第九話
いつのまにか靴底に感じる感触は、草を踏む柔らかいものではなく、ごつごつとした石に変わっていた。
目の前に広がる雄々しき山脈は、灰色の岩肌で圧倒的な大きさをもって下界を見下ろしている。まるで、最も神に近い場所に在るという誉れを誇示しているような。その静かな圧は、立ち入る者にこの地に在る資格があるかどうかを無言で問うてきているようだった。
足音が石に反響し、冷えた空気が肺を刺した。風はここには届かない。ただ、岩と空だけが沈黙の中に在る。
石を積んだだけの家々が斜面に並び、屋根は雪を払いやすいよう低く急な勾配を描いている。町全体が山の一部のようで、余計な色も飾りもなかった。その代わり、それぞれの玄関先には護符が吊るされ、風に揺れるたびに微かな鈴音が響いている。誰も立ち止まらない。ただ、その音だけが祈りの代わりのように町を満たしていた。
通りを歩けば、石を積み上げただけの祈祷所をあちこちに見ることができる。しかしそこには、灯りもなければ色もない。ただ冷たい石の上で、北の民は黙って頭を垂れるだけだった。その姿は、決められた時刻に動き出す石像のようで、ノインにはそれが祈りの場というより、風雪にさらされた廃墟のように見えた。
「久しぶりに来ると堪えるね」
アスレイドはわずかに目を細め、遠くの山並みに視線を向ける。その横顔は、懐かしさとも諦めともつかない色を帯びているように見えた。
北の神、イグレイズに護られしこの地は、アスレイドの生まれ育った地であるという。今では中枢で教堂を構えるアスレイドは、北にいるときはそんなことをしていなかったと、いつだったかに聞いた。北の民は、ネルガルドのどの民よりも神の近くで在ることを欲しているのに、何故わざわざ中枢に流れ着いてきたのだろう。中枢は、神はいないとも言っていたか。それなら尚更だ。
アスレイドは何も言わず、ただ迷いなく石段を登っていく。
時折、他の家とは趣が異なる建物があることに気付く。その鉄門には植物であったり、生き物であったりと、何かしらのモチーフが刻まれている。そのような家は決まって、他の家より鉄窓の数も多く、広いことが分かる。
「北の貴族はね、門に絵が掘られているんだ。」
立ち止まったアスレイドの指先が、獣の姿を象った鉄の紋をなぞった。
「これは、護りの印だよ。ここでは、祈りと暮らしは切り離せないから」
アスレイドは自分の白いコートの袖を一瞥して、わずかに笑う。
「……僕みたいに、切り離そうとした奴は、結局ここには居られなくなる」
その微笑みの意味は、やはり汲み取ることはできない。ただ、アスレイドが何らかの理由で北を出たのは分かる。その理由は、とても聞けそうにないけれど。
押し黙ったノインの顔を見て、アスレイドは口角を上げたまま再び歩き出した。町を抜ける間じゅう、鈴音と靴音だけが響く。そういえば、一体どこに向かっているというのだろう。まさか、山を登って神の片鱗に触れようとでもいうのだろうか。
石の階段を上り下りするのも難儀で、珍しい景色を見るのより段差の数を数えることにノインの気が向いたところで、目前を歩いていたアスレイドがぴたりと歩みを止めた。
「来てたのか、レヴィン」
階段を昇りきった先に、見知った姿があった。いつか見たケープの端は相変わらずくたびれていて、荒野に放置された旗のようにたなびいている。
つばの上がった帽子の下から見える瞳は、相変わらず人懐こい色を湛えていた。
「おお、久しぶりに聖痕の依頼があったからな。炉を見にきた」
アスレイドとレヴィン。旧い友人だというが、この二人が揃うとノインは居心地が悪くなる。二人の間で交わされる共通の空気のようなものに溶け込めない、疎外感のようなものだ。前はその思いが漏れていたせいか、犬と形容された。
最後の石段を登り切り、アスレイドがレヴィンの横に並ぶ。後ろを振り返ってみれば随分高いところまできていたらしい。下では聞こえなかった風の音は、低く唸るようなものに変わっていた。
「そっちも元気そうだな、ちゃんと番犬してるか?」
ほらまた。散歩の途中で知人と鉢合わせた飼い主が、再び歩き出すのをじっと待つような気分になる。心配しなくても、噛みつくつもりはない。
アスレイドはやはり、何も言ってくれない。今や期待もしていないから、ノインはあえて何も語らない。
「君がいるなら、ノイン君を任せようかな。久しぶりに、二人でゆっくり話してきたい」
アスレイドの提案にノインは顔を上げるしかなかった。流石にレヴィンと二人、主の帰還を待つのはごめんだ。制止の言葉を発する前に、先にレヴィンが口を開く。
「……ああ、喜ぶよ。俺もさっき、話してきた」
その声色は、揶揄うようなものではなくて。それでも過去を懐かしむような柔らかさもない。冷たさとも異なる、感情がないまぜになった響きをしていたから、ノインは拒否の言葉を飲み込んだ。
「じゃあ、ノイン君。行ってくるね」
ノインの是非を問わずに、白いコートが翻って背を向けて更に高みへと石階段を登っていく。金色の刺繍が施された裾が山風に揺れるのを見送ったあと、残された二人の間に沈黙が落ちた。
しばらくの間、鈴音と風の唸りだけが耳に残る。
「……相変わらずだな、あいつは」
沈黙を破ったのは、レヴィンの低い声だった。この男の、自分の知らないアスレイドを知っているという事実を突きつけられる度に、胸の奥がじくじくと痛む気がする。
「……あんたは、昔からあいつを知ってるんだろ」
口をついて出たのは、問いというよりも、苛立ちに似た言葉だった。その響きを聞いた時、レヴィンの顔がなぜか明るくなる。
「お前、喋れたのか! 口が聞けねえんだと思ってた」
「……ああ?」
漸く、ノインの視線がレヴィンを捉える。たちが悪いのは、レヴィンの言葉に悪意が感じられないことだった。確かに、前に初めて会った時から、ノインはレヴィンに口を聞いた記憶はなかった。犬という形容と相まって妙な勘繰りを入れられていたのだろうか。あまりに朗らかに笑うものだから、ノインの毒気が一気に抜かれてしまう。
男は笑ったまま、どこか懐かしむようにノインを見やった。
「やっぱり、あいつの傍にいる奴は、似てくるもんだな」
それでも、ノインの知らないアスレイドの影を出されるのは面白くはない。強い風が二人に吹き付ける。ノインのケープの端が揺れて、腰元が露わになった瞬間、土色の瞳がひく、と小さく戦慄いた。
「……なんで、お前」
レヴィンの声は低く、風にかき消されるほど小さかった。明らかにこの場の空気が変わってノインは少し身構える。男の瞳はノインの腰の短剣に吸い寄せられたまま、動かない。馴染んで柔らかくなっている獣皮に包まれた、持ち手に巻かれた布は既に黒く変色したなんの変哲もない短剣にだ。
「これか? 拾ったんだよ、東で。随分前に。アスレイドにも見せたんだけど」
「……そうか、だから、あいつ」
一人合点がいったように、レヴィンは神妙な顔をして黙ってしまう。その、明かされない推測にノインは少しだけ苛立った。アスレイドもレヴィンも、一体何を知っているというのだ。
「ああ、すまねえ。分かったよ、アスが俺に任せるって言ったのが」
「俺には分からねえ」
ふてくされたように聞こえたのだろうか、レヴィンは宥めるように穏やかに笑って見せる。その表情は、これまでの飄々とした男という認識を変えさせるような、まったく異なる色をしていた。
「話すよ。話せって、言われてる気がするからな」
レヴィンに先導されて、石の町を歩く。真面目で融通が利かねえ奴だったよ、とどこか懐かしむように言ったけれど、やはりノインが知っている男と同じようには思えなかった。
北の民は、その在り方さえもどこか自らを律しているかのようだった。誰もかれもが真っすぐに背筋を伸ばし、その佇まいは粛々としている。アスレイドもレヴィンも、この地の出身というには疑問を抱かずにいられない。
前を行く男は色々な話を投げてくれる。そういえば、アスレイドと初めて会った時も同じようなことをされたか。もしかしたら北の人間は、元来話すことが好きなのかもしれない。北の地を抜けることで、内包していた言葉が溢れ出るような。そんな下らない想像をするくらいにはレヴィンの舌はよく回った。
「ここの連中に、皆に頼られてたよ。まあ、アルヴァリオだしな。俺んとこよりもよっぽど旧い家だ」
アルヴァリオ。その響きが、ノインにはどこか遠いものに思えた。今まで短い返事しかしてこなかったノインは、言葉に引っかかって疑問を投げてみる。
「あんたも、貴族だったのかよ」
「見えねえだろ?」
軽口を一つ叩いてやろうと思ったけれど、どうやら自覚はあるらしい。この風体を見ろと言わんばかりに両手を上げて見せると、土で汚れたケープが大きく翻った。
「まあ、俺もあいつも、家を出ちまったから。その意味では同じなんだろうけどよ」
まただ。その見えない共通点。そこに入れない自分。嫉妬とは異なる、自らの在り方が崩れていくような感覚だ。
「あいつ、昔からよく頼まれごとをしててさ」
「今も変わんねえよ」
「だろ? ……でも、やっぱ、ここにいた頃とは違うんだよ」
何が、と聞く前にレヴィンが足を止める。先には、山肌を削り取るようにして築かれた石の建物があった。無骨な外壁は煤で黒ずみ、余計な装飾の一切を拒むかのようにただ黙してそこに在る。
入口には鉄の扉がなく、暗い奥から冷たい空気とともに奥から吹き上がる熱気がわずかに漏れ出している。ノインは思わず肩をすくめた。熱いのではない。熱を孕んでいるはずなのに、なぜかこの場所は肌を刺すように冷たかった。
レヴィンは迷いなくその中に足を踏み入れる。
石畳の床には幾重にも焦げ跡が走り、天井に設けられた開口部から差し込む光が、中央に鎮座する巨大な炉を鈍く照らしていた。山そのものをくり抜いて造られた煤で黒く染まった石壁の継ぎ目からは、何世代にもわたる祈りと労苦の痕跡が見て取れた。
「これが、エルグレイの炉だ」
声こそ淡々としていたが、その響きの奥には、長い時を見てきた者にしか持ち得ない重みがあった。
ノインは炉の奥で立ち昇る炎を見つめる。薪が爆ぜる音だけが、広い空間に低く響いている。誰も祈らない。誰も言葉を発さない。ただ火だけが燃え続けていた。
「なんだ、ここ」
静かに燃え続ける炎が、ノインの顔貌を赤く染める。レヴィンは揺れる焔を眺めながら、少しだけ眩しそうに帽子のつばを下げた。
「俺はレヴィン・エルグレイ。北で少しだけ長く続いた家の出でね。この炉は、エルグレイの炉っつってな。ここで精錬された武器が、中枢に運ばれて聖痕を埋められる。その後、シュレインの手に渡るってわけだ」
炉の奥には、いくつもの作業台が並んでいた。どれも煤で黒ずんでいるが、余計な埃一つなく、使い込まれた工具だけが整然と掛けられている。
壁際には、鉄槌や鉗子、炉用の長い鋏が規則正しく並べられ、そのどれもが長い年月を経てなお、頑丈な輝きを失っていなかった。床は石で固められ、足元には無数の焼け跡が染み付いている。打たれた鉄が何度も赤熱し、ここで形を変えてきた証だ。
天井から吊るされた鎖には冷却用の桶がいくつも掛かり、水面は鉄の匂いを含んで鈍く光っている。
ノインは思わず息を呑んだ。この場所には、労働の熱も、祈りの声もなかった。ただ、道具の並びと、炉の火の揺らめきが黙して全てを物語っていた。
「……随分、整ってるな」
ぽつりとこぼしたノインの声に、男が笑いながら肩を竦める。
「当然だろ。ここは祈る場所でもある。道具が乱れちゃ、神様に顔向けできねえ」
そう言ってレヴィンは、壁に掛けられた古びた槌を軽く持ち上げた。黒く煤けたその柄には、幾度も手に握られた跡が深く刻まれている。
「うちの親父が使ってたやつだ。……まあ、形だけは受け継いでるってやつだな」
炉の前に立つと、熱気ではなく冷たさが胸の奥に沈んでいくようだった。燃え盛る炎を前にしているはずなのに、そこにあるのは温もりではなく、長い年月にわたって積み重ねられた無数の祈りの痕跡だった。
ノインは、知らず息を呑む。ここには生きている火じゃなく、祈りを焼き続けるためだけに燃える火がある。そう思わされた。
「……ここで、祓ったんだ。俺の弟を」
隣でレヴィンがじっと炎を見つめていた。その横顔は、町を歩いていたときの軽さをすっかり失い、この炉の一部であるかのようだった。
ノインの反応を待つ前に、レヴィンは低く、淡々と話を続ける。ノインはただ黙っていた。炉の火を見ているはずなのに、レヴィンの横顔から目を離せなかった。
「俺と、アスレイド。あんときはまだシェルジュ、って呼んでたか。それに、俺の弟。俺達は幼馴染でな。ガキの頃からよく遊んだもんだよ」
話が長くなるのか、レヴィンは作業台の椅子に静かに腰掛ける。まるで、懺悔を行なうように。
「貴族なんて言うが、普通のガキだぜ。まあ、それなりに色々叩き込まれたけどよ、思えばいつも一緒にいたっけか」
話の先を促すように、ノインは男の顔を静かに見つめる。レヴィンは、かぶっていた帽子を手に取り、膝の上に乗せた。アスレイドの金色より更に透き通った、白金の短い髪がほの暗い洞窟の中で発光しているように見えた。
「俺もアスレイドも、シュレインになるのは当然みたいなもんだったんだ。お互いにそういう家に生まれたから。弟も同じようになるはずだったんだ。けどよ、もうすぐって時に、あいつは……異形化しちまってなあ」
レヴィンの声が、炉の炎に溶けて消えた。ノインは何も言えず、ただその言葉の余韻を噛みしめる。
炉の火が、ぱちりと音を立てた。
男は視線を炎に落としたまま、ぽつりと口を開く。
「祓うしかなかった。……俺が、やった」
声は低く、淡々としていた。けれど、それがかえって、この炉に刻まれた記憶の重さを突きつけてくる。
「ノイン、お前の持ってるダガーはよ、俺の弟のもんだったよ。こんなことになっちまったから、捨てたつもりだったんだが……どこで拾われるか分かんねえもんだな」
「……すまねえ。俺が、勝手に」
無意識にこぼれたノインの言葉に、レヴィンが短く笑った。
「謝ることじゃねえ。弟が死んだ時点で、持ち主がいなくなったんだ。お前に拾われたのも何かの縁だろ」
ノインは漸く動くのを赦されたかのように、ケープで隠れた腰元のベルトから短剣を取り出す。使い込まれた鈍色は、本来であればどのような姿であったのだろう。この小さな刃に込められていただろう祈りが、今更のように重く手に圧し掛かる。
掌にある短剣の重みを量るような仕草を眺めながら、レヴィンは話を続けた。
「シェルジュ……、アスレイドは、何もできなかったと言っていたがな。実際何もできることはなかったんだ。俺だって、北の規律に則ってやっただけの話だ。それでも、あの日から。あいつはシェルジュ、って呼んでも返事はしなくなったな。アスレイドと呼べと。あいつなりの、けじめみてえなもんなのかもしれねえが」
レヴィンは、しばし言葉を切ったまま、炉の火を見つめていた。
薪が爆ぜる音だけが響く中、彼はゆっくりと息を吐いてから、再び口を開く。
「あいつが北を出たのはな、俺の弟を祓ったあとだ」
レヴィンの声は淡々としていたが、その平静の奥には、長い時間を経ても消えない何かがあった。
「祓ったその翌日だ。俺も、その後に北を出た。……ここにいても仕方ない気がしてな」
男は炉の火を見つめながら、愉快さとは無縁の笑みを浮かべる。炎の光が横顔を赤く照らし、煤に焼けた空気の中でその瞳だけが静かに揺れている。
ノインは何も言えず、ただ炎の爆ぜる音を聞いていた。それは音というより、長い時間を焼き尽くす鼓動のように思えた。
「それっきりだ。次に会った時には、中枢でアスレイドを名乗ってたよ」
レヴィンの指が炉の火を指し示す。
「あの時から、ここにいられなくなったんだろうな。理由は、俺にも分からねえ」
その言葉は、炉の火と同じくらい静かで、それでいて胸に深く沈み込んでくるものだった。
ノインは、知らず短剣を握る手に力がこもる。何に対してなのか、自分でも分からないまま。ただ、ダガーを握りしめていないといけないような。そんな焦燥感にも似た感情が沸いたけれど、この炉がそんな分からなさを燃やしてくれればいいのにとも思った。
「あいつは神様になりたかった訳じゃねえ。……でも、何かを探してたんだろうよ」
ここで自分が話せることは終わりだと、レヴィンは静かに微笑んだ。沈黙の炎が、男の顔を静かに揺れながら照らす。ノインは、ただその横顔を見ていた。
案内された客人用の部屋だという石造りの間には、ベッドが二つ置かれていた。ここもエルグレイのだから、好きに使ってくれと言ったレヴィンの表情には、既に影はなかった。まだ、アスレイドは帰ってきていない。窓から差し込む光は黒色に押し潰されそうな赤い色をしている。それでも、炉の炎を見ていたせいか、灯りはどこか頼りなく見えた。
ケープを壁に掛けると、ベッドに腰かける。夕餉にも誘われたが、アスレイドに聞かないと分からないと答えた。そこまで忠犬になることはないと笑われたけれど、そんなつもりで言ったわけでなかったのだが。
「……あいつ、どこまで行ったんだか」
ぽつりと呟いた声も誰にも拾われることはない。ただ、静寂が音もなく帰ってくるだけだった。
いよいよ頼りになるのが部屋の明かりだけになる頃、木を叩く軽い音が鼓膜を震わせた。返事を待つことなく開かれた扉の向こうから、アスレイドがゆっくり姿を現す。その姿はいつもと変わらない筈なのに、どこか疲れているように見えた。
その、落ちた夕日と一緒に消えてしまいそうな輪郭に、ノインは声を掛けようとしたけれど言葉が喉を震わせることはなかった。
「……おかえり、ノイン君」
見慣れた、瞳を穏やかに細める仕草さえ、触れたら崩れそうなほど不安定だった。長い睫毛の下に湛える翠色の瞳は、よく知っているもののはずなのに。
アスレイドは部屋に入ると、白いコートを静かに脱ぎ、椅子の背に掛けた。その仕草ひとつで、外気の冷たさだけでなく、肩に積もっていた何かを置いてきたように。
「……ノイン君」
低く呼ばれる声は、炉の熱を引きずったように微かに掠れていて、それでいて穏やかで。
ノインが言葉を返すより先に、アスレイドはふっと力を抜いた。その長い身体が、まるで耐えきれなくなったようにノインの胸に倒れ込んでくる。
「……っ」
反射的に支えた肩越しに、微かに震える息が伝わる。
「少し……こうさせて」
耳元でそう囁かれたとき、ノインは何も言えなかった。
ただ、その重みを受け止めながら、腕をゆっくりとアスレイドの背に回そうとして、ためらう。その一線を越えたらもう二度と戻れない気がした。
レヴィンの言葉が、ふと脳裏をよぎる。あいつは神様になりたかった訳じゃねえ。――だからこそ、今だけは。せめてこの男を、壊さずに抱き締めてやれたなら。だけど、この手は。この神性を掻き抱くには汚れすぎてしまっている。
薄い皮膚越しに感じるアスレイドの身は、生きている温もりがあるのに、どこか冷え切っていた。
同時に、嗅ぎ慣れてしまった男の香りに胸が、下腹部が熱を持ち始めるのも分かっていた。どれだけ浅ましいのだろう。所詮、壊すしかできない身体なのだと突き付けられているようだった。
ノインは、アスレイドの背をそっと撫でる。その指先に感じる細やかな震えは、何を意味していたのだろう。
「――ん……っ」
背を撫でていた掌を、肩、そして黒衣の下にある鎖骨をなぞるように滑らせる。肩口に乗った男の口から、甘い吐息が微かに零れた。
両の指で詰襟から順にゆっくりと釦を外す。その間、アスレイドは息を詰めて待っているようだった。開いた前から手を忍ばせると、指先に触れる肌は、なだらかで引き締まっていた。熱を帯びた胸の鼓動が掌にじんわりと伝わってくるけれど、爪の先が立てる場所を求めて疼いている。
少しだけ衣を下げると、露わになった首筋にノインの鼻先を潜らせた。鼻孔に匂いをいっぱいに吸い込み、唾液を乗せた舌を這わせるとひくひくとアスレイドの身体が戦慄く。
「……ぁ……」
その声に、ノインの理性がきしむ。爪を立てたら、壊してしまう。
それでも、欲しくてたまらない。
アスレイドという男が、崩れてしまわないように。消えてしまわないように。影を重ねるようにノインは慎重に指を這わす。短く何度も、音を立てながら首を吸い上げると癖のある金糸がさらさらとノインの肌を撫でていく。
小さく灯る快感を噛み締めるように、瞼を伏せたアスレイドの喉ぼとけがひくつく。その微かな震えを青い瞳で捉えながら、そうだ、これでいいのだと何度も自分に言い聞かせる。
これでいい。壊さずに抱けるのなら、それで。
ゆっくりと、確かめるように胸の先端に指の腹を押し付けた。アスレイドが、浅く息をつめる。その姿に、ノインは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
そのときだった。
「……もっと……ノイン君」
掠れた声が、耳元に落ちた。
確かに今、優しくしていたはずなのに。その一言で、胸に積み重ねていた何かがあっけなく崩れる。ノインは思わず動きを止めた。
「……あんた……」
「……お願い……もっと……」
伏せられた睫毛の下、うっすら開いた翠の瞳がほんのわずかに揺れている。それは、求める眼差しだった。視線が絡んだ瞬間、ノインは唇を噛む。爪を立てたら壊してしまう。そう思ってたのに。
「……そうかよ、じゃあ、望みどおりに」
再び首元に唇を落とすと、軽く歯を立てて肉に食い込ませた。
「……っあ……ノイン君……っ」
震える声が耳を打つ。ノインの指が乳頭を挟み捩じり上げると、アスレイドは身を反らせてベッドを軋ませる。
優しくなんて、もうできねえ。
その確信が、胸の奥で熱に変わる。響いた声はかぎりなく甘くて、何かを求めている。その響きはノインを滾らせて、弛んでいたアスレイドの黒衣を乱暴に引き抜いた。
肌に歯を立てるのと同時に舌を這わせ、胸の先端を甚振っていた指をスラックスのベルトにかけるとバックルを緩める。がちゃがちゃと耳障りな音が響く中、ノインは腰を押し付け、背を支えた腕でアスレイドをベッドに沈めてベッドに組み敷いた。
僅かに開かれた足の間に滑り込み互いの熱を、衣服越しに擦り重ねるように押し当てる。そこには、自分のものだけではない熱の塊が息衝いているのが分かって、心臓の鼓動と混ざり合う。
「……あんた、ほんと……」
その先は何も言えない。優しさでは壊せない反応は、ノインを更に滾らせた。
ぐ、ぐ、と律動を付けると向こうもせがむように腰を上げてくるから。見下ろしたアスレイドの眉間は切なく皺が刻まれて、この先に進むことを期待する短い喘ぎがひっきりなしに唇から漏れている。
「ぁ、あ、ん、ぅ、ん、っぁ」
切なげな声が、掠れて甘い。
布越しでもはっきりと分かる、頭を擡げた熱芯の、先端の括れを意識して擦り付けると嬉しそうな嬌声がひっきりなしにあがる。その音が頭の中で残響すればするほど、ノインはもう止まれなくなる。
息を弾ませながら緩慢に腰を動かしている中、アスレイドの腰を持ち上げようとしてズボンのポケットに硬い感触を覚えた。手を潜らせると、半分の量まで減っているオイルの小瓶が出てきたから、ノインは掌でぎゅうと握り締める。アスレイドのスラックスと下着を乱暴にずり下げ、膝の辺りで絡んだそれらを足の爪先で押し下げる。露わになった陰茎の下、二球の更に下。歯先で小瓶のコルク栓を引き抜くと、とろみのある液体を掌に注ぎ、隠された後孔へ塗り込んだ。
「……っ、ん……」
小さな声が漏れる。遠くない先に訪れるだろう期待が、もう隠すつもりもなく漏れている。
その思いに応えるべく、濡れた指を一本差し込む。知っている質量よりよほど細いそれでも、縁が甘く優しく締め付けながら食んできた。
「もっと力抜けよ……」
低く囁きながら、いささか性急に二本目の指を挿し入れると、アスレイドの腰がわずかに跳ねる。それが、抗いではなく受け入れる反応だと分かるから、ノインの内側はますます熱を帯びていく。
押し込んだ指で、乱雑に内壁をかき混ぜると、金糸を揺らしながら短い声がひっきりなしに零れ落ちた。
「ぁ、あっ、ああッ、ん、ぁ、あっ!」
その声は、祈りによく似ていた。何かを渇望してやまない、届かない何かを求めてひたすらに向けられるような。甘く注がれる嬌声は、自分に向けられた祈りのようだった。ノインは、この響きが聞こえるたびに笑えて仕方ない。なああんた、何かがほしくて堪らないんだろ、それが何なのか分からねえけど、俺しか差し出すことができねえんだろ。まるで、なんかの儀式じゃねえか。あんた、神様やってたんだろ、ほしくなる側の気持ちが分かったかよ。
爪を立てるたび、名を呼ばれるたび。哀れな男に応えてやりたいと強く願う。それが自分の、この世界での在り方だというのなら。もう自分にはこれしかないのだから。
ノインは指を引き抜きズボンを下ろすと、まだ湿り気を帯びた指で自らの亀頭を濡らした。アスレイドにうつ伏せになり腰を上げるように指示すると、既に神ならざる男は従順にベッドに腹をつけたまま腰を上げた。内側に塗りたくったオイルが、ひくつく孔からとろりと涎のように垂らしているのが見える。
なけなしの理性が、今挿入するのは早すぎないかと囁く。今まで散々重ねた身体であるけれど、優しくしたかったんじゃないかと。アスレイドの在り方を知ったお前は、何をしようとしていたのだと。
そんな僅かに残っていた、過去の輪郭のぬくもりに触れた感情は、赤く腫れた切っ先を最奥に押し当てた瞬間に鼓膜を震わせた声で粉々に砕け散った。
「……ほしい、ノイン君……!」
その一言で、最後の理性は断末魔もなく焼き切れた。
ノインは腰を押し込み熱の奥へと腰を沈めていく。ベッドが、悲鳴を上げるように軋んだ。ぬるりとした感触に、喉の奥で低く声が漏れる。
「……っ、あ、あぁ……」
アスレイドが小さく呻き、指先でシーツを掴む。ノインはその手首を押さえつけ、耳元に唇を寄せた。
呼吸が、荒い。
「……逃がさねぇ。全部、俺だけに……」
ゆっくりと、底まで沈める。奥でひくりと収縮する感触が、熱に拍車をかけていく。一度太い部分を飲み込んでしまえば、後は誘われるようにアスレイドの中を穿っていくだけだ。少しずつ、少しずつ、ノインの茎が、アスレイドに包み込まれていく。
「ノインっ、……っ、ノ、イン、くん……、もっと……っ!」
何度も呼ばれる名は、そして求める声は。それは祈りであり、命令であり、赦しの色が混ざった響きをしていた。
アスレイドは皺の寄ったシーツに顔を埋め、まるで祭壇に身を横たえる信徒のように身を委ねている。その在り方は、信徒の応答のようで。どこまでも美しい有様に、ノインは一つ大きく腰を打ち込んだ。
「ぅあっ! あ、ぁあ!」
けして痛みだけでない、とろけるような甘い色。ここではじめて、アスレイドはノインを受け入れる肉の形に成る。ぐじゅぐじゅとオイルと体液とが混ざる水音を立てながら、ノインはがむしゃらに腰を振る。そのたびに上がる嬌声は、地の底に響く福音の鐘に思えた。
一際深く腰を打ち込むと、ノインはアスレイドの両手首を掴んで上半身を起こさせる。そのまま、後ろから腕を引き寄せた。
「ぁああ゛、っ……!」
背を反らせながら肩越しに振り返った、金糸の下で乱れるその顔は、快楽に濡れた祈りの色を宿していた。ノインの律動とは別に、奥で脈打つ熱にアスレイドの腰が勝手に揺れる。
隆起した肩甲骨を見つめながら、何もかもを搾り取ろうと収縮する肉の輪を、引き剥がすように何度も何度も前後に揺らす。比例して掠れていく声は、命を乞うのとも、願いともつかない響きで耳を打つ。
「いい……! ぁ、あ、あっ、あぁ、もっと……!」
はしたなく開いた口から、喘ぎの間を縫って零れた言葉。何かを思う前に、苛立ちを滲ませるようにノインが問う。
「……足んねえのか?」
がくがくと揺れていた頭は、何かに気付いたように一瞬だけ表情が無くなった。今にも翠色の瞳から、雫が零れそうに見えたけれど、それを見せたくないかのようにアスレイドは俯いてしまう。
「……だって……壊されてれば……僕は……っ」
その先は、言葉にならなかった。ノインが腰の動きを速めたからだ。胸の奥で、何かが音を立てて焼け落ちる。
もっと強く、馬の手綱を引くように。掴んだ手首を更にぐいと引く。その拍子で奥が強く収縮してきつく絡みつき、アスレイドが甘い悲鳴を上げた。
「ぁ、はあ……っ! ぁ、う、ぅあ……あ……っ」
腰を打ち込むたび、背に爪を立てたくなる衝動を、ノインはただ指先の力で堪えていた。
代わりに、繋がった腰で、何度も何度も祈りを、叩き込む。
激しい律動にされるがままに揺れるアスレイドの身体は、糸が切れた操り人形のような動きをしていた。狭い中を何度も何度も行き来していると、こちらが呑まれているような錯覚を覚える。
いいや。与えるのは自分だ。アスレイドという肉の塊を、自分という存在で埋め尽くしてしまいたい。清廉なその姿を、世界から外れた倫理が汚して、地よりも低く落とし込みたい。
「……降ろしてやるよ……何度でも……」
自分に言い聞かせるようにも低く呟いた声が、背中に落ちてアスレイドを痙攣させる。
「あ、く、ぅ、うう、あっ、あっ、んンっ、あぁ……ッ」
呼吸と喘ぎが絡まり、互いの音が一つの儀式みたいに重なっていく。
ノインは、手首を引き寄せたまま、奥へ、奥へと穿ち続ける。
その動きに応えるように、アスレイドは身を仰け反らせて、切なげに名を呼んだ。
「……ノイン……っ、くん……っ!」
掠れた声で名を叫ばれたその音が、ノインの胸の奥を焼き尽くした。
ノインは掴んだ両手首を引き寄せたまま、背中に肉を密着させ奥を抉るように腰を打ち込む。
「ほら、落ちろよ、神様……っ、……!」
既に限界の見えているノインは耳元で囁き、歯を食いしばる。アスレイドの陰茎も、先端からとろみのある薄い白濁をシーツの海に滴らせている。名を呼ばれるたびに熱が迸る。壊してやる。何度でも。あんたがそう俺に望むのなら。
なら、俺が全部やってやる。
「……ノインく、ん……っ……も、ぉ……っあ、ぁっ……!」
掠れた絶叫。震える身体。
腹の辺りからうずまく甘い疼きが、大きな衝動となって全身を駆け巡る。出したい、出したい。真っ白い罪を、この身に捧げてやりたい。白く汚してやりたい。
奥がひくひくと戦慄いたのが分かって、アスレイドの限界が近いことも察する。
それを押さえつけながら、ノインは腰を深く突き込み、最奥で一気に熱を吐き出した。
「……あ゛あぁっ! あ……ぁあああっ……!」
アスレイドの声が張り詰め、背が大きく仰け反る。緊張した熱が一気に収縮し、ノインの陰茎を深く締め付ける。すべてを、何もかも。アスレイドに捧げられるように。
祈りと破壊がひとつに重なる。ノインはその奥に己を押し付けたまま、荒い呼吸の合間に笑った。アスレイドの身体が、杭を打ち込まれたかのように戦慄いて、止まる。
どくどくと脈打ちながら精が注がれるのに少し遅れて、アスレイドの陰茎から飛び出した精液が、小さな放物線を描いて落ちていった。
世界が焼け落ちるような感覚の中で、二人の呼吸だけが重なり合う。
漸く手首を離すと、アスレイドの身体がどさりと前に崩れていく。乱れて湿ったシーツに顔を埋めて、逃しきれない快感を享受するその表情は、漸く求めていた何かを得られたように満ち足りていた。
これでいい。呟いた声は、どちらのものであったか。壊すことと祈ることの境界が、もう見えない。
「足りねえだろ、俺も……あんたも」
だからもう一度、ノインは火照る身体を押し当てる。一度勢いを失って抜け出た熱芯は、再び頭を擡げて収まる場所を探していた。まだぬかるみの残る、白く汚された部分に先端を宛がうと、甘い、赦しのような声が響く。
その響きに、ノインはまだ終われないまま腰を押し付け、深く繋がり続けた。
まるで、祈り終えるのを拒むように。
世界は白く染められたまま、何も変わらない。
ノインはまだ、アスレイドの中にいた。
それだけが、確かなことのように思えた。
レヴィンに先導されて、石の町を歩く。真面目で融通が利かねえ奴だったよ、とどこか懐かしむように言ったけれど、やはりノインが知っている男と同じようには思えなかった。
北の民は、その在り方さえもどこか自らを律しているかのようだった。誰もかれもが真っすぐに背筋を伸ばし、その佇まいは粛々としている。アスレイドもレヴィンも、この地の出身というには疑問を抱かずにいられない。
前を行く男は色々な話を投げてくれる。そういえば、アスレイドと初めて会った時も同じようなことをされたか。もしかしたら北の人間は、元来話すことが好きなのかもしれない。北の地を抜けることで、内包していた言葉が溢れ出るような。そんな下らない想像をするくらいにはレヴィンの舌はよく回った。
「ここの連中に、皆に頼られてたよ。まあ、アルヴァリオだしな。俺んとこよりもよっぽど旧い家だ」
アルヴァリオ。その響きが、ノインにはどこか遠いものに思えた。今まで短い返事しかしてこなかったノインは、言葉に引っかかって疑問を投げてみる。
「あんたも、貴族だったのかよ」
「見えねえだろ?」
軽口を一つ叩いてやろうと思ったけれど、どうやら自覚はあるらしい。この風体を見ろと言わんばかりに両手を上げて見せると、土で汚れたケープが大きく翻った。
「まあ、俺もあいつも、家を出ちまったから。その意味では同じなんだろうけどよ」
まただ。その見えない共通点。そこに入れない自分。嫉妬とは異なる、自らの在り方が崩れていくような感覚だ。
「あいつ、昔からよく頼まれごとをしててさ」
「今も変わんねえよ」
「だろ? ……でも、やっぱ、ここにいた頃とは違うんだよ」
何が、と聞く前にレヴィンが足を止める。先には、山肌を削り取るようにして築かれた石の建物があった。無骨な外壁は煤で黒ずみ、余計な装飾の一切を拒むかのようにただ黙してそこに在る。、
入口には鉄の扉がなく、暗い奥から冷たい空気とともに奥から吹き上がる熱気がわずかに漏れ出している。ノインは思わず肩をすくめた。熱いのではない。熱を孕んでいるはずなのに、なぜかこの場所は肌を刺すように冷たかった。
レヴィンは迷いなくその中に足を踏み入れる。
石畳の床には幾重にも焦げ跡が走り、天井に設けられた開口部から差し込む光が、中央に鎮座する巨大な炉を鈍く照らしていた。山そのものをくり抜いて造られた煤で黒く染まった石壁の継ぎ目からは、何世代にもわたる祈りと労苦の痕跡が見て取れた。
「これが、エルグレイの炉だ」
レヴィンの声は淡々としていたが、その響きの奥には、長い時を見てきた者にしか持ち得ない重みがあった。
ノインは炉の奥で立ち昇る炎を見つめる。薪が爆ぜる音だけが、広い空間に低く響いている。誰も祈らない。誰も言葉を発さない。ただ火だけが燃え続けていた。
「なんだ、ここ」
静かに燃え続ける炎が、ノインの顔貌を赤く染める。レヴィンは揺れる焔を眺めながら、少しだけ眩しそうに帽子のつばを下げた。
「俺はレヴィン・エルグレイ。北で少しだけ長く続いた家の出でね。この炉は、エルグレイの炉っつってな。ここで精錬された武器が、中枢に運ばれて聖痕を埋められる。その後、シュレインの手に渡るってわけだ」
炉の奥には、いくつもの作業台が並んでいた。どれも煤で黒ずんでいるが、余計な埃一つなく、使い込まれた工具だけが整然と掛けられている。
壁際には、鉄槌や鉗子、炉用の長い鋏が規則正しく並べられ、そのどれもが長い年月を経てなお、頑丈な輝きを失っていなかった。床は石で固められ、足元には無数の焼け跡が染み付いている。打たれた鉄が何度も赤熱し、ここで形を変えてきた証だ。
天井から吊るされた鎖には冷却用の桶がいくつも掛かり、水面は鉄の匂いを含んで鈍く光っている。
ノインは思わず息を呑んだ。この場所には、労働の熱も、祈りの声もなかった。ただ、道具の並びと、炉の火の揺らめきが黙して全てを物語っていた。
「……随分、整ってるな」
ぽつりとこぼしたノインの声に、男が笑いながら肩を竦める。
「当然だろ。ここは祈る場所でもある。道具が乱れちゃ、神様に顔向けできねえ」
そう言ってレヴィンは、壁に掛けられた古びた槌を軽く持ち上げた。黒く煤けたその柄には、幾度も手に握られた跡が深く刻まれている。
「うちの親父が使ってたやつだ。……まあ、形だけは受け継いでるってやつだな」
炉の前に立つと、熱気ではなく冷たさが胸の奥に沈んでいくようだった。燃え盛る炎を前にしているはずなのに、そこにあるのは温もりではなく、長い年月にわたって積み重ねられた無数の祈りの痕跡だった。
ノインは、知らず息を呑む。ここには生きている火じゃなく、祈りを焼き続けるためだけに燃える火がある。そう思わされた。
「……ここで、祓ったんだ。俺の弟を」
隣でレヴィンがじっと炎を見つめていた。その横顔は、町を歩いていたときの軽さをすっかり失い、まるでこの炉の一部であるかのようだった。
ノインの反応を待つ前に、レヴィンは低く、淡々と話を続ける。ノインはただ黙っていた。炉の火を見ているはずなのに、レヴィンの横顔から目を離せなかった。
「俺と、アスレイド。あんときはまだシェルジュ、って呼んでたか。それに、俺の弟。俺達は幼馴染でな。ガキの頃からよく遊んだもんだよ」
話が長くなるのか、レヴィンは作業台の椅子に静かに腰掛ける。まるで、懺悔を行なうように。
「貴族なんて言うが、普通のガキだぜ。まあ、それなりに色々叩き込まれたけどよ、思えばいつも一緒にいたっけか」
話の先を促すように、ノインは男の顔を静かに見つめる。レヴィンは、かぶっていた帽子を手に取り、膝の上に乗せた。アスレイドの金色より更に透き通った、白金の短い髪がほの暗い洞窟の中で発光しているように見えた。
「俺もアスレイドも、シュレインになるのは当然みたいなもんだったんだ。お互いにそういう家に生まれたから。弟も同じようになるはずだったんだ。けどよ、もうすぐって時に、あいつは……異形化しちまってなあ」
レヴィンの声が、炉の炎に溶けて消えた。ノインは何も言えず、ただその言葉の余韻を噛みしめる。
炉の火が、ぱちりと音を立てた。
男は視線を炎に落としたまま、ぽつりと口を開く。
「祓うしかなかった。……俺が、やった」
声は低く、淡々としていた。けれど、それがかえって、この炉に刻まれた記憶の重さを突きつけてくる。
「ノイン、お前の持ってるダガーはよ、俺の弟のもんだったよ。こんなことになっちまったから、捨てたつもりだったんだが……どこで拾われるか分かんねえもんだな」
「……すまねえ。俺が、勝手に」
無意識にこぼれたノインの言葉に、レヴィンが短く笑った。
「謝ることじゃねえ。弟が死んだ時点で、持ち主がいなくなったんだ。お前に拾われたのも何かの縁だろ」
ノインは漸く動くのを赦されたかのように、ケープで隠れた腰元のベルトから短剣を取り出す。使い込まれた鈍色は、本来であればどのような姿であったのだろう。この小さな刃に込められていただろう祈りが、今更のように重く手に圧し掛かる。
掌にある短剣の重みを量るような仕草を眺めながら、レヴィンは話を続けた。
「シェルジュ……、アスレイドは、何もできなかったと言っていたがな。実際何もできることはなかったんだ。俺だって、北の規律に則ってやっただけの話だ。それでも、あの日から。あいつはシェルジュ、って呼んでも返事はしなくなったな。アスレイドと呼べと。あいつなりの、けじめみてえなもんなのかもしれねえが」
レヴィンは、しばし言葉を切ったまま、炉の火を見つめていた。
薪が爆ぜる音だけが響く中、彼はゆっくりと息を吐いてから、再び口を開く。
「あいつが北を出たのはな、俺の弟を祓ったあとだ」
レヴィンの声は淡々としていたが、その平静の奥には、長い時間を経ても消えない何かがあった。
「祓ったその翌日だ。俺も、その後に北を出た。……ここにいても仕方ない気がしてな」
男は炉の火を見つめながら、愉快さとは無縁の笑みを浮かべる。炎の光が横顔を赤く照らし、煤に焼けた空気の中でその瞳だけが静かに揺れている。
ノインは何も言えず、ただ炎の爆ぜる音を聞いていた。それは音というより、長い時間を焼き尽くす鼓動のように思えた。
「それっきりだ。次に会った時には、中枢でアスレイドを名乗ってたよ」
レヴィンの指が炉の火を指し示す。
「あの時から、ここにいられなくなったんだろうな。理由は、俺にも分からねえ」
その言葉は、炉の火と同じくらい静かで、それでいて胸に深く沈み込んでくるものだった。
ノインは、知らず短剣を握る手に力がこもる。何に対してなのか、自分でも分からないまま。ただ、ダガーを握りしめていないといけないような。そんな焦燥感にも似た感情が沸いたけれど、この炉がそんな分からなさを燃やしてくれればいいのにとも思った。
「あいつは神様になりたかった訳じゃねえ。……でも、何かを探してたんだろうよ」
ここで自分が話せることは終わりだと、レヴィンは静かに微笑んだ。沈黙の炎が、男の顔を静かに揺れながら照らす。ノインは、ただその横顔を見ていた。
案内された客人用の部屋だという石造りの間には、ベッドが二つ置かれていた。ここもエルグレイのだから、好きに使ってくれと言ったレヴィンの表情には、既に影はなかった。まだ、アスレイドは帰ってきていない。窓から差し込む光は黒色に押し潰されそうな赤い色をしている。それでも、炉の炎を見ていたせいか、灯りはどこか頼りなく見えた。
ケープを壁に掛けると、ベッドに腰かける。夕餉にも誘われたが、アスレイドに聞かないと分からないと答えた。そこまで忠犬になることはないと笑われたけれど、そんなつもりで言ったわけでなかったのだが。
「……あいつ、どこまで行ったんだか」
ぽつりと呟いた声も誰にも拾われることはない。ただ、静寂が音もなく帰ってくるだけだった。
いよいよ頼りになるのが部屋の明かりだけになる頃、木を叩く軽い音が鼓膜を震わせた。返事を待つことなく開かれた扉の向こうから、アスレイドがゆっくり姿を現す。その姿はいつもと変わらない筈なのに、どこか疲れているように見えた。
その、落ちた夕日と一緒に消えてしまいそうな輪郭に、ノインは声を掛けようとしたけれど言葉が喉を震わせることはなかった。
「……おかえり、ノイン君」
見慣れた、瞳を穏やかに細める仕草さえ、触れたら崩れそうなほど不安定だった。長い睫毛の下に湛える翠色の瞳は、よく知っているもののはずなのに。
アスレイドは部屋に入ると、白いコートを静かに脱ぎ、椅子の背に掛けた。その仕草ひとつで、外気の冷たさだけでなく、肩に積もっていた何かを置いてきたように。
「……ノイン君」
低く呼ばれる声は、炉の熱を引きずったように微かに掠れていて、それでいて穏やかで。
ノインが言葉を返すより先に、アスレイドはふっと力を抜いた。その長い身体が、まるで耐えきれなくなったようにノインの胸に倒れ込んでくる。
「……っ」
反射的に支えた肩越しに、微かに震える息が伝わる。
「少し……こうさせて」
耳元でそう囁かれたとき、ノインは何も言えなかった。
ただ、その重みを受け止めながら、腕をゆっくりとアスレイドの背に回そうとして、ためらう。まるで、その一線を越えたらもう二度と戻れない気がした。
レヴィンの言葉が、ふと脳裏をよぎる。あいつは神様になりたかった訳じゃねえ。――だからこそ、今だけは。せめてこの男を、壊さずに抱き締めてやれたなら。だけど、この手は。この神性を掻き抱くには汚れすぎてしまっている。
薄い皮膚越しに感じるアスレイドの身は、生きている温もりがあるのに、どこか冷え切っていた。
同時に、嗅ぎ慣れてしまった男の香りに胸が、下腹部が熱を持ち始めるのも分かっていた。どれだけ浅ましいのだろう。所詮、壊すしかできない身体なのだと突き付けられているようだった。
ノインは、アスレイドの背をそっと撫でる。その指先に感じる細やかな震えは、何を意味していたのだろう。
「――ん……っ」
背を撫でていた掌を、肩、そして黒衣の下にある鎖骨をなぞるように滑らせる。肩口に乗った男の口から、甘い吐息が微かに零れた。
両の指で詰襟から順にゆっくりと釦を外す。その間、アスレイドは息を詰めて待っているようだった。開いた前から手を忍ばせると、指先に触れる肌は、なだらかで引き締まっていた。熱を帯びた胸の鼓動が掌にじんわりと伝わってくるけれど、爪の先が立てる場所を求めて疼いている。
少しだけ衣を下げると、露わになった首筋にノインの鼻先を潜らせた。鼻孔に匂いをいっぱいに吸い込み、唾液を乗せた舌を這わせるとひくひくとアスレイドの身体が戦慄く。
「……ぁ……」
その声に、ノインの理性がきしむ。爪を立てたら、壊してしまう。
それでも、欲しくてたまらない。
アスレイドという男が、崩れてしまわないように。消えてしまわないように。影を重ねるようにノインは慎重に指を這わす。短く何度も、音を立てながら首を吸い上げると癖のある金糸がさらさらとノインの肌を撫でていく。
小さく灯る快感を噛み締めるように、瞼を伏せたアスレイドの喉ぼとけがひくつく。その微かな震えを青い瞳で捉えながら、そうだ、これでいいのだと何度も自分に言い聞かせる。
これでいい。壊さずに抱けるのなら、それで。
ゆっくりと、確かめるように胸の先端に指の腹を押し付けた。アスレイドが、浅く息をつめる。その姿に、ノインは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
そのときだった。
「……もっと……ノイン君」
掠れた声が、耳元に落ちた。
確かに今、優しくしていたはずなのに。その一言で、胸に積み重ねていた何かがあっけなく崩れる。ノインは思わず動きを止めた。
「……あんた……」
「……お願い……もっと……」
伏せられた睫毛の下、うっすら開いた翠の瞳がほんのわずかに揺れている。それは、求める眼差しだった。視線が絡んだ瞬間、ノインは唇を噛む。爪を立てたら壊してしまう。そう思ってたのに。
「……そうかよ、じゃあ、望みどおりに」
再び首元に唇を落とすと、軽く歯を立てて肉に食い込ませた。
「……っあ……ノイン君……っ」
震える声が耳を打つ。ノインの指が乳頭を挟み捩じり上げると、アスレイドは身を反らせてベッドを軋ませる。
優しくなんて、もうできねえ。
その確信が、胸の奥で熱に変わる。響いた声はかぎりなく甘くて、何かを求めている。その響きはノインを滾らせて、弛んでいたアスレイドの黒衣を乱暴に引き抜いた。
肌に歯を立てるのと同時に舌を這わせ、胸の先端を甚振っていた指をスラックスのベルトにかけるとバックルを緩める。がちゃがちゃと耳障りな音が響く中、ノインは腰を押し付け、背を支えた腕でアスレイドをベッドに沈めてベッドに組み敷いた。
僅かに開かれた足の間に滑り込み互いの熱を、衣服越しに擦り重ねるように押し当てる。そこには、自分のものだけではない熱の塊が息衝いているのが分かって、心臓の鼓動と混ざり合う。
「……あんた、ほんと……」
その先は何も言えない。優しさでは壊せない反応は、ノインを更に滾らせた。
ぐ、ぐ、と律動を付けると向こうもせがむように腰を上げてくるから。見下ろしたアスレイドの眉間は切なく皺が刻まれて、この先に進むことを期待する短い喘ぎがひっきりなしに唇から漏れている。
「ぁ、あ、ん、ぅ、ん、っぁ」
切なげな声が、掠れて甘い。
布越しでもはっきりと分かる、頭を擡げた熱芯の、先端の括れを意識して擦り付けると嬉しそうな嬌声がひっきりなしにあがる。その音が頭の中で残響すればするほど、ノインはもう止まれなくなる。
息を弾ませながら緩慢に腰を動かしている中、アスレイドの腰を持ち上げようとしてズボンのポケットに硬い感触を覚えた。手を潜らせると、半分の量まで減っているオイルの小瓶が出てきたから、ノインは掌でぎゅうと握り締める。アスレイドのスラックスと下着を乱暴にずり下げ、膝の辺りで絡んだそれらを足の爪先で押し下げる。露わになった陰茎の下、二球の更に下。歯先で小瓶のコルク栓を引き抜くと、とろみのある液体を掌に注ぎ、隠された後孔へ塗り込んだ。
「……っ、ん……」
小さな声が漏れる。遠くない先に訪れるだろう期待が、もう隠すつもりもなく漏れている。
その思いに応えるべく、濡れた指を一本差し込む。知っている質量よりよほど細いそれでも、縁が甘く優しく締め付けながら食んできた。
「もっと力抜けよ……」
低く囁きながら、いささか性急に二本目の指を挿し入れると、アスレイドの腰がわずかに跳ねる。それが、抗いではなく受け入れる反応だと分かるから、ノインの内側はますます熱を帯びていく。
押し込んだ指で、乱雑に内壁をかき混ぜると、金糸を揺らしながら短い声がひっきりなしに零れ落ちた。
「ぁ、あっ、ああッ、ん、ぁ、あっ!」
その声は、祈りによく似ていた。何かを渇望してやまない、届かない何かを求めてひたすらに向けられるような。甘く注がれる嬌声は、自分に向けられた祈りのようだった。ノインは、この響きが聞こえるたびに笑えて仕方ない。なああんた、何かがほしくて堪らないんだろ、それが何なのか分からねえけど、俺しか差し出すことができねえんだろ。まるで、なんかの儀式じゃねえか。あんた、神様やってたんだろ、ほしくなる側の気持ちが分かったかよ。
爪を立てるたび、名を呼ばれるたび。哀れな男に応えてやりたいと強く願う。それが自分の、この世界での在り方だというのなら。もう自分にはこれしかないのだから。
ノインは指を引き抜きズボンを下ろすと、まだ湿り気を帯びた指で自らの亀頭を濡らした。アスレイドにうつ伏せになり腰を上げるように指示すると、既に神ならざる男は従順にベッドに腹をつけたまま腰を上げた。内側に塗りたくったオイルが、ひくつく孔からとろりと涎のように垂らしているのが見える。
なけなしの理性が、今挿入するのは早すぎないかと囁く。今まで散々重ねた身体であるけれど、優しくしたかったんじゃないかと。アスレイドの在り方を知ったお前は、何をしようとしていたのだと。
そんな僅かに残っていた、過去の輪郭のぬくもりに触れた感情は、赤く腫れた切っ先を最奥に押し当てた瞬間に鼓膜を震わせた声で粉々に砕け散った。
「……ほしい、ノイン君……!」
その一言で、最後の理性は断末魔もなく焼き切れた。
ノインは腰を押し込み熱の奥へと腰を沈めていく。ベッドが、悲鳴を上げるように軋んだ。ぬるりとした感触に、喉の奥で低く声が漏れる。
「……っ、あ、あぁ……」
アスレイドが小さく呻き、指先でシーツを掴む。ノインはその手首を押さえつけ、耳元に唇を寄せた。
呼吸が、荒い。
「……逃がさねぇ。全部、俺だけに……」
ゆっくりと、底まで沈める。奥でひくりと収縮する感触が、熱に拍車をかけていく。一度太い部分を飲み込んでしまえば、後は誘われるようにアスレイドの中を穿っていくだけだ。少しずつ、少しずつ、ノインの茎が、アスレイドに包み込まれていく。
「ノインっ、……っ、ノ、イン、くん……、もっと……っ!」
何度も呼ばれる名は、そして求める声は。それは祈りであり、命令であり、赦しの色が混ざった響きをしていた。
アスレイドは皺の寄ったシーツに顔を埋め、まるで祭壇に身を横たえる信徒のように身を委ねている。その在り方は、まるで信徒の応答のようで。どこまでも美しい有様に、ノインは一つ大きく腰を打ち込んだ。
「ぅあっ! あ、ぁあ!」
けして痛みだけでない、とろけるような甘い色。ここではじめて、アスレイドはノインを受け入れる肉の形に成る。ぐじゅぐじゅとオイルと体液とが混ざる水音を立てながら、ノインはがむしゃらに腰を振る。そのたびに上がる嬌声は、地の底に響く福音の鐘に思えた。
一際深く腰を打ち込むと、ノインはアスレイドの両手首を掴んで上半身を起こさせる。そのまま、後ろから腕を引き寄せた。
「ぁああ゛、っ……!」
背を反らせながら肩越しに振り返った、金糸の下で乱れるその顔は、快楽に濡れた祈りの色を宿していた。ノインの律動とは別に、奥で脈打つ熱にアスレイドの腰が勝手に揺れる。
隆起した肩甲骨を見つめながら、何もかもを搾り取ろうと収縮する肉の輪を、引き剥がすように何度も何度も前後に揺らす。比例して掠れていく声は、まるで命を乞うのとも、願いともつかない響きで耳を打つ。
「いい……! ぁ、あ、あっ、あぁ、もっと……!」
はしたなく開いた口から、喘ぎの間を縫って零れた言葉。何かを思う前に、苛立ちを滲ませるようにノインが問う。
「……足んねえのか?」
がくがくと揺れていた頭は、何かに気付いたように一瞬だけ表情が無くなった。今にも翠色の瞳から、雫が零れそうに見えたけれど、それを見せたくないかのようにアスレイドは俯いてしまう。
「……だって……壊されてれば……僕は……っ」
その先は、言葉にならなかった。ノインが腰の動きを速めたからだ。胸の奥で、何かが音を立てて焼け落ちる。
もっと強く、馬の手綱を引くように。掴んだ手首を更にぐいと引く。その拍子で奥が強く収縮してきつく絡みつき、アスレイドが甘い悲鳴を上げた。
「ぁ、はあ……っ! ぁ、う、ぅあ……あ……っ」
腰を打ち込むたび、背に爪を立てたくなる衝動を、ノインはただ指先の力で堪えていた。
代わりに、繋がった腰で、何度も何度も祈りを、叩き込む。
激しい律動にされるがままに揺れるアスレイドの身体は、糸が切れた操り人形のような動きをしていた。狭い中を何度も何度も行き来していると、まるでこちらが呑まれているような錯覚を覚える。
いいや。与えるのは自分だ。アスレイドという肉の塊を、自分という存在で埋め尽くしてしまいたい。清廉なその姿を、世界から外れた倫理が汚して、地よりも低く落とし込みたい。
「……降ろしてやるよ……何度でも……」
自分に言い聞かせるようにも低く呟いた声が、背中に落ちてアスレイドを痙攣させる。
「あ、く、ぅ、うう、あっ、あっ、んンっ、あぁ……ッ」
呼吸と喘ぎが絡まり、互いの音が一つの儀式みたいに重なっていく。
ノインは、手首を引き寄せたまま、奥へ、奥へと穿ち続ける。
その動きに応えるように、アスレイドは身を仰け反らせて、切なげに名を呼んだ。
「……ノイン……っ、くん……っ!」
掠れた声で名を叫ばれたその音が、ノインの胸の奥を焼き尽くした。
ノインは掴んだ両手首を引き寄せたまま、背中に肉を密着させ奥を抉るように腰を打ち込む。
「ほら、落ちろよ、神様……っ、……!」
既に限界の見えているノインは耳元で囁き、歯を食いしばる。アスレイドの陰茎も、先端からとろみのある薄い白濁をシーツの海に滴らせている。名を呼ばれるたびに熱が迸る。壊してやる。何度でも。あんたがそう俺に望むのなら。
なら、俺が全部やってやる。
「……ノインく、ん……っ……も、ぉ……っあ、ぁっ……!」
掠れた絶叫。震える身体。
腹の辺りからうずまく甘い疼きが、大きな衝動となって全身を駆け巡る。出したい、出したい。真っ白い罪を、この身に捧げてやりたい。白く汚してやりたい。
奥がひくひくと戦慄いたのが分かって、アスレイドの限界が近いことも察する。
それを押さえつけながら、ノインは腰を深く突き込み、最奥で一気に熱を吐き出した。
「……あ゛あぁっ! あ……ぁあああっ……!」
アスレイドの声が張り詰め、背が大きく仰け反る。緊張した熱が一気に収縮し、ノインの陰茎を深く締め付ける。すべてを、何もかも。アスレイドに捧げられるように。
祈りと破壊がひとつに重なる。ノインはその奥に己を押し付けたまま、荒い呼吸の合間に笑った。アスレイドの身体が、杭を打ち込まれたかのように戦慄いて、止まる。
どくどくと脈打ちながら精が注がれるのに少し遅れて、アスレイドの陰茎から飛び出した精液が、小さな放物線を描いて落ちていった。
世界が焼け落ちるような感覚の中で、二人の呼吸だけが重なり合う。
漸く手首を離すと、アスレイドの身体がどさりと前に崩れていく。乱れて湿ったシーツに顔を埋めて、逃しきれない快感を享受するその表情は、漸く求めていた何かを得られたように満ち足りていた。
これでいい。呟いた声は、どちらのものであったか。壊すことと祈ることの境界が、もう見えない。
「足りねえだろ、俺も……あんたも」
だからもう一度、ノインは火照る身体を押し当てる。一度勢いを失って抜け出た熱芯は、再び頭を擡げて収まる場所を探していた。まだぬかるみの残る、白く汚された部分に先端を宛がうと、甘い、赦しのような声が響く。
その響きに、ノインはまだ終われないまま腰を押し付け、深く繋がり続けた。
まるで、祈り終えるのを拒むように。
世界は白く染められたまま、何も変わらない。
ノインはまだ、アスレイドの中にいた。
それだけが、確かなことのように思えた。