか。アスレイドと共に行くだなんてことになったら、またあの好奇心と嫉妬と羨望に塗れた瞳を向けられて居心地が悪いことこの上ないだろう。二人並んで店に並んだ日には、それこそ刺されかねないとも思う。南の地でゆっくりと吟味するのは魅力的な話であるが、おおよそ現実的ではなかった。
ノインが教堂に帰ると、まだアスレイドの姿はなかった。折角だから買ったばかりの香辛料を試してみたくてノインは一緒に買い込んだ魚の腹にナイフを挿し入れる。それから、小瓶の蓋をそれぞれ開けて肌に沁み込んでいる分量だけ切り身にまぶす。あとは、水を入れた鍋の中でゆっくり煮込むだけだ。
主が帰還する頃には、部屋には香りが立っていた。
「遅くなったね、うん、いい香りだ」
アスレイドが、扉を開けて漂う香りに瞳を細めて見せた。どうやら上手く食欲を刺激したらしい。その様子に内心安堵しながら、ノインは椅子に腰かけたまま声を掛けた。
「飯、できてんぞ」
「どうやら充実した時間だったようだね、よかった」
ショートケープを壁にかけると、アスレイドもまたテーブルの椅子を引いた。二人で食前の祈りを捧げた後、互いに過ごした時間の報告をしあう。アスレイドの口が、煮込まれて色付いた切り身を穏やかに食んでいる。
「そういえば、……すまない。少し、教堂を空けることになる」
「珍しいな。なんでまた」
「いやね、伯父上に会ってきたんだけれど。交換条件を出されてしまってね」
「お前の望みを叶えてほしかったら手伝えと」
御名答だね。アスレイドが苦笑した。
「そんなに長くはならないと思うけれど……ノイン君を一人にさせてしまうね」
「構わねえよ。またなんか物が増えてるかもしれねえけど」
出立の日付を聞いた時ノインは、好機だとよぎった感情を隠した。その日数なら、南に行って帰ってくることができるだろう。どうせ一人で灰色の教堂を任されても手に余るのだから。
ふと、アスレイドの手が止まる。ノインはその様子に、忍んで南に行くことを悟られてしまったのかと表情を変えずに慌てた。それとも、料理に何か不満があったのだろうか。恐る恐る聞いてみると、翠色の瞳が壁際の白いケープに注がれた。
「ケープを掛ける場所、変えた方がいいかもね」
君が作った料理の香りが移って、我慢ができなくなりそうだ。
そう続けた言葉には、料理よりも濃い、熱の香りが混ざっていた。
高い日差しに照らされて、ノインは雑踏の中を歩いていた。潮風が心地よく鼻をくすぐり、抜けていく。
屋根の上で干されている布が風に膨らみ、通りの影をわずかに揺らす。香草と果実、花の匂いが溶け合って漂い、どこを歩いても誰かの笑い声が聞こえた。
人々は言葉よりも身体で話し、抱擁と頬の接吻で挨拶を交わす。愛を惜しみなく分け合うその姿は、この地に生きる者の祈りそのもののようだった。左腕に巻いた布がなければ、居心地の悪さに眉間に皺を寄せながら歩く羽目になっただろう。なんとか人の波を分けながら歩き続けられたのは、アスレイドのかつての祈りの欠片のおかげだ。
中枢とは比べものにならないほどの賑わい。少しでも気を抜けば、財布の紐が緩みそうになる。興味を惹かれて立ち止まっては、本来の目的を思い出して歩みを進めた。声と香りの洪水にさらわれそうになりながら、いくつかの装飾を見て回る。
眩しい宝石。慎ましい彫り物。
視線が泳ぎ、金の髪に何が合うのか分からなくなる。
そんな中、聞き慣れた声が名を呼んだ。
「あらあ、珍しいじゃない。一人だなんて」
ひらひらと手を振っていたのは、リュエルだった。ノインの姿を見て、こげ茶色の瞳が輝く。知り合いに出くわしてしまった気まずさを少しばかり覚えながら、ノインは軽く手を振り返した。
リュエルはひらひらと軽やかにこちらに近寄り、噂を聞きつけた野次馬のように口元に手を当てながらにやついて見せる。
「一人で来るなんて、まさか遊びに来たわけじゃないわよねえ?」
「ちげえよ。買い物だ」
「んふふ、そうよねえ。遊びだなんて言ったら、今度はあなたが無事じゃすまないわよ?」
リュエルの声に釣られたのか町のあちこちから視線が縫うように這い寄り、ノインの背に集まった。南の地で名を馳せた男が、もう誰も夜を共にしないだろうという噂が娼婦たちに伝播し、代わりに自分のことが彼女たちの好奇心に火をつけたらしい。曰く、百戦錬磨のアスレイドを落とした男の秘儀はどのようなものかと。その妙技は、アスレイド以上だと。そんな謂れのない誉れに尾ひれがつくのは、一度だけ相手をした女たちの誇張だろう。そう思うと頭が痛い。アスレイドと二人で来れば、噂は刃に変わる。だから今日はひとりでいい。
早く目的を済ませて中枢に戻りたい。ノインは本心からそう思っていた。
「あんた、南に詳しいだろ。手伝ってくれ」
「あたしで良ければなんでも」
「……あいつに似合う、髪飾りを探してる」
彼女がまあ、と一際大きい声を上げたものだから。今度は街行く人々の視線がノインに注がれる。勘弁してくれと内心頭を抱えながら、ノインは舌打ちをする元気も失せていた。
「それならいい店があるわよ、んふふ、そうよねえ。彼に似合うもの探すの、大変だものねえ」
まるで金魚のようにスカートを揺らしながら、石畳を打つ靴音が乾いた空気の中に軽やかに響く。中枢の白とは違う、赤茶けた煉瓦が積み上がる街並みを跳ねるようにリュエルが先に進む。その後をノインは眉間に皺寄せながら続いていく。もはや、視線を気にするのも疲れ果てた。
リュエルが大通りから路地にするりと身を滑らせたから、見失わないように少しだけ歩を速めた。影になる細道を抜けると、ざわめきが嘘のように遠ざかった。開けた小さな空間の中で、小さな扉が陽の光を反射して銀色に光っている。
扉を押すと、鈴の音が柔らかく鳴った。外の熱気が一気に遠のき、金属を磨く匂いと、乾いた木屑の香りが混ざり合った空気が迎える。壁一面には鏡のように磨かれた皿や杯、棚の上には指先ほどの小さな細工が並べられていた。光は窓から差し込むだけだが、どの銀もその一筋を受け止めて、自ら輝いているかのように見える。
先に入ったリュエルが、秘密基地を案内するかのような朗らかさでノインに振り向いた。
「南の工房で銀を扱うのは珍しいの。ここはね、金よりも愛を長く保つって評判なのよ」
声が少し弾んでいた。ノインは返事をせず、並べられたバレッタのひとつに手を伸ばした。細すぎず太すぎない、それでいて存在を主張しすぎない銀色の髪留めは、思ったより軽い。
表面には深緑の石がひとつ、銀の蔓に抱かれるように嵌め込まれている。その色を見た瞬間、アスレイドの瞳を思い出した。
「それ、気になる?」
リュエルが横から覗き込み、指先で銀の縁をなぞる。
「金は目を奪うけれど、銀は残るの。冷たくて、やさしい。あなたの彼には、その方が似合うと思うわ」
あなたの彼、という言葉にノインは視線を逸らして、咳払いをした。
「……金なんて選ぶ気はねえよ」
「ふふ、そう」
職人が奥から現れ、試しにと小さな布を敷き、そこにバレッタを置いて光の当たり方を見せてくれる。
深緑の石が光を吸い、内側から淡く瞬いた。海底で、陽が揺れるように。
ノインはその光景をじっと見つめる。指先で銀の冷たさを確かめながら、胸の奥に、言葉にならない感覚がゆっくりと沈んでいくのを感じた。
それは多分、欲とも祈りともつかないものだ。ただ、アスレイドに、触れたいと思った時と、よく似ていた。
店を出ると、空はもう橙に傾きかけていた。大通りまで戻ってみれば、煉瓦の壁が陽を溜め込み、通りの空気まで淡く熱を帯びている。海のほうから吹く風が、街の熱をやわらげて通り抜けた。南の夜が、目覚めようとしていた。
振り向いたリュエルの輪郭は、橙と黒で象られている。
「買い物の手伝いができてよかったわ。ノイン君、あなた、わかってるじゃない」
「なにがだ」
掌で握るバレッタが、ノインの熱を集める。
「銀は光を映して静かに輝く。冷たさの先で、柔らかさを引き出すから。きっと、あの人に似合うわ」
ノインは掌に視線を落とす。バレッタに刻まれた蔓模様の溝に指先をなぞらせ、沈んでいる深緑の石が光を飲み込むのを見つめた。
その一瞬、アスレイドの瞳の色が思い浮かぶ。リュエルはその様子を、瞳を細めて見守る。
「ねえ、アスのこと、好きなんでしょう?」
不意に問われて、ノインは顔を上げた。
「……どうだかな」
「ふふ、そうやって曖昧にしてるうちは幸せよ。愛を言葉にしちゃうと、だいたい壊れるんだから」
通りを渡る風が、リュエルの髪を揺らした。
彼女は短く別れの挨拶をすると背を向け、遠くの階段の方へと歩き出す。煉瓦の赤と金色の光の中に、彼女の姿がゆっくりと溶けていく。
「……愛ねえ」
小さく、振り返らずに呟く声が風に混じった。きっと彼には届かない。それでも、この地の自分には、この言葉でしか言い表せなかった。
ノインはその背中をしばらく見送ってから、掌の中の銀をもう一度確かめる。
陽が沈むにつれて、銀は冷たさを取り戻していた。
灰色の教堂に戻っても灯が点いていなかったから、アスレイドはまだ戻っていないようだった。出ていった時と寸分変わらぬままの部屋で、胸にしまっていたバレッタを一先ず布で包んだ。帰りしな調達した野菜と肉を適当に切って鍋に入れる。前とは異なる分量の香辛料を混ぜると、後はゆっくり煮込むだけだ。時間をかけて味をしみ込ませたいけれど、いつ帰ってきてもいいように短時間の煮込みでも楽しめる味付けにした。
一人きりの教堂で、ノインは一人きりの時間を過ごす。部屋を片付けた時に出てきた本の頁を捲っては、時間が過ぎるのを待つ。こうして時間を持て余すのは随分久しぶりで、今までどのように朝を待っていたのかを思い出せなくなっていた。
そうこうしている内に、居室の時計が日をまたぐ時間を指し示していたから、そろそろ床に就こうとしたところで聖堂の扉が開く音が聞こえた。
「ああ、起きていたのかい。遅くなってしまったね」
とっくに遅い時間だけれど、姿を現したアスレイドの顔に疲れは見えない。寧ろすこぶる機嫌がよく見えるのは、小脇に抱えた数冊の書物のおかげだろう。そして鼻を小さく鳴らすと、その表情がますます明るくなったように見えたのは都合が良すぎる錯覚だろうか。
「おかえり。飯、食うか?」
「もちろん。君の顔を見たら一気にお腹が空いたよ」
その前に、部屋に荷物を置いてくると奥の部屋に消える。ノインはその内にパンと煮込んだ料理を皿に盛り、彼の席に置いておく。黒い神父服のみを纏った姿で戻ってきたアスレイドは、礼を言いながら椅子を引いた。
そして、この数日の互いの過ごした時間を他愛もなく話した。
伯父との話、手伝いの愚痴、新たな発見、そして欲しがっていた資料を報酬代わりに持ち帰ったこと。
ノインは南のことを語らなかった。ただ、アスレイドが笑うのを眺めていた。
先に湯浴みを終えたのはアスレイドだった。寝間着の上だけを羽織り、二人の部屋で、ランタンの灯りを頼りに手に入れた書の文字を追う。ネルガルドの歴史書は、いつか中枢の資料庫で見かけた時にどうしても欲しいと思ったものだった。これには伯父も簡単には首を縦に振らなかったから、それならば通い詰めて複製でも作ってしまおうかと思っていたところだった。蔵書の整理があるから手伝えと言われ、伝承的検討が終わったからと持ち出しの許可が下りたのだった。その代わり、読まなくなったら返すという条件付きであるが、手放せるのはいつになるだろうか。
その日も楽しみに、一文字一文字ゆっくりと咀嚼するように読み進めていると、二人の部屋の扉が開いた。
「……なあ、アスレイド」
穏やかな声で名を呼ばれたから、翠色の瞳を上げた。まだ微かに湿り気を帯びた白と黒の髪が、淡い光に照らされる。ノインの手には、柔らかい布で包まれた何かが乗せられていた。
「それは?」
「土産だ」
「……僕にかい?」
ノインは少しだけ息を吐いて、包みを差し出した。
布をほどいた瞬間、銀の光が灯の中で細く揺れた。アスレイドの瞳と同じ色をした宝石が、きらりと静かに煌めく。
「……バレッタ?」
「ああ。髪、結ぶのに使え」
アスレイドの指が、そっと銀の蔓に触れる。
深緑の石が、彼の瞳の色を映して微かに光った。
「……きれいだ。これ、南の?」
「ああ」
「君が……一人で?」
その声は、微かに震えていたような気がしなくもない。ノインは答えなかった。少しの沈黙が落ち、灯の音だけが響く。
アスレイドは微笑みながらも、その奥にかすかな翳りを宿してノインを見つめていた。
「誰かの、勧め?」
息が飲む音が聞こえる。
「……リュエルがいた」
「そう」
机上の灯が、銀の面に細い線をひとつ引いた。ほんのわずかに、アスレイドのまつげが震える。すぐに微笑みが戻るが、その奥の光は少しだけ曇っていた。
嬉しい。ノインが、自分のために贈ってくれたものが。その時だけは自分のことを考えて、何も他のもので満たされていなかっただろう事実が。いつか、白籠手を君に贈ると決めた時の自分と同じように、その瞬間の彼の中には自分だけがあった。
だけど、彼がこの銀色を選んだ時の顔を、僕は知ることはできない。
「でも……君が選んでくれたなら、それでいい」
言い聞かせるように声を絞り出すと、少しでもその空白を埋めたくて優しくバレッタを掌で包んだ。
ノインはその言葉に答えず、椅子を引いて彼の背に立つ。まだ少し湿った金の髪が、指の間に柔らかく絡まる。指を梳かし、髪をひと束にまとめて、銀の蔓を滑らせて留める。
カチリ、と小さな音がして、二人の間の空気が少し変わった。
アスレイドがゆっくり振り向くと灯の光が髪を透かし、銀がかすかに反射する。
「どう?」
「……あんたの髪に、よく似合う」
「君が、僕を見てくれていたって証拠だね」
「……そうなんだろうな」
曖昧な返事をしながら、ノインはそのままアスレイドの首筋に指を滑らせた。
濡れた髪の香りと、銀の冷たさがひとつに混ざる。
アスレイドは目を閉じ、微かに喉を鳴らした。ねだるように瞼を閉じると、唇に柔らかい感触が圧し当てられる。
形を合わせるような口付けも束の間、ノインは舌先をアスレイドの口腔に滑り込ませた。すぐに、熱をもった舌が絡み互いに唾液を纏わせる。
唇に、昼の香りが微かに残っていた。香辛料の影が、熱に溶ける。
「ふ……ン……」
口の中を浅く深く探られて、貪り絡め取るように何度も交わり、頭の芯がじんと痺れる。歯列をなぞられ、頬の内側を舐め上げ、指が首の後ろをつうと撫でる。細かな吐息と水音が二人を包み、離れがたい衝動に突き動かされ互いの唇を激しく求め合う。周囲の音も景色も、二人の熱の中へと消えていった。
唇を離したのはノインの方からだった。指先が釦を外し、ゆっくりと衣服を剝いでいく。夜気に晒された肌は、空気を溶かしてしまいそうなほど熱をこもらせている。
なだらかな丘を指が走ると、アスレイドの両腕がノインの首の後ろに回った。鼻先をまとまりきらない髪がくすぐり、誘われるように耳元に舌を這わせた。
「のいん、くん……」
呼応するように、ノインの舌が肌を滑る。身じろぐように震えたアスレイドの身体を抱き締めると、ズボンの内側で自身が兆すのが分かる。そしてそれは、アスレイドも同じく、下着の中で窮屈な思いをしているのだろう。
身体の形を確かめるように腕を回しあいながら、ベッドに倒れ込む。髪の後ろで鈍く光る銀が当たらないようにノインがシーツに沈めば、上に乗ったアスレイドが何度も口付けてきた。伸ばされた舌を吸い上げると、頬を引きつらせながら腰を揺らせる。
「む、ん、んん、うン、ふ……ッ」
餌をほしがる小鳥のように、ノインの口付けを求め必死に唇を寄せるアスレイドに応えながら、ノインは掌を逞しい体躯に沿って這わせる。腰の辺りを撫でまわすと、その張りのある肌の感触を楽しんだ。
「ほら、腰上げろ」
耳元で言葉を流してやれば、翠色の瞳がゆっくりと開かれる。欲の霞を纏った目が、期待に打ち震えながら身体を離し、ノインの横に沈んだ。下着を脱ぎながら腰を上げるのを見届け、ノインは枕元の棚からオイルの詰まった瓶を取り出す。木の棚がきしむ音に、双丘の奥にある慎ましい孔が何も言わずにかすかにひくついた。
栓を抜いて液体を掌で受け取ると、湿り気を帯びた指をそこに押し当てる。すぐに、飲み込むような動きをみせたけれどあえて縁をなぞるように爪先を滑らせた。
「はあ……っ、あ、ぅ、んんん、ん……ぅ……」
腰が揺れる。いつまでも中に入ってこないじれったさを、身をくゆらすことでごまかしているようだった。気付かれないように鼻で軽く笑うと、ゆっくりと中指を後孔に押し込んでいく。
「ぁ、あ……! ああ……っ」
大きく背がしなる。関節まで飲み込んだそこは、最初こそ侵入者を拒むように強く締め付けたけれど、すぐに奥へと誘うようにうねる。オイルを纏った指が、一際アスレイドの弱いところをかすめてやると金色の髪が左右に舞った。
「うあっ、ああぁ、そこ、っ、い、んン……ッ! んんっ!」
快感を得る身体の隙をついて、もう一本指を増やすと腹の内側をとんとんと軽く叩く。強い熱を逃そうと、アスレイドの指がシーツを握りしめて深い皺を何本も作っている。金色の髪が乱されようとも、後頭部には銀色の髪留めが振り落とされないようにしがみついている。
ノインは片手でオイルの瓶を手繰り寄せると栓を抜き、自身の茎に軽く垂らす。既に天を向いている先端から幹へ、黄金色の液体がゆっくりと流れていく。濡れるのも厭わず瓶を転がすと、芯全体に塗りたくるように指を曲げて上下に扱いた。
「ぃう――っ、う、ぅう゛……っ、あ、ぁああ! あぁ、あっ、あぁっ」
くちゅくちゅと体液とオイルとが混じった音が強くなるたびに、アスレイドの嬌声もまた高く零れていく。淫らに揺れるしなやかな体躯を、ノインは目を細めて見つめる。俺だけが壊せる容。俺だけが壊すことを許された容。俺だけが、至れる容。
「なあ、アスレイド……、指だけで終われそうか?」
ぴたりと手の動きを止める。苛烈だった快感が突然失って、埋め込まれた指の感覚しか感じなくなったことに、おずおずと翠色の瞳がこちらを振り返る。その奥には、翠を焼き尽くすほどの赤い欲が揺れていた。
「ぁ……?」
「あんまりよく鳴くからよ。このままでもいいかって」
ノインは喉の奥で笑いを洩らし、さらに囁く。身体は穿つ熱をもっと求めたいと願ってしまっている。それは壊す交わりではない、ただ、目の前にある存在を飲み込んで交じり合ってしまいたいという欲だった。
銀の面に灯の筋が揺れ、アスレイドの瞳にも同じ線が走った。
「そんな……言わなくても、分かる、じゃないか……っ」
言葉は、震える声で裏返っていく。ノインは低く笑うと、一度だけ指を曲げる。アスレイドの瞳が、切なく歪んだ。
「……素直に言わねえなら、このまま動かねぇ」
「……ぁっ、や……やだ……!」
耐えきれず喉が鳴る。アスレイドの中は、熱を受け入れたくて意思とは裏腹に収縮している。暴く熱を、迎えたいと懇願している。それが分かってしまっているから、アスレイドは顔を歪ませた。羞恥に震えながらも、とうとう口を開く。
「……ほしい……」
「聞こえねえな」
それでも、ゆっくり、少しずつ。指を引き抜いていく。最後まで言えたなら、望むものが与えられるのだと意識づけるように。アスレイドの声が、震えた。
「欲しい……っ! なかに……!」
ずるりと、指を引き抜いたのと代わりに、膝を折って痛いほど張り詰めている熱芯の切っ先を、今まで指が埋まっていた孔にあてる。そして、在るべき場所に還るような思いで腰を押し進めた。
「ぁあ゛ああっ……! あっ、あぁぁっ……!」
埋まっていく。ノインの身体の中で最も色が濃い、赤黒い部分がアスレイドの体内に呑まれていく。苦痛にも似た甘い声が、鼓膜を叩く。
そしてノインは、中で深く押し込んだまま腰を止め、囁いた。
「……誰のが欲しいんだ?」
陰毛が触れるほどに密着したところで、ノインが低く笑う。その僅かな空気の震えさえ、欲しくなる。疼く奥を突かれたまま放置され、堪らずアスレイドの腰が揺れる。
ノインは上体を伸ばし、アスレイドの金糸を掻き分け耳たぶを甘く噛んだ。先を強請るように、甘やかな吐息を漏らしながら。
「そ、そんな……きまって……っ!」
「我慢すんな。嫌ならやめる」
一拍置いて、指先が優しく肌の上で円を描く。嫌だと言ったら、ノインは間違いなく止めてくれるだろう。だけれど、それをアスレイドの身体の奥が許してくれない。
「言え」
視線が絡む。バレッタの縁に灯が跳ね、彼の睫毛が一度だけ震えた。アスレイドの瞳が大きく開いて、ノインの顔を捉えて揺れる。長く伸びた黒と白の髪は、アスレイドの肌を擽るだけで熱を与えてはくれない。
ノインは腰を止めたまま、中で押し広げたまま、もう一度耳に舌を這わせる。
「誰のを欲しがってるのか。はっきり言えよ」
「や……だ……っ!」
必死に首を振る。けれど奥は疼いて、欲しさに震えてしまう。振り向きざまに見える銀のバレッタは、物言わぬかわりにきらり煌めいた。
「言わなきゃ、このまま置いてくぞ」
少しだけ腰を引き、ぐっと深く突き上げ、声を奪ったまま動きを止める。
「……ぁあ゛っ……! や、やだ……っ! やめて、おいてかないで……!」
涙に濡れた声が懇願に変わる。子どものような、幼い台詞は既に思考が白く霞掛かっている証拠だろう。
「なら言え。……誰のが欲しい?」
「……ノイン君の……っ!」
「もっと、はっきり」
「ノイン君のが、欲しい……! 奥まで突いてほしい……っ!!」
涙に濡れながら叫ぶと、ノインの笑みが深くなり、待ちかねたように腰が激しく打ち込まれる。
繋がったところから肉のぶつかる音と水が潰れる音が響き、アスレイドの奏でる嬌声に色付けていく。反り返った頭の上で、銀色が躍る。
「……そうだ、それでいい」
「ぁああああっ……!! ノイン君っ、ノイン君……っ!」
恥辱と快楽の地獄に沈みながら、アスレイドは声を枯らして泣き喘ぎ続けた。
「ノイン君のが……欲しい……っ! もっと奥まで、突いて……っ!!」
涙で濡れた声を、必死に絞り出す。突き上げられるたびに背が跳ね、全身が痙攣する。泣きながら乞えば乞うほど、容赦なく奥を叩かれた。
一瞬だけ、銀がノインの肌をかすめる。銀が触れたところの皮膚だけ、朝の水のように冷たい。くく、と低く笑って、低く呟いた。
「落ちねえもんだな。……ほどくのも俺だ」
腕を伸ばすと、指先で留め具を外す。絡むことなく落ちた銀をやんわり握ると、シーツを掴んだアスレイドの掌に差し渡す。震える指がバレッタを握り締めたのを見計らって、その上からノインの掌が重なった。
「ノインくん……! 僕、もうっ……!」
散々じらされた身体は、過分に快感を拾う。高く上げた腰が、わなわなと震える。恥辱も快楽も溶け合って、声が崩れていく。
奥を突かれるたびに、限界を超えた波が体を襲い、視界が白く弾ける。
「……見ててやる。奥で、果てろ」
ノインの声は低く、アスレイドという存在を甘く絡み取っていく。
「誰にもやらねえ。俺のを、奥まで全部受け取れ」
赦しを得たアスレイドは絶叫し、痙攣しながら何度も体を震わせて果てた。ぱたぱたと白い雫がシーツの上に滴っていく。涙を零しながら果てるその顔は、支配される快楽に蕩けきっていた。
全身を痙攣させて果てたアスレイドは、涙を散らし支える腕が崩れ落ちるのを必死に堪える。まだ余韻で脈打つ中を、彼の熱がしっかりと埋めているのを感じていた。
ノインは湿り気の帯びた髪を撫でながら、耳元へ口を寄せる。まだ、息の整わない、熱のこもった呼吸をわざと聞かせるように。その隙間から、言葉を紡いだ。
「……なぁ、シェルジュ。奥……まだ、欲しがってるぞ」
囁きは低く、甘く、逃げ場をなくすように絡む。腰をわずかに揺らすと、中は敏感に収縮し、アスレイドがびくんと震える。ノインの熱芯は、まだ精を放っていない。
荒い息の合間に、掠れ声で訴える。
「ん……、ほしい……ノインくんの……、顔、みたい……」
たどたどしくも甘いねだりに、ノインは一旦身体を離すとアスレイドの身体を仰向けにする。真っすぐに見た顔は、涙と汗に濡れていた。
再び陰茎を中に埋め込むと、ノインの胸に縋るように崩れ落ちる。
その身体を掻き抱いたノインの腕は、温かく、そしてここに在れるくらいに強かった。
「ここにいる。どこにも行かねえ」
抱き締められ、アスレイドは目を閉じる。痛みも羞恥も快楽の余韻も、その腕の温もりに包まれて溶けていくようだった。バレッタを手にしたまま、ノインの背に腕を回す。銀が、彼の掌でゆるく温度を持った。
「……君で、ぜんぶ……」
「ああ、俺だけだ」
荒い息をつきながら、アスレイドはノインの胸にしがみついて震えていた。
ノインは低い声で囁きながら、背中を何度も何度も撫でる。大きな掌が上下するたび、アスレイドの強張った身体が少しずつ弛んでいく。
「……ぁ……ノイン君……」
掠れた声が呼びかけると、背中に回った腕が答えるように力がこもる。その圧に、アスレイドは安心したように身を預けた。
リュエルは、白い石で作られたバルコニーに両腕を乗せて、海の向こうへ沈んでいく太陽を眺めていた。
真っすぐな水平線に、赤が抱かれるように溶けていく。抗えない、広がった大きな腕に飲み込まれていく様は、黒い空で幕を閉じていく。
それはリュエルが、一番好きな瞬間だった。胸元で光る、空と同じ色をしたペンダントも呼応するかのようにきらりと光を帯びる。
彼は、上手く贈り物を渡せただろうか。いつか、銀が似合うと思ったあの人に。あの人は、ちゃんと受け取っただろうか。すんなりといかなかったとしても収まるところに収まるのだろうという確信めいたものがある。
「愛ねえ……」
その顔には、憧憬のような笑みを湛えていた。
思うのは、隠すことのできない不器用なけだものと、神の皮を被ったけだもの。似た者同士の獣は、互いの尻尾を喰らい、やがてはらわたを飲み込んでしまうだろう。腹を空かした二匹は、互いの血肉でしか満たされない。そして互いのすべてを味わった後、ようやく満ちて眠りにつく。
南の神エルミナは、きっとこれも愛だと笑う。たとえ行き着く先が破滅であるとしても、そこにあるものを疑わずに謳う。そしてこの地に生きる自分も、愛という言葉でしか言い表す術を知らない。
その輪郭や、先に見えるのが執着や破壊であっても。全部抱き締めてしまうだろう。これを愛と呼ばずしてなんと呼ぼう。
夜の風がリュエルの髪を揺らす。町が起き出す気配を感じながら、もう少しこの時間の中であの二匹に思いを馳せる。
水平線の上、沈みきらぬ光が細い銀の線になって、最後にひとつ、瞬いた。