四神の御手にて作られし魂が、その御座に還ることを心より願う
――――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ

第十話

 足を踏み入れた時から、薄い靄で視界が霞む。まだ太陽は空の高い位置にあるはずなのに、時間が止まった朝霧の中にいるかのようだった。霞が、何かを剥がすように身体にまとわりつく。  
 東の森より更に高い木々は、まるで檻のように高くそびえ立っていた。
 地面に露出するいくつもの木の根に気を払いながら、二人は森の奥を目指して歩く。ところどころで、ランタンの灯が蛍のように幹の間を縫って明滅していた。もうすぐ、祭りがあるのだとアスレイドは言う。
「こんな時期に祭なんてあるのか」
「エクルシエルの旧い祭りだよ。もう、西以外ではやっていないだろうね」
「何を祭るんだ」
 落ちた葉を音もなく踏みながら、アスレイドは暫しの間押し黙る。白いコートが辺りの風景と同化して、霞んで消えそうに見えた。耳を澄ませても、風の音さえない。ただ、小さな灯だけが、森を生きているように見せていた。
「……記憶をね。西は、記憶を大事にするから。光を得られるようにって、ただ祈る祭りだよ」
 呼応するかのように、誰が吊るしたかもわからない灯が小さく揺れた。

 西に行きたいと言ったのはノインだった。
 使い物にならないほどに乱れ汚れたシーツを前に、どうしたものかとアスレイドが顎に手を添えて思慮していた時だった。アスレイドの背中の向こう、もう片方のベッドの縁に腰かけていた男が、初めて自ら行きたいと言ったものだから。モノクルの奥の瞳が、微かに細められる。
「中枢に戻ろうと思っていたけれど、……なぜ西に行きたいと思ったんだい?」
 ゆっくりと、アスレイドが振り向く。ノインを見つめる翠の眼はこれ以上ないくらい穏やかで。そう問うてくる声色は責め立てるものではなかったけれど、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
 その色を見つめながら、ノインは昨夜の言葉を思い出す。
 ――壊されていれば。紡がれなかった言葉の先に、何があるというのだろう。
 アスレイドは、壊されることを望んでいる。理由なんて分からない。分からなくてもいいのかもしれない。それでも、レヴィンが語った、シェルジュであった頃のアスレイド。神様になりたいわけじゃないという言葉。断片が噛み合いそうで噛み合わないまま、胸に刺さって抜けないのだ。
 なら、俺は知る。
 俺だけが。――俺だけが、アスレイドを壊せる、壊せるために存在しているのなら。その奥にあるものまで、知りたいと思ったからだ。その時俺は、アスレイドをきちんと、最後まで壊すことができるだろう。
「……俺ん中にあるものと、決着をつけてえと思ったからだよ」
 そんな欲を馬鹿正直に吐き出すわけにもいかず、それらしい言葉が自然と口を吐いた。アスレイドの口元から、ほんの僅かに笑みが消える。朝の早い陽を逆光に受けて、姿が黒く染まっていった。
「わかった。行こう」
 ネルガルドを巡る旅も、じきに終わる。

 静寂の森の中を、更に奥へと向かって歩き続けていた。身長の高い木々は圧迫感はないけれど、この地にいる物をすべて閉じ込めようと優しく包み込んでいるようだ。様々な色の緑で染められた世界の中には、アスレイドの瞳と似た色もあった。その間を道しるべのように、小さな灯りが音もなく揺れ続けている。
「西の民は、ああして灯りを吊るすんだよ。誰のものかも分からないように、ただ光だけを吊るして祈るんだ」
「よく、来るのか? この時期」
「……随分、前に来たきり、かな」
 モノクルの奥の瞳が、遠い昔を探すように森の奥を見ていた。
 丸い灯が静かに揺れて、霧を割るように人の形が浮かび上がる。樹木の色と同化したような色のコートは、オルメスの霧に包まれながらゆっくりとこちらに近付いてきた。
「……この時期に来るなんて、珍しいこともあるものだ」
 その音は、アスレイドとこうなる前に聞いた。今よりも記憶に縛られていた頃、意志の子だとかエクルシエルの光だとか言われたか。
「僕も来るとは思ってなかったよ」
 アスレイドが、ニィルに向けてどこか諦めたように笑う。フードの奥に隠れた瞳がノインを一瞥し、次に森の灯を見やる。その瞳は、初めて会った時のものとは性質が異なるのが分かる。記憶を見てきた顔だな。色の見えない瞳は、そう言っていた。
「……灯が揺れていた。祈りは、まだ終わっていない」
 ニィルを先導にして森の奥を進むと、ますます霧が濃くなってくる。それは視界を覆うだけでなく、皮膚に触れた霧がじわりと染み込み、眠っていた記憶を内側から静かに剥がしていくようだった。まるで、古い痛みを忘れさせまいとするみたいに。触れてはいけないものに手を伸ばすような、腹を空かせた子が大人の目を盗み食べ物をつまんで見つかった時のような。
 ああ、もう随分昔のことなのに。母も、父も。ノインが将来を夢見る前に失くした。あの時も、この世界に独りぼっちになってしまったと泣いた気がする。泣いた? 本当だろうか。泣いた気もするし、泣かなかった気もする。何故なら、自分の隣には、あの子がいたからだ。思えばそれこそ、両の足で地に立って。太陽が昇り、落ちていくのを見た頃から一緒にいたあの子。あの子は、一人じゃないと言ってくれたんだったか。そして、あの子の親もまた。君は、ここにいていいんだと、世界に取り残された自分を憐れむのではなく。ただ、そこにいていいと言ってくれた。
 ……ノノ。
 声だけが響く。けれど、顔は墨を流したように黒く滲んでいく。喧嘩した日は二度と声を聞きたくないと思った音の鳴りも、今では思い出せなくなってしまった。違う、思い出せる。あの子が、名を呼んでいる。そうだ、ノノ、と。あの子は、何度も手を差し出して、笑っていた。そして、差し出した自分の手は、熟した林檎よりもよほど小さい。
 ノインは肩をびくりと跳ねさせると、記憶の霧に飲まれていた意識を取り戻す。慌てて辺りを見渡せば、二人の姿が見えなかった。先を行く背中に間違いなく付いてきたはずなのに、一人残された焦燥感で背中に寒いものが走る。
 オルメスが、抱き締めるようにノインの身体を包む。白が、また一つ濃くなっていく。ああ、もう、思い出せなかったはずなのに。自分より背の高い草むらの中を駆けた日。誰と? あの子と。見つけた果実を二つに割って、肩を並べながら頬に含んだあの日。花冠を作って、頭に乗せたのはどっちだっただろうか。何度も何度も、名を呼ばれた。ノノ。
 頭が割れそうだ。記憶の彼方に押し退けていた、否、成長と共に忘れていた他愛のない記憶が、身を蝕んで牙を剝いている。四肢に立てられた鋭い歯が引き裂くように皮膚の中へと潜り込んでくる。傷一つ付いていないのに、もう流す涙も見当たらない。
 ノインは全身を脂汗で濡らしながら、白色に染まっていく。記憶に深く沈みかけた瞬間、背後から知っている声が聞こえた。
「……ノイン君。置いていくよ」
 弾かれたように首を捻れば、そこにはいつも通り静かに微笑むアスレイドの姿があった。身に纏うコートの色と、霧の色は同じはずなのに明らかに異なる。霧を纏いながらも葦のように立つその姿が、なぜか墓標のように見えた。
「……ああ」
 荒んだ息を整えながら、ノインは短く返事をする。
「……記憶に飲まれかけたか」
 アスレイドの横に立っていたニィルは、だぼついたコートの下から掌に乗る大きさの円筒を取り出した。黒鉄の外殻は長い年月で鈍い光を帯び、ところどころに細い刻印が走っている。頂部には細い環状のフックがついており、吊るせば森の灯と同じように揺れるのだろう。縁の部分は擦り減り、指で撫でると古い紙をめくるようなざらつきがある。
 内側には小さな灯がひとつ、薄い乳白色の硝子越しにゆらゆらと瞬いていた。火ではない。けれど、息をかければ消えてしまいそうなほど脆く、頼りない光だった。
 ニィルはその、小さな灯を差し出す。
「これは残り火だ。消さないように持っていけ。……そうすれば、少しはましだろう」
「……悪ぃな」
 疑うことなく、ノインはニィルの手からランタンを受け取った。重みを感じさせない軽さのそれは、掌にじんわりと温もりを伝えてくる。ノインはフックを無意識に握り締めながら、背を向けたアスレイドの白を今度こそ見失わないように付いていく。
 しばらくすると、木々で丸く囲まれている場所に辿り着いた。その中心には、この森では見かけない炭の跡がある。きっと、この森にはこうして野営地となる場所が点在しているのだろう。緑の中で揺れていた灯りは、もう見えなくなっていた。
 ニィルは無言で腰を屈めると落ちた枝を炭の上に集める。乾いた葉をその上に敷き、必要なものだけを整えていく。その手つきは無駄がなく、迷いもない。やがて、火が小さく爆ぜる音が森に滲んだ頃、彼は振り返ることなく言葉を落とした。
「……祈りは、終わらない」
 立ち上がりざま、ノインの手に在るランタンの光をひとつ見やるとニィルはそれ以上何も言わず、白い霧の中へと静かに溶けていった。枝葉を踏む音さえしない。まるで森に還っていくようだった。
「……行っちまったな」
ノインが呟くと、アスレイドは焚き火の炎を見つめたまま、わずかに笑った。
「ニィルは、いつもそうだよ。必要なときに現れて、必要なくなると消える」
 森の奥にぽつんと灯る焚き火だけが、二人をこの世界に繋ぎ止めていた。火を挟んで静かに腰を下ろす。木々の間からは何も聞こえない。ただ、薪が爆ぜる乾いた音と、火が揺れる度に落ちる影の濃淡だけがあった。
 ノインは短剣の柄を指先で撫でながら、何度も言葉を飲み込む。
 アスレイドは黙ったまま、木の枝を火にくべている。まるで、この沈黙すらひとつの祈りのようだった。
「……なぁ」
 ノインは、炎の赤に照らされた横顔を見て、ようやく口を開いた。
「なんで、中枢に行ったんだ」
 漸く口を吐いた言葉に、後悔する間もない。アスレイドの顔を真っすぐ見ることができず、ノインの青い瞳は赤色を捉えていた。
 アスレイドは薪をひとつ置き、手を止める。しばし炎を見つめ、それから静かに口を開いた。
「……止められなかったからだよ」
「何を」
「全部さ。……あのとき、僕は、何もできなかった」
 火がぱちりと音を立てた。ノインは眉をひそめ、口を開きかけて、それでも何も言えずにいる。アスレイドはゆっくりと続ける。どこか、懺悔するように。
「……だから、神にでもならなきゃ、祈れないと思ったんだ。……中枢なら、それができる気がした」
 初めて会ったあの日。男は、中枢に神が居ないといった男は。誰よりも神を求めて中枢に来たのだろう。祈りが届かなかった現実に、それでも縋ろうと微かな期待を胸にした男は。中枢で一体、何を見てきたというのか。
 ノインは拳を握りかけて、指先が震えた。言葉を吐き出すのが、ひどく怖かった。
「……それで、できたのかよ」
 アスレイドは一瞬だけ目を伏せ、微笑んだ。
「さぁ。……わからないまま、ここにいる」
 その微笑は優しすぎて、ノインの胸をざらつかせた。火が影を揺らし、二人の間に落ちる沈黙は、夜の森よりも深かった。
 ひどく泣きたくなる。なぜだか分からないのに、その笑顔が泣いているように見えたからだろうか。
 この男もまた、祈りを失った者であることを知ってしまった。そしてその祈りは、毎日のように乱れ堕ちることで満たされているのなら。
 アスレイドは得たかった何かを、代替しているのかもしれない。

 そしてそれを埋められるのは俺でしかなくて。それが、あんたを世界に繋ぎ止める唯一の証なんだろ?
 ……なら、俺が壊すしかねえだろ。
 祈りがあんたにとっての破壊なら、俺だけが祈ってやれるんじゃねえか。
 そうすりゃあ、あんたは足りないままでも在れるんだろ?
 そう信じてる限り、間違いじゃねえ。
 ……間違いじゃねえはずだ。
 ノインは静かに腰を上げると、苔色のケープを脱ぎ捨てる。それからゆっくりアスレイドの隣に近付いて、金色の髪を掬い取った。
「……じゃあ、俺が。壊してやる」
 淡々と紡いだ言葉に、アスレイドは嬉しそうに微笑む。ノインの居た場所に置かれたままの小さなランタンの光が揺れ、二人の影が焚き火に溶ける。
 白いコートをゆっくりと剥がすと、ノインはアスレイドの背を搔き抱いて引き寄せる。腕の中にある体温の確かさだけが、ノインをこの世界に在ることを許してくれる。そして、アスレイドもまた。壊されることでまだ在れるのなら。
 思ったより力が籠っていたのだろう、腕の中の男が微かに身じろいだからノインは耳たぶをやんわりと食む。
「ぁ、あ……っ」
 ひくりと戦慄いた身体は逃れる動きを止める。歯を立てながら柔らかな感触をなぞると、縋るようにノインの首の後ろに腕が絡んでくる。アスレイドの金色の髪に指を潜らせると、いささか乱暴に後ろに引いた。ぐうと天を向いた喉ぼとけをべろりと舐め上げながら、もう片方の手で詰襟の一番上の釦から解く。露わになる肌に舌の腹で唾液を擦りつけていると、アスレイドの体臭がふわりと上がる。鼻孔いっぱいに広がる香りは、匂いが強くなればなるほど壊したい衝動に駆られてしまう。
「ぅ、く……んん、ぅ、ふ……っ」
 何度も何度も味わった身体だ。どこをどうすればよいかなんて分かりきっている。黒服の前をすべて寛げたところで、ノインは一度身体を離すと自らのズボンの前と下着を腰元まで下げる。陰毛の下では、まだ目の覚めていない陰茎がだらりとぶらさがっていた。両脚を投げだすように前を伸ばすと、興味を惹かれたものに近付く動物のようにアスレイドが四つん這いでにじり寄り、言葉もなく力のない茎に舌を伸ばした。
「っく……」
 触れた瞬間、熱が流れ込むように快感が芽吹く。ちろちろと弄ぶように舌の先で、象るように今度はアスレイドが唾液を塗りたくる。慈しむように時折唇で優しく吸い上げられると、ひくりと幹が反応して頭を持ち上げる。
 前に突き出すように芯を持ち始めたその姿を翠の双眸が捉えると、唇が大きく開かれて温かな粘膜の中に飲み込まれる。喉の奥に先端が触れた時、きゅうと唇が締められた。
「ぁあ、は……!」
 空気を抜くように窄められた口腔の中で、器用に舌が絡められる。膨らんだ亀頭の括れの裏、筋を柔らかに撫でられると腰が跳ねそうになる。アスレイドの腕が、ノインの腰を抱くように絡められて、いよいよ逃げられなくなる。
「は、は、ぁ、あ、ああ、っ、あ、あ」
 ゆっくりと、金色の髪が前後に揺れる。頬を窪ませながら唇で熱芯を扱かれて、後孔で締め付けられるのとはまた異なる甘い苦しみが下腹部を基点に全身へと巡る。それしか知らないように愛撫を続ける男が、湧き出た先走りを飲み込みながらノインの体液をその身に受け入れようとする。
 ノインの手が、今度は掴むのではなくアスレイドの後頭部に添えられる。それでも動きの主体はアスレイドにある。うねる金糸が揺れながら、下品な音を立て続けていた。
 既に幹は雄々しく喉を突くほどに成長しきっている。ここまでくると、あとは体内で溜まっている熱を出したいことばかりに意識が集中する。その無意識の欲望を煽るように、アスレイドの指先が幹の下、唾液と先走りで濡れる二つの球をこねるように撫でる。溜めた精を出したいと言わんばかりに、指の上でくうと陰嚢が揺れた。
「っなあ、脱いで……」
 既に絶え絶えの息を漏らしながら、ノインは弱々しく命じる。切なげに顰めた眉間の中心に、翠色の視線がちらりと向いた後、アスレイドは口を離さずに自らスラックスと下着を脱ぎ捨てた。森の中浮かび上がった肌に吸い寄せられるようにノインの上半身が前屈すると、ポケットの中に残っているオイルの瓶を取り出す。小瓶の中で揺れていた液体をすべて掌に乗せて温めると、二本の指をいきなり奥孔に挿し込んだ。
「ふ、ぐ……ぅン……ッ」
 体内に侵入してきた異物に、アスレイドの身体が反射的に緊張するのが、陰茎を通して伝わってくる。一瞬、喉の奥で強く締められてノインは奥歯を噛んだ。既に何度も受け入れているそこは、僅かな潤滑油だけで甘く蕩ける。窄まりを解すように指で円を描くと、びくびくとアスレイドの肩が揺れた。
「は――…、すげ……」
 堪らず漏れた声に、アスレイドの動きが激しくなる。ノインの指が激しくなるにつれて、アスレイドの締まりもまた強さを増していく。溶け合うように二人の感覚がどろりと溶けていくようだった。
 それでも、更に上をいく快感を知ってしまっているから、今享受しているものでは物足りない。
「……でも、足りねえよな。これじゃ」
 ノインは名残惜しそうに指をゆっくり抜くと、自分の方に向けて腰を上げるように指示する。ノインもまた両膝を立てると、従順に高く上げられた臀部の、谷間にある窄まりに向けて怒張の先端を押し当てた。熱が重なった瞬間、アスレイドが風に消える声で、ノイン君、と名を呼んだ。あまりに軽くて小さいその音の鳴りは、無意識に漏れたのかもしれない。深く考える余裕もなく、ノインは腰を真っすぐに押し進めた。
「ん゛、ぅ、……ッ、ぁ、あぁ……! は、あ……っ」
 アスレイドの掌が、地から生えた若草をぐ、と握り締める。圧迫感で拡げられる感覚は、いちばん太いところを飲み込んでしまえばそんなに苦しくない。それよりも、穿つ強さが早くほしい。中を引っ掻きまわして、もう、何もかも分からなくして、自分という存在を壊してほしい。
 肌に、柔らかな毛の感触が触れてノインのすべてを飲み込んだことが分かった時、アスレイドの身体がぶるりと震えた。
「……ノイン君っ……あ、あ、ん、……ぁっ……」
 そして始まった律動に、アスレイドの声が途切れる。強く掴まれた腰に食い込む爪先も、強く食い込めば食い込むほどにアスレイドは身を震わせる。肉の弾く音が、断続的な甘い悲鳴と荒い呼吸を彩るように森の中に響いた。
 ノインの熱茎は、そんなすべてを飲み込もうとするアスレイドの肉壁に、すぐにでも持ってかれそうになるのを耐えている。見下ろした先の、均整な肢体は草原を駆けるどんな生き物よりもしなやかで美しかった。それを、赤黒く醜い怒張で穿つ自分の、なんと背徳感に塗れた快感よ。ただ、熱を納める先を目指して何度も何度もアスレイドの奥を突いた。ぐじゅぐじゅと歪な音がつながったところから響いて、鼓膜もべっとりと体液で塗れていきそうだった。
「ぁ、あ、ああっ、あ、あ、ン、あっ、ああ、あ、あ、っ、!」
 最早アスレイドは声を抑えることもなく、中で得られる快感を求めて貪欲に鳴き続ける。その声を少しでも長く聞いていたくて、ノインはがむしゃらに腰を振り続ける。
 ただ、それでも。組み敷いた男はどんな顔をしているのか見てみたいと思った。翠色の瞳は欲で濡れて、形のよい唇から零れる嬌声が。届きそうで届かない何かを切望する顔が、見たかった。そんな顔をさせられるのは、自分だけだと。アスレイドが、祈っている顔を誰にも見せないでと懇願したように、ノインもまたアスレイドの声を、表情を独占したかった。
 息を小刻みに吐きながらノインは一度大きく腰を引き、ずるりとアスレイドの中から茎を抜いた。不安げに零れた名を呼ぶ声は聞かないふりをして、アスレイドの脇腹に手を差し込むとごろりと仰向けにさせる。反転した視界を濡れた瞳が捉える前に、両脇で足を抱え膝を曲げさせると圧し掛かるように腰を進め、屹立を再びアスレイドの奥に潜らせた。
「ぁ、あああ! っか、は……ッ! あ゛、ぅ、ああ!」
「……ほら、届くだろ、これ……っ」
 顔に近付けるように身体を前に傾けるとアスレイドの身体が甘く跳ねて、濡れた瞳がこちらに縋るように向けられる。腹にあたる茎は、びしょびしょに濡れてノインの腹を汚す。先端が奥の、こりこりとした部分にぶつかるのを感じたところで括れで抉るように引き抜き、再び奥を目指して突き続ける。何度も、何度も。
「っ、ぁ、あ……ノイン君……もっと……っ」
 掠れた声が、無防備に洩れた。快楽に崩れながら、それでも求めるその声がノインの胸を強く打つ。
「……ああ。全部、壊してやる」
 耳元で囁くように言いながら、ノインは奥を何度も突き上げる。肉を抉るたびに、アスレイドの背がきつく反り、震える呼吸が空気を震わせる。
 俺だけ。
 俺だけでいい。
 あんたを壊せるのは、俺だけでいい。
 アスレイドの腕が背に回った時。まるで、オルメスが囁くかのようにノインの脳裏に記憶が差し込ま れる。
 あの時から呼ばれなくなったその名を。今なら。
 俺だけがあんたを壊せるのなら。すべて、壊せるのなら。
 過去も今も先も。俺だけが壊すから。
 絶頂の気配が見えている中で、ノインは顔を歪めながら記憶に誘われるまま、唇を震わせた。
「……シェルジュ……っ」
 空気が、止まる。一瞬、アスレイドの瞳が見開かれ、指先がノインの肩を弱く押した。だが、次の瞬間には力を抜き、ただ悲しそうに笑う。返事はない。ただ、すべてを諦めた者だけが浮かべる、静かで残酷な笑みだった。瞬き一つの時の流れだというのに、一つひとつの動きが、確かめるようにゆっくりと進んでいく。
 返事がない。氷を流し込まれたように意識が覚める。オルメスの霧は、もう頭の中を締めていない。
 笑みが胸に焼き付く。息が詰まる。呼んだ名が、こんなにも遠い。
 アスレイドの瞳が、ノインを見ているはずのに、どこか遠くを見ていることに気付いたその時、胸の奥に、冷たいものが落ちていく。
 ――届かない。
 胸の奥で、何かがきしむ音がする。
「っ、……返事……しろよ……っ」
 ノインは必死に奥を抉る。肉の音が重なり、甘い声が森に散っていくのに、その微笑は揺るがない。
 ただ、喘ぎながら悲しそうに微笑む顔は、確かにノインを拒絶していた。
「なぁ……っ、シェルジュ……!」
 呼ぶ。
 何度も、何度も。
 だけどアスレイドは、遠くの光を見るように、ただ微笑んでいるだけだ。
 その笑顔は、確かに祈られなかった証だった。
 自分の祈りは、この男に届いていない。
「……は、あ……っ……」
 奥を貫くたび、アスレイドは熱を受け入れ、声を洩らしながらも、ただ笑っている。
 ノインの祈りが、壊すことで。アスレイドの祈りが、壊されることで。祈りは、同じ方向を向いていると思った。思っていたのだ。
 しかし祈りは、届いていなかった。交差していないことを、知ってしまった。じゃあ、今まで一体、自分のしてきたことは。
 祈りじゃ、届かない――なら。
 ……いや、違う。祈りは、止められない。
 壊すことでしか、俺はあんたに祈れねえんだ。
「……なら……壊す……っ」
 喉の奥で呟いた声は、獣の呻きのように低い。認めたくない。これしかないんだと言い聞かせてきた真理が、砕かれた瞬間の絶望を。誤りを。意味のないものだったと思いたくない。
 だって、じゃあ、俺は。なんで、この世界に在り続ける?
 ノインは更に深く腰を打ちつける。音が森を震わせるほどに、何度も何度も。
「あんたが、祈れねえなら……俺が祈ってやる……」
「っ……あ……っ、ノイン、く……っ」
「壊れるまで、俺が……俺だけが……っ」
 その執着は、もう救いではない。
 ただ、ノインだけがこの男を抱き潰せるという確信だけが、今の彼を生かしていた。
 肉の弾ける音と、快楽に乱れた声だけが、森に溶けていく。
 アスレイドの瞳は、ノインを見ていない。ノインを見つめているのに、その姿を見ていない。それなのに、背に巻かれた腕が引き寄せるように力が込められるから、ノインはいよいよ泣きそうになる。
 感傷じみた感情を振り払うように一番奥を貫くと、アスレイドの背がぐうとしなった。
「ぁあああ゛! あ、っ、ああ゛ぁ!」
 濁った喘ぎを叫びながら、がくがくと身を震わせる。臍の辺りに、霧よりも白い体液が、音もなく飛び散って腹筋の上に零れた。
 一際搾り取るように収縮した後孔の締め付けに耐えきれず、ノインもまた低く唸りながら男の一番奥目掛けて射精する。体内でじわりと熱が広がって、亀頭が湿っていくのが分かる。奥に、奥に、少しでも祈りが届くように、ひくつく熱を何度も押し込んだ。
 ノインは奥まで満たしながら、ふと気付いた。
 ……壊せば届く。ずっとそう信じてたのに。
 なのに、何も返ってこない。
 祈りが、何ひとつ返ってこない。
 祈りが届かない。
 それなら、壊すことに意味なんてない。
 ……それじゃあ、俺は、何のためにあんたを壊してきた?
 ゆっくりと、アスレイドの足を地に下ろしながら肩で息をしていると、アスレイドの手が伸ばされる。その掌は、潰した草で緑色に濡れていて、いのちを思わせる香りをまとっていた。
 力ない指先で、ノインの頬を撫でる。それでも、向けられる翠の瞳は。ノインを見ていないのが分かった。
「……やっぱり、光は、見えなかったよ」
 光。アスレイドの言うそれが、祈りの応えだと、ノインはもう知っている。
 あんたが言う光が、俺にとっては、祈りが届いた証なんだ。なあ、そうだったろ? 
 その声は責めるでもなく、ただ遠いところで降る雪みたいに冷たい。それは、ノインの祈りがまったく届いていなかったことを静かに告げていた。あの日。アスレイドと初めて会った日に告げられるはずだった断罪の声のように聞こえて、ノインは顔を歪めた。
 神になりたかったわけじゃない。あの日聞いた言葉が、頭の奥で残響している。
「……最初から、見えなかったのかもしれないね」
 その声は、甘く優しく、絶望に似た諦念を孕んでいた。アスレイドを組み敷いたあの地下回廊での出来事が、記憶の霧によって脳裏に差し込まれる。
「……なんでだよ……壊すことが……っ、祈りじゃ、なかったのかよ……!」
 まるで駄々をこねる子どものように、その声は悲痛なものだった。アスレイドの声が、瞳が、仕草が優しいから、余計にいたたまれない。歪む視界で見下ろしたアスレイドの表情は、どこまでも穏やかで、届かない。
「……ノイン君は、優しいね」
 それは、救いではなかった。ただ、刃のように胸を裂く音だけがした。何もできない自分に、優しさなんてものはない。望むものも与えられないで、何が優しさだっていうのだ。とびきり性質の悪い皮肉のようにも聞こえて、ノインは胸を搔きむしって心の臓を握り潰したくなる。
「……優しく、なんて……っ」
「ありがとう、ノイン君」
 これ以上、自分の無力さを突き付けないでほしい。その声で、優しい言葉をかけないでほしい。今までのことはなんだったのか。俺は、あんたのために、壊したくて、祈って、壊していたと思っていたのに。何一つ触れることなく、壊すこともできなかったというのか。
 ノインはゆっくりと身を引くと、アスレイドに顔を見られたくなくて俯いた。身体を起こしたアスレイドは、黙ってしまった男を前に、やはり優しい声で言葉を紡いだ。
「ここでは、もう祈れないから。……帰ろう、中枢に」
 それだけを告げる声は、静かで、揺るぎがなかった。
 頷くことも、首を振ることもできずに。
 ノインはただ、空っぽのまま立ち尽くしていた。
 この世界に自分が在っていい理由は、どこにもない。
 ――自分でさえ、もう。

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