四神の御手にて作られし魂が、その御座に還ることを心より願う
――――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ

第十四話

 隣で眠る男の掌に、自分の掌を重ねる。
 指の隙間に一本ずつ挟み込み、ゆるりと曲げる。握り返されることはなく、ただ規則正しく上下する胸元を背中から見つめていた。
 眠る男の掌に、まだ体温が残っている。触れているのに、まだ届かない気がしていた。その掌は、壊さなければすり抜けてしまうと怯えていた。
 壊したくないのに、壊さなければ届かないと思ってしまう自分がいる。その矛盾に、胸の奥が焦げついていた。
 あの日、アスレイドの過去に触れてから。ノインは彼を壊すことをやめた。穏やかに、ただ抱く日々が続いている。
 なのに、その奥にはまだ届かないものがある。掴もうとしても指の隙間から零れ落ちるようで、その焦燥だけが胸を締めつけた。
「……これで、よかったのか」
 自分に問いかけるように、ノインは指を握った。熱を分かち合ったはずの手は、どこか遠い。

 簡素な朝食を皿に乗せ、ノインは静かにテーブルに置いた。外出ができるようになったとはいえ、まだ万全の調子ではないアスレイドが、スプーンとフォークを皿に添えるように置いていく。ノインは気付かれないように、横目でその動きを見つめていた。
 あれからコートを着なくなったアスレイドは、黒い礼拝用の服しか身に着けなくなっていた。しかし、その下にある背中に、肌の色が異なる傷痕があることを知っている。舌を這わせても痛みを感じることはなくなったようだから、他の場所より色が濃いそこに何度も何度も口付けた。自分しか知らない跡を、確かめるように。
「よく眠れたかい?」
 アスレイドの声は穏やかで、柔らかい。
 手元に、まだ夜の名残が淡く残っている。
 毎夜あれほど近くにいるのに、背中越しの声が遠く感じられる。
「……ああ」
 嘘を吐いた。ずっと、眠れていない。
 この、人で在りたかった者を、自分が受け止めてもよいのだろうか。かつて、誰よりも祈りを信じ、光を求めて堕ちたこの人を、罪の泥で汚れた自分の腕で抱き留められるのだろうか。
 そもそも、自分自身がこの世界に在る理由がない。誰かにここに、いていいと言われた訳でない。役割の持たない自分が、誰かを受け止めることなんてできやしない。
 それでも。こうして季節の巡りを共に過ごしたこの男を、知ってしまった。
 彼の記録を、過去を、望んだことを知ってしまった。そして、芽生えたのは、壊したくないという思いだった。
 アスレイドは、壊してくれとせがむ。本当はそんなことをしたくないのに、断ればやはり、自分がこの世界に留まる理由がなくなる。
 壊したくない。でも、どうしたらよいのか分からない。
 向かいにいる存在を、壊さずにいるにはどうしたらよいのか。分からないままただ隣にいる。
 思考を流すように皿を洗い終える。アスレイドが座っている席に、紅茶の入ったカップを置くと柔らかく礼を告げられた。その後、中枢神殿に行くから付いてきてくれないかと続ける。白雪の季が始まる頃から今の今まで、宣託者として、またシュレインとしての職務を一旦止めていた。説話は座りながらでも行えるから、先に宣託者として教堂を再開する旨を申請に行くのだという。是非もなく、ノインは頷いた。
 神殿の者達の視線は、ノインにのみ注がれる。アスレイドの横に並び立ち、神殿の門が開いた時から雨のように注がれる目線に、ノインは既に心が凪ぐこともない。
 俺はこの世界から外れているのだから。だから、今更どんな風に見られるか、見られたいか。俺にはもう関係のないことのように思えた。
 それよりも、アスレイドの方がどこか波立っているように見えた。白く塗られた廊下を歩き、教堂を管理している執務室の前に立ち、ドアを叩こうとしたところで後ろから呼び止められる。
「失礼、席を外していた。私が対応しよう」
 向かってきたのは、鉄錆の髪をした、白く染められた男。ヴェイスはポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に通しながら木扉を押し開ける。部屋の真ん中に置かれた机に添えられた椅子へ腰を下ろすと、ぴっしりと整えられた書類の束から二枚の紙を取り出し、何かを書き留める。ペンの尾についた羽が、ゆらゆらと揺れていた。
「……職務に戻るというのなら、規律は守ってもらう。中枢は異端を容れる場所ではない」
 ヴェイスの声は冷静だったが、視線は揺れていた。書類に押された印に視線を落とす一瞬の間に、羨望と拒絶が同居する色が覗く。彼は続けざまに吐き出すように言葉を足した。
「……だが、お前達が戻ったことを……喜ぶ者もいるだろう」
 ほんの刹那、迷いが滲んだ声だった。けれど彼はすぐに立場に縛られたように口を閉ざす。
 ノインには、その揺らぎが余計に刺さった。アスレイドの横顔は能面のように笑っている。けれどその微笑の奥に何があるのか、自分には届かない。
 すれ違う人々から向けられる視線は、最後まで変わらなかった。
 四神が見下ろす門が閉ざされると、雪解け水の匂いを含んだ風が一度だけ吹き抜ける。アスレイドは神殿を振り返らずにぽつりと呟いた。
「かつてこの地は、エクルシエルと呼ばれていたんだ。……忘れられた名前になってしまったけどね」
 アスレイドは言葉を継がなかった。
 彼が、ノインが。裁かれる筈だったこの地は、遠い昔、エクルシエルと呼ばれていたところだと、アルヴァリオにあった書で読んだ。その地の記憶は、年月とともに忘れられ、自らの内に宿るはずの光は、いつしか誰かの手によって誂えられた白い神殿が建っていた。
 まるで自分のことを語っているようだと一人苦笑する。だからこそ視線は正面に向けたまま、わずかに伏せた。
 祈られるたびに、僕はいつの間にか光にされる。あの視線は、いまだ僕を人の輪郭から押し出す。
 それでも隣にいる彼の気配だけは、寒さの中で確かな温度だった。
 壊れなくても、この温度に触れていられるのだろうか。
 思いは喉まで来て、まだ音にならなかった。
 ノインもまた、呼吸の合間に返す言葉を探すが、声にはならなかった。ただ、指先が微かに動き、袖の下で握り返したくなる衝動だけが残っている。
 教堂に帰る前に一か所寄らせてくれと言われ、ノインはその背を追う。
 辿り着いた家から出迎えたのは、かつて教堂でベンチに布をあてるのを手伝った女性だった。
 彼女は袋を恭しく差し出す。
「お気に召すといいのですが……」
「大丈夫。あなたの腕を、僕は知っている」
 にこりと笑みを向けられ、壮齢の女性の顔は陽光ではない色に染まる。誰にでも注がれる柔らかな言葉に、一喜一憂する理由はない。それでもノインには分かっていた。アスレイドは誰にでも平等で、特別を与えることはしない。それはノインに対しても同じなのだ。
 ……俺には、無理だ。
 袋を受け取る手を見つめ、小さく呟いた。俺は、誰かを救える言葉など持たない。俺は俺である理由がない。
 だからこそ影に引かれて付いていく。世界に足場を持たぬ幽鬼のように。
 挨拶を済ませたアスレイドの後を追って教堂へ戻ると、灰色の壁に沿って色とりどりの花が広がっているのが目に入った。子どもたちが植えた花壇だ。土を触る才能を持つ彼らなら、やがてさらに多くの花を咲かせられるだろう。鼻孔を擽る芽吹きの風に運ばれることができたら、どれだけいいだろう。ここに、ノインは必要ない。
 聖堂を抜けアスレイドの部屋に入ると、ようやく息を吐く。黒い詰襟を纏うアスレイドの姿は、いまだ慣れない。背中に傷を負った時、神父服は替えがきくけれどアルヴァリオの白いコートは駄目だったよとベッドの上で微笑んだのを覚えている。

 アスレイドは、ノインに背を向けたまま僅かに躊躇していた。渡してしまえば、もう後戻りはできない。
 ノインは、壊さずにいようとしている──あの夜、確かにそう感じた。ならば、壊さなくても繋がれるのかもしれない。
 そして、その可能性を、自分自身が信じてみたいと望んでしまっている。その先が、怖い。もし、何もなかったら。僕は、もう。
 叶わなければ、在ることすら許されない。破れたコートを見つめたあの日が、脳裏をよぎる。けれど、それでも。
 それでも、自分の身体に触れる彼の、震える指先を知ってしまった今は。怖さより、確かめたい思いが勝っていた。
 彼の眼差しを思い出す。ならば、この賭けに応えてみたい。壊さなくても、繋がれるかもしれないから。
 悟られないように努めながら、意を決して振り向いてみせる。
「ノイン君、……これを受け取ってほしい」
 袋から、まるで壊れ物を扱うように布を取り出す。袋から取り出されたのは白を折り重ねた片方だけの籠手。前腕を覆う長さで、革紐の結び目は戦いの最中でもほどけないよう工夫されている。
 あの夜、壁際に掛けられていた白衣の片割れだった。血に染まらなかった部分が切り取られ、腕を護るために生まれ変わったかつての象徴は、失われた刺繍の代わりに、ただ確かに繕われている。
「これは、壊してきた祈りの残骸だ。けれど……繕えばまだ、残すことができると思った。だから、君に持っていてほしい」
 言葉を失うノインの左腕を恭しく取り、その掌に布籠手を取らせた。触れた指先は、ただ震えている。
 青い視線が、己の左手からアスレイドの翠色へとゆっくりと移る。その奥にある戸惑いを感じながら、アスレイドは微笑んで返した。
「そして、これは僕のだ。……ノイン君のと、対になるように」
 取り出されたのは、肩だけを覆う短いケープレットだった。縁は新しい糸で細やかにかがられ、中央に小さな留め具が据えられている。ノインの肩にかかるケープとは違い、左右が正確に重なるよう整えられていた。その違いにすら、意味が込められているのだろう。
 言葉を失っているノインを前にしながら、彼女に要望を伝えた日のことを思い出す。折角のコートではないですか、アスレイド様そのものではないですかと。ひどく驚いていたか。
 そうかもしれない。アルヴァリオの者として生を受け、アルヴァリオの教えを守り、失い、生きてきた。今の自分が、虚像と化してもなお羽織り続けていたのは、少しでも自分を象るものを残しておきたかった、かつての想いの残滓だ。
 それでも、もう。それすらも必要なかった。人として、君の前に立ちたいと思った。
「……どうして」
 口から洩れたのは感謝ではなく怯えだった。世界に在ることすら許されない自分に、なぜ。
 この白を受け取る資格なんて、持ち合わせていない。握らされた掌が、身を焦がすように熱い。まるで、地の底で盛る炎が焼き尽くすかのようにうねっているような。
 翠の瞳が、ノインの戸惑いを宥めるように柔らかく細められる。
「君を初めて見たとき、僕は気づいてしまった。光を持たない僕にとって、君だけが輪郭を持っていたんだ」
 忘れるはずもない。灰色の世界にただ一人、立っていた存在。
「ネルガルドの倫理から外れていたのに、君はそれを越えていた。正直に言えば、僕も半信半疑だった。でも確かに思ったんだ。ああ、見つけてしまった、と」
 それは愛ではなく、降伏に近い言葉だった。
 北で祈りを失い、空白を抱えたまま中枢に至った青年は、祈られることで虚像に祭り上げられた。自分に光がないことを、誰より知っていたのは、他ならぬアスレイド自身だった。
 壊れた末に見つけたただ一人。ノイン・ハトレアという存在が、彼の唯一の証明だった。
「君と過ごした祈りが、消えてしまうのが怖かった。だから形にしたんだ。君に残しておきたかった」
 手にある白色から視線を逸らせない。少しずつ、それでも確かに。アスレイドの言葉がノインの形をなぞっていくようで。
 何もできない俺に、あんたは。
「……俺なんかに、渡していいのか。俺は、壊すことしかできねえのに」
 自分の手は、この白を、きっと黒く汚してしまう。彼が積み上げてきた聖性を、祈りを。この手が粉々に砕いてしまうかもしれない。咎められることのない、この世界にいられない自分という存在に何を求めているというのか。
 けれど、その掌に重ねられた熱は──裂け目を繕う糸みてえに、確かに俺を結び留めていた。
 翠の瞳が、宥めるように柔らかく細められる。
「それでも、君だからだよ。壊されても、壊されなくても。……君に残したいと思ったんだ」
 その言葉に支えられるように、ノインはようやく目を上げた。アスレイドの顔を真っすぐに見つめたいのに、立っていることすら危うくなるほど胸に熱が込み上げ、震えを止められない。
 アスレイドの声が、震えを撫でるように響いた。
「ここにいて。……君は、僕を赦すから」
 一瞬、その意味を拒みたくなった。赦すなんて、俺にはできるはずがない。
 罪も、傷も、背負ったままのこの手で、赦せるはずがねえ。
 なのに、胸の奥で何かがほどけていく。赦せない自分が赦していると告げられた、その矛盾があまりにも温かくて。

 息が詰まるほどのよろこびが、知らぬ間に広がっていく。重なる響きが胸の奥でひび割れを走らせる。そこから熱が噴き出すように全身を満たしていく。震えを止められない。呼吸が追いつかない。自分の体が自分のものではなくなったようで。
 なのに確かに、ここに在る。
 ここにいることを、はじめて口にされた。
 生きていることを、認識されてしまった。
 その事実だけで、胸の奥に熱が溢れる。喉は音もなく震え、呼吸は浅くなる。どうしても隠せない。脚は震え、視界は滲む。それでも分かる。
 罪も、傷も、背負ったままの自分が、確かに受け入れられたのだと。
 生きていることを、在ることを肯定されたのだと。
 けれど涙は表には出なかった。ただ、震える呼吸だけがそれを告げていた。
 しばし沈黙が落ちる。灯火もない部屋に、息づかいだけが満ちていた。
 アスレイドが丁寧にもう一度ノインの左腕を取る。驚くほど慎重な指先で籠手を巻き付け、革紐を結ぶたびに手首を支える掌が触れる。その温もりは、確かな重みを伴っていた。
 少しの間、二人は言葉を失ったまま向かい合う。互いの呼吸が重なり、ただ鼓動だけが近くにある。鼓動が互いの胸を打つ音だけが、重なり合って聞こえた。
 その静けさのなかで、胸の奥に確かな重みが広がっていく。
「……似合うね」
 翠の瞳が細められ、真っ直ぐに見つめてくる。
 ノインは、その白に縋るように抱き寄せていた。
「……っ」
 驚いたように瞬いたアスレイドの睫毛に、傾きかけた日の光が微かに揺れる。掴んだ手の震えを隠せないまま、ノインはその顔を近づけた。
 アスレイドは、俺を肯定してくれた。
 その響きはまだ胸に温かく残っていて、掴もうとするたびに涙になりそうになる。
 あんたが見てくれたのなら。ここに俺がいるって、肯定してくれたから。──今度こそ、俺は。
 確かめたい。この熱が幻じゃないのなら。
「壊せない……もう、俺は」
 喉からこぼれるのは嗄れた声だけ。それでも、籠手越しに伝わる熱が、全てを肯定してくれているように思えた。
 アスレイドは何も言わず、その震えを受け止めるように背に腕を回した。
 きつく抱き締めたまま、二人ゆっくりとベッドに沈む。灯火のない部屋に、重なり合う呼吸だけが満ちていった。少しだけ身体を離したノインの掌が、アスレイドの頬に添えられる。
 閉じた瞳の裏で、アスレイドは違和感を覚えた。
 西の森で彼を拒んだあの日から、ノインの指が自分に触れるときはいつも震えていた。その震えの意味を、アスレイドは知っている。
 けれど今、ゆっくりと形をなぞる掌は、恐怖ではなく温かさを伝えてくる。
 それは、今まで信じてきた自分を根底から覆す温もりだった。
 アスレイドは迷いを払うように、ノインの腰に掌を添える。指が、小さく震えていた。
 矛盾していると分かっていた。壊さなければ届かないはずなのに、胸の奥では、壊さずに繋がれる道を必死に探していた。
「……俺はもう、壊さねえ」
 アスレイドは、その言葉に微かに目を伏せた。
 彼が望んでくれているのは、壊さないことだという事実。けれど自分は、壊されることでしか、人として、在れない。その矛盾が胸を灼く。
 僕は、壊されなくても、彼の隣にいられるのだろうか。
 壊さないと言ってくれた彼との繋がりの中で、僕は、自分を象ることができるのだろうか。
 ああどうか。白い祈りの残骸を受け取ってくれた君が。
 僕を、在らせてほしい。
 衣が滑り落ちた後、しばし沈黙があった。互いの息遣いだけが部屋を満たす。先ほどアスレイドの手によって巻かれた白い護りが、同じ手によって解かれて静かにシーツに落ちた。
 すべてを脱ぎ捨てた傍らに、白と深い布の色だけが静かに重なっている。灯のように、ただそこに在るだけで、部屋の空気を深く静めていた。
 一糸まとわぬ姿になったアスレイドの肌をくまなく滑らせていく。何もつけていない左腕は、どこか心許なく思えた。布籠手の感触がまだ残っている。上質な衣は形を変えてもざらつくことなく、むしろ肌に馴染んでいた。
 まるで、昔から共にあったもののように。
「ふふ、くすぐったい」
 笑った声は柔らかい。けれど、その響きの奥には、まだ拭えない怖さが混じっていた。
 それでもノインは、掌を止めなかった。引き締まった胸の丘、微かに隆起する腹の上、草原を駆ける獣のようにしなやかな脚。金色の髪、穏やかな顔立ち。身体を構成するすべてを、見て、焼き付けて、心に刻みたいと願っていた。
 するすると掌を脚の付け根まで滑らせると、そこには微かに兆しているアスレイド自身があった。まだ柔らかさの残るそこに手を添えると、小さく身体が跳ねる。
「ん……っ」
 翠色の瞳が、細まる。反応を見ながら、指先で幹をなぞり、亀頭を優しく撫で上げると、呼応するように熱がこもっていく。
 シーツの上で捩れる体躯が、衣擦れの音を立てた。
 陰茎を擦る間も、ノインの視線が絶えず注がれているのが分かって、アスレイドは快感だけでない感覚で身をくねらせる。それでもしとどに先走りを零す先端が、幹を伝い後孔まで走って濡らしていく。静かにひくつくそこは痛みに身構えることなく、熱を迎える準備を整えていた。
 ノインの指先が腰骨をなぞる。視線が重なった瞬間、アスレイドは瞼を閉じ、かすかに頷いた。その仕草ひとつで、答えは十分だった。
 迎え入れる瞬間も、急き立てるものはなかった。腰を押し込む衝撃ではなく、呼吸を合わせるように、静かに沈んでいく。熱が、はっきりと形を持って中に入り込み、輪郭を溶かすように伝わってくる。
「……あ……っ」
 掠れた声が零れる。痛みの叫びではなく、昂ぶりを告げる声。ノインはその響きを確かめるように、ゆっくりと動きを深めていった。
「……気持ち、いいな、アスレイド……」
 ずっと壊すことでしか繋がれないと思っていたのに、今は違う。
 返すためじゃない。ようやく同じ場所に立てる気がした。
 その隣に、自分という存在を置きたいと願ってしまった。
 ノインの掌が頬に添えられる。揺れる視界の中で、アスレイドはその手を自ら重ねて握った。
「ぁ、……あ……っ、の、いん、くん……」
 快楽に震えながらも、口許に笑みを刻む。
 ノインの腰が深く沈み込むたび、視線は逸れずに絡み合う。
「このままでいい……このまま、俺を見てろ」
 低く落ちる声が熱を煽り、身体の芯が痙攣する。その視線は、アスレイドの形から離れなかった。恐れていたはずの温かさに、初めて安らぎを覚える。
 見られている。壊されなくても、繋がっている。
 その確信が、快楽と同じくらい強く胸を突き上げた。
「あぁ……、あ、……っ、あ、ノ、ッイン……、ノインくんっ……」
 ねだるような声の誘惑に、腰を沈める瞬間、思わず全てを押し潰したくなる衝動が胸を駆け抜ける。けれど、その指先を緩めるだけで、彼は壊れずにそこにいた。
 奥からゆっくりと引いて、また押し込む。動きが速くなるたび、香りと体温が絡み合い、理性を溶かしていく。香りが鼻腔を満たし、熱が内側を満たすたび、頭の奥まで快感がせり上がる。
「……あぁ……ぁぁっ……だめ、……っ」
 突き上げるたびに、アスレイドの背筋が弓なりに反り、声がさらに崩れていく。
「アスレイド、……もっと、俺を、見て」
 腰を引き寄せられ、アスレイドの奥がゆっくりと開かれる。鋭い痛みはない。ただ、押し込まれる熱に、喉が小さく鳴る。
 それでも目は逸らさない。青い視線が正面から自分を見ている。呼吸が絡み、相手の吐息がそのまま自分の肺に入り込んでくる。
 まるで、同じ身体の奥で息をしているように。
「っ、ぁ、あ゛、み、て……、みえる……! ノイン君、ぼくも……!」
 壊される痛みなら耐えられた。はっきりと形が分かるからだ。今まで作り上げてきた自分が壊れるその瞬間だけは、自分自身で在れると思ったからだ。だからこそ、かつては壊されることでしか救いを知れなかった。
 けれど、砕かれないまま触れられる温かさは、形を失わせる怖さだった。
 ──それでも、失いたくないと思ってしまった。怖さごと、ここにありたいと。
 祈りに嫉妬していた夜のことを、ふと思い出す。
 今、君の目は祈りではなく、僕に向いている。
 崩れないまま、僕は僕の輪郭を保てている。君が、見ている限り。
「……ああ、見えてる。アスレイド。もっと」
 快感に歪む顔も、畏れる顔も、笑みも。すべてが見えている。ここに在るのだと言っている。
 アスレイドの両腕が宙をさまよったから、ノインはその掌を掴み五指を絡めた。かつてはすり抜けると思っていた掌が、今は確かに自分を捉えている。互いの指は、裂け目を縫い合わせる糸のように離れず結ばれていた。
 壊さずとも届いたと、確かめ合うように握りしめる。まるで、人となって世界に立ったアスレイドを逃さないように。ここにいてほしいと願いを込めるように。少しでもその思いが伝わってほしいと、力を入れた。
 重なった掌が、答えるように熱がこもる。
 声は崩れ、理性の形を保てない。けれど視線だけは離さなかった。
 ノインが自分を見ている限り、自分はまだ人でいられる──そう思えた。
「ぁ゛……っ、も、う……」
 限界が近い声が嬌声の合間に漏れる。アスレイドの手が、脚がノインの腰に絡む。もっと、ほしいと言わんばかりに。自身の最も深いところに誘うように。
 短く息を切らしながら、ノインは泣きそうに顔を歪ませるアスレイドの表情から視線を外さない。上半身を覆いかぶさるように倒して、ただ、中に残りたいという思いを抱きながら腰を振った。
「いい、このまま、このまま……、俺が、見てる……!」
 ノインもまた、果てが見えている。一緒に終わりたいとせがむ後孔の締め付けに、精がせり上がってきているのが分かる。
 腰に添えられた指が、肌に食い込んだ。
「……あ……あぁ……っ……ノイン君……っ!」
 やがて波が押し寄せ、熱が頂点で弾ける。そのままさらに深く、奥の奥まで深く沈みこまれ、アスレイドは両腕でノインを強く抱き締めた。
 背中ごと抱き締められたまま、低くくぐもった声とともに奥に熱が押し込まれる。白く灼ける視界の中で、互いにただ一人を見つめ、喉を震わせる。脈動と鼓動が背から腹へと貫くように響き、声が途切れた。
 二人は呼吸を合わせるように香りを吸い込み合い、繋がった奥からも、肌からも、相手だけを受け入れ続けた。
 まだ整えきれない呼吸の中で、アスレイドが汗ばんだノインの胸元に額を押し付ける。熱が、生きていることを実感させて、ノインはシーツごと男の身体を抱き締めた。
「……僕、壊れなかった。壊れなくても、ここに、いられた」
「俺が、見てたからな。このままでいいって、言ったろ」
「……ふふ、こんなに、見られたことはなかったな」
 ノインの鼻先が金色の波を潜ると、抱え込むように抱きすくめられる。回された腕は温かいのに、どこか怯えているようにも見えた。自分は、今までどれくらいこの男を見てきたのだろう。誰よりも人であることを切望していたこの男の在り方を、どこまで見ることができたのだろう。
 ノインは微かに息を吐く。
「……ああ、見てきたな。短い間だけど、色んなあんたを見てきた」
 南で祈られ続けた姿も、北を出た背中も、西の記憶も。
 理解できたことなんて一度もねえけど。
 でも、それでも。俺は。あんたに返したい。
 あんたの過去も、今も。知った上で。そのまま、あんたを、俺は。
 ──ああ、上手く言えねえや。
 だから、今だから、もう一度呼ぶ。
 息を震わせながら、それでも確信だけを込めて。
「……シェルジュ」
 名を呼ばれた瞬間、静寂が訪れる。互いの吐息だけが夜を揺らし、視線が絡んだまま、時が止まったように感じられた。
 アスレイドは喉の奥に言葉を詰まらせる。
 西の森で返せなかった、捨てたはずの名。何も持っていなかった頃の、自分で在った時の頃の名前。今度はただ、聞こえた。
 その鳴りは、かつてのように上澄みを撫でるものではなく、もっと深く──迎えに来た、とさえ思わせる響きだった。
 耳の奥にそれだけが残る。
 声が消えてもなお、世界そのものが響きを反芻しているかのようだった。
 重ねた指先が、わずかに熱を帯びる。
「……うん……」
 声にもならない吐息が唇を震わせ、アスレイドは笑った。呼ばれたかつての名の響きが、身体の奥に熱のように沁みていく。
 ノインは、その微笑を見つめていた。
 何も問わず、何も悔いず、ただ。
「──、シェルジュ」
 二度目に呼んだ声は、もう震えていなかった。確信だけに支えられた音が、静かな空間に澄んで響く。
「……うん、僕だよ。僕の、名だ」
 その温もりを確かめるように、アスレイドは目を閉じた。呼ばれた名の余韻が、まだ胸の奥で静かに鳴っている。
 名は、祈りの外で与えられる。
 壊す手ではなく、呼ぶ声で。
 その単純さに、ようやく追いついた気がした。
 祈りは完成していた。
 それは誰かに捧げられたものではなく、かつて、ただ、在りたいと願った者の名だった。
 想いを探すように、腕を伸ばす。引き寄せられるように抱き合うと、アスレイドが小さく息を吐く。
「……ねえ、ノイン君。僕は、ずっと人でありたかったんだ。祈られるたびに、僕は空っぽになっていった」
 ノインは黙って、アスレイドの顔を見つめる。胸に落ちた声は、痛みでもあり、吐露でもあった。
 もう一度頬を撫でる指先に僅かに力を込めると、すり、と擦り付けられる。伏せた睫毛が、微かに震えていた。
「誰かを救いたいと思ったことも、祈りに応えたいと思ったことも、本当は──全部、僕のためだったんだ」
 青い瞳は、何も答えない。ただ、その独白を受け止めたかった。彼が一人静かに蓋をした、すべてを。促すように静かに見つめ続ける。アスレイドが、続けた。
「変わらないよ。僕には、なにもない」
 胸の奥が熱で満ちていく。
 アスレイドは静かに目を伏せ、掠れる声で呟いた。
「壊されなきゃ、人でいられないと思ってた。けど、壊されなくても……君の隣にいたい」
 壊されたいと願うことも、壊されずに隣にいたいと願うことも、どちらも彼の真実だった。矛盾は彼を引き裂くのではなく、抱え込ませていた。
 そして、抱えた矛盾を受け止めてもらえる先を、求めていた。
「……怖くねえのか。あんた、俺、また壊したがっちまうかもしれねえよ」
「怖いよ。でも、君がいるから──僕は、ここに在られるんだ」
 アスレイドの腕もまたゆっくりと上がり、ノインの頬を撫でる。触れたところから、形をなぞるように。この世界にただ一人の存在を、確かめるような熱を孕みながら。
 胸の奥が締め付けられる。ノインは言葉を探しながらも、額を彼の肩に押し当てた。
 俺はずっと、壊してるだけだと思ってた。
 祈ってるつもりでも、何もしてやれてねえって。
 言葉に出していないはずだったのに、心中を覚ったようにアスレイドの腕が背中に回される。
「……壊れなくても。こうして、君が僕を見てくれるなら。僕は、君に、ここに在ってほしいと願うよ」
 小さく、それでいて確かな声。ノインは胸を抉られるような熱を覚え、目を伏せる。
 アスレイドは首を横に振り、そっと額を寄せて笑った。
「君にしか、できなかったから」
 寄り添う声が、ひどく静かに胸を満たす。ノインは震えながら、彼をさらに抱き締めた。
 その瞬間、アスレイドの唇が微かに震え、静かな声が落ちた。
「ノイン君、いるよ。ここに、いる」
 背中に縋った腕に、力が込められる。ああ、やっと見つけたような気がした。
 喉が、熱に焼ける。言葉を探すように、掠れた声が零れ落ちる。
 アスレイドの肯定が、胸の奥に沈んでいく。その重みに突き動かされるように、ノインは口を開いた。
「……俺は、この世界に、いたい」
 その声が胸に触れた瞬間、アスレイドは静かに目を閉じた。確かに届いた、在りたいと願うその声を何度も噛み締めるように繰り返す。
 寄り添う体温がそのまま答えのように胸へ沁みてくる。互いの呼吸が重なり合い、ひとつの鼓動を刻む。
 ──壊されなくても、人であれる。
 その確信で、微笑を浮かべながら、彼は腕を緩めずノインを抱き寄せた。眠りに落ちるアスレイドを見届けながら、ノインも瞼を閉じる。目を閉じる間際、視線の端に、重ね置かれた繕われた白布が見えた。灯のように、揺らぐことなくそこに在る。
 不完全さごと受け入れられるなら、壊さずとも。
 二人は矛盾のただ中にいた。それでも矛盾ごと抱きしめて、在ろうとしていた。不完全なままでも、確かに生きられるのだと。
 裂け目は跡を残したまま、それでも繋ぎとめられている。
 灯火の落ちた部屋には、重なる寝息だけが満ちていく。
 ただ、その夜だけは、何も恐れずに眠れた。

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