第二話
東の国にいた時は、日の光が地の果てから昇るところまで落ちるところまで、はっきり見えた。
空から水滴が滴る日も、この瞳と同じ色の空が広がる日も。いつも、草色の絨毯が地面いっぱいに広がっていた。
草の民は、意思を尊重する。四神の一柱、女神ウィルナはその土地に住む民の選択を支持し、自らの変革を促す。だから、草の民、東の住人はその風に背を押され、風のように生きてきた。誰かのせいにするな、自分の選択を誇れ。胸を張って、風と在れ。そんな教えが、吹き込んでくる場所だった。
でもあの夜、俺は走れなかった。
止まって、選んで、殺した。
あの土地は、もう俺の帰る場所じゃない。
アスレイドの姿が見えないと思ったら、両手に抱えた麻籠にどっさりと野菜を抱えてきたものだから、ノインは手にした箒を落としそうになる。灰色の教堂は、他のそれと違って白く輝く必要はないのだという。そうモノクルの瞳が笑って見せたけど、所在ない身の置きどころがなくて、せめて門周りの掃き掃除を買って出ていた。
「少し歩くと、皆こうして色々くれるんだ。おかげで困ったことがない」
「それって、施しを受けてるって言うんじゃ……」
「僕の日頃の行いのおかげだね」
鼻歌を奏でながら横切る男が、地域の住民からあれもこれも持っていけと、けして尊敬からではない恵みを与えられる場面が目に浮かび、ノインは呆れたように眉をひそめる。日はまだあの向こうから出たばかりで、ノインが知っている地の果てと中枢教区のそれは随分違うのだなと毎日のように思う。
慣れない白磁の街を散策するようになってからもう一つ、アスレイドの教堂が他の教堂と異なることに気が付いた。神の教えを享けるここ、中枢教区にある教堂は、ノインを裁こうとした神殿を基点に四方八方へ放射線状に配置されていること。そしてどれもが、神の啓示をいち早く受けられるように門の向きが中央に向けられていた。中央に背を向けた位置に門があるのは、アスレイドの教堂だけであった。
そもそも西にほど近い、辺鄙な場所にある教堂だ。曝す白に耐えきれなくなってこの門を潜る者を何人も見てきた。人々は皆、口を揃えてアスレイドを囲み、自らに起こった悲劇を切々と語る。どんな時でも、うねる金糸の間から覗く瞳は穏やかで、張り付いたような笑顔は崩れることがないのも、ノインは既に知っている。
ここは、一体何なのだろう。ノインは、ウィルナに祝福された地の民でありながら、すべてのネルガルドの者と同じように四神への誓いは絶対であると教えられてきた。しかし、この地を踏んでからというもの、その教義が分からなくなる。ここでは誰もが四神を口にするけれど、その顔が見えないのだ。まるで、祈っていれば赦されるという免罪符を誰もかれもが欲しているかのようだった。東の地では裁ききれないと連れてこられた場所であるが、魂の重さを量る天秤が濁っているように思えてならない。だからこそ、アスレイドの教堂は今まで見てきたどの教堂よりも、ぴたりと型にはまるような感覚であった。もはや東に戻ることもないこの身は、ここに置かれているのが最も良いと、誰かに諭されているような気分になるのだ。
「ノイン君、仕分けを手伝ってくれないかい」
教堂の主は、奥の間に進まず、どうやらノインが付いてくるのを待っていたらしい。一つため息を吐くと、ノインは箒の柄を手にしながら呼び声がした方へと足先を向けた。
「今日は、買い物を手伝ってほしいんだ。宣託に使う護符が切れてしまってね」
テーブルを挟んで、アスレイドの口へ細かく刻まれた野菜が運ばれるのを眺めながら、ノインは香り立つパンをほおばった。歯の奥でゆっくり噛むと鼻孔の奥から香ばしい香りと柔らかな麦の味が口腔に広がる。この付近の住民は、植物を育てるのが随分上手いらしい。
「護符ってあれか。説話の最後に渡すやつ。紙ならなんでもいいって訳じゃないんだな」
「ここで売っているものは、ほとんどが四神の祝福を受けているよ。そうでないのは、自然に生まれてくるものくらいかな」
宣託であっても説話にしても、儀式を行うには神の許に在りたいと思うのだろう。故に、人は四神の教えを乞い、沈黙の声を聞き取ろうとする。何かを媒介にするのは、手に取ることで現実味を帯びるからだ。
「ノイン君も、欲しいものがあったら買ってあげるよ」
まるで幼子に向けるような声掛けに、ノインは内心面白くなかった。世話になっている身分とは言え、こうも庇護されていることを意識させられると、罪を重ねていくような気分になる。
「いらねえよ」
「おや、そうかい」
返ってきたのは、どこまでも優しい声だった。責めもしない。怒りも湛えない。そう、まるで慈愛の仮面を張り付けたまま、何も見なかったことにしてやるというような。
ノインは、パンの柔らかい部分を無理やり噛みちぎった。そうでもしなければ、何かを吐いてしまいそうだった。
こうもあっさり引くことも気に食わない。つまるところ、ノインはアスレイドという男の心の底が見えなくて、どう振舞えばよいのか分からなくなるのだ。既に成人の儀は済ませたと言うのに、こうして幼子のような扱いをされるのはどうにも尊厳を傷付けられる。
俺は、望んであんたに拾われたわけじゃない。ウィルナの風に導かれたわけじゃない。自分の意思でここに来たわけじゃない。
そういえば、アスレイドは自分より幾つ年を取っているのだろう。
かっちりと着こなした、漆黒のシャツから覗く指は、成人の儀でノインの頭に草冠を乗せた長老のものとはまったく異なる。あの夜、謝罪の言葉を連ねながら両の手を後ろに回した男の者とも異なる。金色を放つ髪は瑞々しく満ちているし、貌には皺一つない。明らかに成人の儀を済ませていると思われるけれど、それでもこの男が何回生誕の日を跨いだのかは分からない。
「あんまり見つめられると、食事の味が分からなくなるよ」
そういった瞳は少しだけ困ったように細まった。弾かれたようにノインは目の前に置かれた皿からパンをもう一つ手に取って含む。口内を湿らすミルクは草原の風を思い出させた後、喉の奥へと静かに流れていった。
正直な思いとして、この男の生活は逼迫していると思い込んでいた。連れられた聖具店で、見たことがない金額の品物があれもこれもとアスレイドによって取り積み上げていくのにつれて、何故かノインの胃がきりきりと痛んだ。そんな心配もよそに金貨袋から取り出した分は、店主から釣りを受け取るくらいであった。こんなに金があるのに、と教堂の有様を知っているノインはあちらの方角に憐れむような視線を投げる。清貧を良しとするのかただの吝嗇家かも分からない。
「まとめて買う性分でね。荷物持ちがいて助かるよ」
にこにこと普段より一層深く微笑む男を隣に、ノインは白畳を踏む。藁色の包み紙にくるまれた聖具は重いわけではない。だけれど目元に深い皺を刻んだ店主が、白い顎髭を揺らしながら取り扱いには注意してくださいねと言い渡したものだから、無意識に植え付けられた責任感で見た目以上の重みが圧し掛かる。
そんなノインの足取りとは異なり、アスレイドの足はどこか軽やかだ。もしかしたら、こうして歩くことが、何かを買うことが好きな性格なのかもしれない。男の姿に自分と同じ人の性質を感じ取れて、ノインはどこか安堵した。
日の光に照らされながらここまでの思い出を振り返れば、この男は自分とは異なる種族の者ではないかと思わされることがしばしばあった。それは、初めて会った時の、場を変える力を持つ異質さ、宣託者としての振る舞いであるのかもしれない。その在り方はノインが出会ってきたどの魂とも全く異なるもので、ここにきて自分の知っていた知見の狭さを自覚させるには十分だった。
目を離したらまた違う店へと吸い込まれていきそうだから、ノインは短く制止の声を都度その背中に投げる。外出する時に羽織った白い外套に施された刺繍をきらきらと輝かせ、両袖は何か探し求めるように軽やかに跳ねる。足取り軽く、ふらふらと揺れる様は、まるで天の使いが地で遊ぶようであった。
流石に同じ言葉をかけるのに飽きてきたころ、モノクルの瞳がまた、ある部分を捉えていることに気付く。
「やっぱり、奇麗だね。君の髪は」
初めて二人並んで歩いた日も同じことを言われた。黒色の中に白が混じるメッシュの髪は、日の光を浴びて赤みを帯びる。もうその声の響きも思い出せない父は、まるでウィルナの風の色をしていると誇らしげにしていたこともあったか。もう抱き上げられた感触も思い出せない母は、この子は立派なウィルナの民になるわと優しく笑った。
今更思い出したところで。ノインは苦虫を噛み潰したような顔をして、アスレイドの賛辞に応えることはない。これ以上髪を見られたくなくて歩みを促そうとしたとき、何か小さな姿が長身の足元でぶつかった。
「おっと、大丈夫かい」
アスレイドの瞳が足元に向けられると、そこには彼の背丈の半分もない少女が申し訳なさそうに男を見上げていた。どうやら同じく買い物帰りなのだろう、小さな両手で網籠の持ち手をしっかり握りしめながら、ごめんなさいと消え去りそうな声でアスレイドに頭を下げる。頭の後ろで、一房に結わえられた髪がうなだれた。
「気にすることはないよ。怪我は、なかったかい」
視線の高さを合わせるように、アスレイドは膝を曲げて今にも瞳から大粒の涙を零しそうな少女に声をかける。こくこくと何度も頭を振るたびに、耳の横で結わえられた髪が尻尾のように揺れた。
「買い物かい。偉いね。大事なものだろうから、気を付けて帰るんだよ」
別れの挨拶として、アスレイドはその小さな頭を優しく撫でると少女はもう一度詫びの言葉を投げて、こちらに背を向けて帰路へと急いでいった。曲がり角、背中が見えなくなるところで振り向いて、大きく背を曲げてぺこりと頭を下げてから路傍の奥へと消えた。その姿を見届けると、ようやくアスレイドは膝を伸ばす。
「あの子は、だめかもしれないね」
てっきり慈しみの言葉が語られると思っていただけに、その音の冷たさにノインは鼓膜だけでなく、背筋まで凍りつく。一歩、踏み出せば音が鳴るような沈黙の中で、アスレイドの瞳は、まだ人影の消えた道の先を捉えている。
「……何が」
促さないと何も教えてもらえない気がして、ノインは短く吐いた。そして、聞かなかった方が良かったと後悔することになる。
「袖の奥に、少しだけ。黒い染みがね。あの昏さは、もう無理だろう」
一度深くひび割れた陶器は、もう元には戻らないんだよと諭すような。大事にしていたのに、と嘆く者に対し、事実だけを淡々と伝える声は、最初からそうなる運命だったのだと静かな冷たさを纏っている。
ネルガルドに棲む異形は、神の意志から外れた者がなるという。しかし、瞬き一つの間にその身が変容するわけではないことは分かっている。まず、身体のどこかに黒い染みができる。肌に乗った墨は、じわじわと肌を侵食し、ついには余すことなく染め上がる。次に、元の形とはほど遠い形に変わっていくのだという。背丈が異常に伸びたり、大きく横に広がる個体もあるという。腕が足が、頭が増え、人の形とはまったく異なる異形が完成する。あとは、血肉を求め屠る獲物を追う獣になる。人であった時交わした言葉は届かず、対峙した者は己の命が消えるのを祈りながら待つしかないという。
黒と赤の夜の記憶が、息をするたびに肺の奥から滲み出す。
あの異形も、かつては人だった。
黒い影に暴かれながら血肉を晒し、異様に膨らんだ胎を揺らしながら何かを求めて視線をさまよわせていた姿が、どうしても終わらせてほしいと泣いていたから。だからノインは、圧し掛かっていた異形にしたのと同じように、短剣を幼馴染の首元に差し込んだ。
許すためじゃない。救うためでもなかった。あれは、自分が自分であり続けるための己の意思による、最後の選択だった。
少女もまた、いずれ黒に染まる。その昏さが皮膚を破って滲み出すまで、季節をひとつ越えることさえないかもしれない。胸の内で何かが軋む。それが痛みなのか、慟哭なのか、それともただの拒絶反応なのか、ノインには分からなかった。
ただ、神は、教わってきたとおり平等に無慈悲だ。
二人、それ以上交わす言葉もなく立ち尽くしていると、背中から投げられたアスレイドの名を呼ぶ声にようやく現実に引き戻された。
「よお、久しぶりじゃねえか。元気そうだな」
アスレイドがそっと振り返る。ノインもつられるように後ろを見やると、帽子のつばを跳ね上げた男が陽の逆光の中、こちらへ歩いてきていた。その奥には濁りのない土色の瞳が人懐っこく見える。全身は旅の埃にまみれていて、目元の皺やくたびれたケープの端が彼の生き方を物語っているようだ。それでも腰に下げた幅広の剣の柄は、なぜか輝きを失っていないように見えた。
「レヴィン、君も息災なさそうだ」
レヴィンと呼ばれた男は、ノインよりもいくらか年上だろうか。どこを見ても清廉を絵に描いたようなアスレイドとは対極の存在に思えるのに、二人は旧知の仲らしく、釣り合いが取れているのが不思議だった。
短い近況報告を終えたのだろう、土色の瞳がノインに向けられるとうっすら笑いを見せた。
「聞いたぜ、随分やんちゃな犬を飼い始めたってな」
瞬間、何を言われたか脳が理解を拒否した。どうやら、この男は自分のことを犬のようだと揶揄したらしい。頭から爪先まで、黒い色を纏っているとは言えノインはまだ、自らの尊厳までは捨てていないつもりだった。
「流石にシュレインは耳が早い。貸すつもりはないよ」
それでも、わずかな間でも寝食を共にした男なら否定してくれると思っていた自分はどうやら甘かったらしい。笑みを崩さずに、ノインの代わりにとでもいうような素振りで言葉を投げたアスレイドの顔を、見上げることはできなかった。
レヴィンは大げさに両手を上げ、肩を竦めてみせる。
「へ、そんな聖痕もねえ武器振り回して異形ぶち殺す犬なんて、俺には飼い慣らせねえよ」
どうやら、彼らの間では自分は犬という立場に落ち着いたらしい。日も傾いてきたころだ、犬は犬らしく寝床に帰るべきじゃないのか。人語を発せない状況の中、ノインは荷物を持ってただ立ち続けるしかない。
アスレイドの言葉が腹に重く沈んでいく。何を期待していたというのか。否、期待させるような柔らかい感覚を与えられなくて良かったのかもしれない。もしそんなことであったなら、いよいよ俺の足元から風が立つことがなくなるだろう。
それでも。犬として扱われても、黙って従っているように見えても、俺はまだ、あんたの足元に頭を下げたつもりはない。
尊厳までは、捨てていない。捨ててなんか、いないのだ。
耳の横に挙げていた腕をゆっくり下ろすと、レヴィンは一呼吸置いて先ほどの調子とは真逆の声色で、言葉を続けた。
「じゃあ、俺。行くわ。アス、また連絡する」
「うん。気を付けて。君のことだから、心配はないだろうけど」
「当然だろ」
アスレイドの言葉に鼻で笑って返すと、レヴィンは先ほど少女が消えていった街角へ向かって歩き出す。長い影が、ゆっくりと遠ざかっていく。漸く人の身に戻れたノインは、文句を言うより先に何か言わなければならない予感に襲われていた。
「なあ、あいつ」
「あいつ、なんて言うものではないよ。旧い友なんだ。僕と、同じでね」
語尾に含まれた声が、闇を裂く銀月のように鋭い。その冷たさは、ベッドの上で夢魔の首を刎ねた時と同じものであった。ノインは、少女が消えた道の先を、アスレイドに促されるまでずっと見つめていた。
教堂に戻った頃には、すっかり日が落ちていた。先に中へと入ったアスレイドは、聖堂の燭台に灯りをともす。浮かび上がるのは、装飾のされていない四辺を囲んだ壁の姿だ。朧げな視界の中、ノインは使い込まれたベンチの上にすっかり重くなった荷物をゆっくり下ろした。
帰路の途中、ノインはアスレイドと言葉一つ交わすことがなかった。犬扱いされたこと。否定されなかったこと。少女の後を追って消えたレヴィン。自分と同じだと言ったアスレイド。いくつもの色が混ざって滲んだような赤い感情が腹の中をぐるぐる回っているけれど、どの話題を口にしたらよいのか分からない。
古ぼけた教壇の前で、白く光るアスレイドがそんなノインの胸の内を汲んだようにこちらに背を向けたまま口を開いた。
「異形を狩る者を、シュレインと言うのは聞いたことがあるかい」
ネルガルドの民は、異形を祓い狩る者達を、尊敬と畏怖を込めてシュレインと呼んだ。
夜明けを迎えたいなら抗えと誰かが言った。その声は大きなうねりを作りだし、いつしか異形と対峙しうる集団となりえたのだ。
異形は、人を屠る。生を赦さない圧倒的な力で、こちらのすべてを押し潰そうとその漆黒さでもって。これまで何度、黒い影の到来がないことを祈ってきただろう。あの夜もまた、夜明けには程遠い、夜明けを待つには長すぎる時間だった。
「僕の家、アルヴァリオ家は少し変わっていてね。宣託者であり、シュレインとして長く続いてきたんだ」
「あんたも、シュレインってことか」
しなやかな背中は身じろぎ一つ見せない。ノインの答えに満足したのだろう、そのままアスレイドはこちらを見ずに独白を続ける。
「異形は、中枢教区で精錬された、聖痕がある刃でないと狩ることができないんだ。覚えているかい、僕が君の目の前で狩った夜のこと」
ノインは目を伏せる。きっとアスレイドは、黒を断った道具のことを指しているのだと思う。両手より少し大きい、円環の投擲具。見慣れない刃は大地を照らす陽と同じ形をしていて、闇を散らすには確かにふさわしい形だと思ったのだ。それ以上に、忘れようと蓋をしていた無体の夜の記憶を無理やり引き出されて、ノインの身体の奥で燻りの兆しを感じた。忘れるわけがない、否、忘れた。忘れたかっただけだ。そんな様子を意に介さず、アスレイドは説明を続ける。
「だからさ、皆不思議なんだよ。君がね。君のダガーは、聖痕が刻まれていなかったというのに、異形を仕留めたろう。中央も慌てていたね、なんせ管理外のものだとしたら、それこそ騒ぎになる」
アスレイドの声は、どこまでも遠い。語り口は限りなく穏やかなものなのに、その心は傍にはない。
だからこそ、ノインは触れたくなかった一つの疑念に触れてしまう。アスレイドは、異形は聖痕なくしては狩れないと言った。そして、その聖痕は神の祝福によって施されたものであると。まさしく神の息吹が込められた聖なるものだ。しかし、自分が手にしていたのはなんだ。草の中を駆けていた頃、正しく血肉となる獲物を得るために使っていた何の変哲もないダガーだ。滑り止めとして柄の部分に巻かれた布は、血と汗を吸って変色していた。端はところどころほつれていて、そこに神の息吹などあるはずもない。
だからこそアスレイドはこう言っている。神の御許から既に外れているのではないかと。
確かに。幼馴染を手にかけた感触は未だに消え失せはしない。なんなら、同じように断たれるはずであった首はまだ繋がっている。ふとした時に肉を裂いた、泥の中へと掌を落とすような飲まれる感覚は、ノインが生を続ける限り否応なく頭をもたげてくる。目覚めの瞬間や、軒先の花を愛でている時でさえ、まるで天が気まぐれに与えるかのようにノインを苛むのだ。こんな苦しみを抱えて先へ生きろというのだろうか。
この男、アスレイドはそんな自分を赦すどころか、証一つ寄越してはくれない。これが異形でないというのなら、自分は一体何なのか。
自らの動悸の音だけがこだまする中、衣擦れの音が差し込んだ。アスレイドの白い外套は、貴族の証であり代々シュレインを拝するとりわけ高い聖性の証でもある。そしてノインは、そんな神のあり方を体現したような男を眺めるとふつふつとした奔流に身を砕かれるのだ。
腹の底で渦を巻いていた赤が、掌へと上がってくる。
俺が、俺が異形であるとしたら。この男は、俺を地に還すことができるだろう。もし、俺の掌が白を汚すことができるならば。
なら、俺は、まだ、終わっていない。
それは衝動か、哀願か。答えの出せないまま、ノインは無防備な背中に腕を伸ばした。ベストを鷲掴みに引き、いつまでも語らぬ背中を引き寄せ、無理やりこちらを向かせる。教壇に押し付けられた男は、反転した視界に動揺の色一つ見せず、涼し気な微笑を浮かべていた。その様子さえ、ノインの頭に血を昇らせるには十分すぎる。
「君は、まだ人の形をしているよ」
異形の兆しがどこにもないことを、僕は知っているけどねと、翠色が声もなく甘やかな記憶ごと貫いた。
怒りでこめかみがきりきりと痛む。澄んだ水面のようにどこまでも穏やかな声色に、いよいよ波紋を広げたいと願う。これ以上の会話は無用だと、ノインはアスレイドのズボンの前掛けに乱暴に指をかけた。蝋燭に照らされた身体はほんのりと橙色に色付き、この氷のような男が生きていることを生々しく照らしだす。その明るさは、この先に進んだら、お前はもう戻れないんだと温かく諭すような気がした。
長く伸びた足の付け根にある性器を掌で下から掬い上げると、熱を宿さない茎に五指を絡ませた。
「んっ……」
漏れ出た反応は、外的刺激を受けた故のものでそこに心はこもっていない。ふにふにと指の腹で感触を確かめていると、じきに幹に力が篭るのが分かる。神の視座ですべてを分かっているようなこの男を、なんとか地上に引きずり落としたい。ただその一心で、あの夜と同じように幹に沿って手首を上下に往復させる。
密着した体の頭上から零れる短い吐息は、確かに甘さを含んでいる。教壇の端に後ろ手をつき、与えられる快感に甘んじてみせるその態度も、ノインは気に食わない。もっと、もっと。この男を堕天させなければ。這いつくばり顔を土で汚し、その頭を踏みつけなければ。再び天に還ることのないように、翼を折り曲げてしまわなければ。
ふと、聖具店で支払いを済ませた際に割れ物だから別個で持ってほしいと店主に託されたものがあったことを思い出す。ノインのズボンのポケットにある硬い感触は、宣託を求める人々の頭上に注がれる聖油の入った小瓶であった。アスレイドの陰部を弄ぶ手は止めぬまま、空いている方でその小瓶を取り出すとコルク栓を爪先で弾く。天を向いた熱芯から手を離し、指先に垂らしたねとつく液体は、湿った音を立てて冷たく肌の上に乗った。
なんで俺はこんなことをしているんだ。俺は何をしようとしている?
膝でもたついていたズボンを踏むようにノインはアスレイドの両足の間に膝をつくと、湿った指先を臀部に回して左右に大きく開く。足の付け根の奥の奥。既に見る者もないだろう窄まりに、濡れた指先を押し当てた。
「―――っ、」
声にならない悲鳴で、漸くノインは胸に光が差すようであった。触れた瞬間に内部へと誘うように収縮した後孔に、ゆっくりと指を一本沈ませる。侵入者を排すべく締め付けた縁は、浸食の勢いにあっけなく負けを認めると飲み込むように指を食んだ。
アスレイドの体内はひどく熱い。まるで、俺の身体を焼き尽くそうと発火しているようだった。
その熱の根源を確かめたくて、ノインはもう片手の指を狭い孔に差し込むと、縁を両掌で押し広げた。
「ぁあっ……」
聖油で濡らした指先は、恐ろしいほどに冷たかったはずだ。けれどその指が奥へと沈むたびに、奥の柔らかい肉が、わずかに震えながら受け入れていく。何度か往復すると、ぬるりとした潤いが、むしろアスレイドの体の奥から滲み出してきているのがわかる。それよりも、辱しめを受け声を殺すアスレイドに、屈辱よりも何か、恍惚めいた色が滲んでいるのがたまらなく怖かった。
聖なる場所で、聖なる男が、聖なる油でもって穢されていく。聖浄な白が、黒い欲望に塗れて喘ぎ苦しむ。それでもなお、この男の足元に触れることはできないのなら。
だったら。だったら俺はもう、どこまでも穢してやる。
ノインは両指に力を込めて、聖油をまぶした指を、ぐ、と奥へ挿し込んだ瞬間、アスレイドの身体が、待ち焦がれていたものが現れたかのようにびくりと大きく跳ねた。
「――気持ちよさそうに、しやがって……」
それでも拒否の声を上げず細い喉を震わせながら、瞳が上を向いた。それを、ノインは肯定の表情と読み違える。アスレイドは声を漏らさない。苦しそうな息遣いと震える指先でさえ、それすら、ノインには快楽を堪えているようにしか見えなかった。
「ああ、そうかよ。もう知ってるんだな、こういうの」
目の前にあるアスレイドの陰茎の先端からこぽりと零れた雫が、ノインの頬を打った。祈りの場にとてもそぐわない、おぞましく艶めかしい姿にさえ感じる美しさにノインは怒りを覚える。
アスレイドの顔はまだ、痛みに耐えるように眉根を寄せていた。だがその口元は僅かに緩んで、まるで微笑みかけるようだった。
「っ……笑ってんじゃねえ」
静かな怒声が喉を突く。
違う。そんな顔するな。
そうやって、俺を赦すな。
赦すな。赦されたら、全部が嘘になる。
そんな顔をされると、何のために触れたのか、分からなくなるんだ。
誰かと交わったことはないけれど、動き方を知っている。その動きを模倣するように指を注挿させると、がくがくとアスレイドの太腿が揺れだした。
「ぁ、あ、っ、ん、んぅ、ん、っ、ふ」
長身が前のめりに腰を折れば、赤黒く濡れた幹がはしたなく涎を垂らす。散らされる先走りが顔に飛ぶ度に、ノインは口に含みたくなる衝動を抑えるのに必死だった。これを含めばどうなることくらい分かっている、分かっているからこそ含みたくない、含みたい。滴る液体で喉を湿らせたい。歯で削り取って、血の味がするまで責め立てたい。身悶える男のなけなしの生を、ここで暴き尽くしてやりたい。違う、その茎から滲む聖を飲み込んでしまいたい。
喉奥が疼く。涎が、舌の裏に薄く滲む。息が熱くて、目の奥が焼ける。
でもきっと、それをするのは今じゃないと、ノインの内で誰かが囁いた。
「だめ、だ、でる、でる、だめ」
いやいやとかぶりを振れば、金色の波が暗闇の中で跳ねる。終わりの兆候が見えて、ノインはもう一本、三本の指で受け入れることを悦ぶそこへとねじ込んだ。
「――ッ!」
限りなく静かな悲鳴だ。ノインの目の前で大きく膨らんだ亀頭から、押し出されるように白濁が零れる。それと同時に、最後の力を振り絞るように肛門がきゅうとひときわ大きく収縮した。その動きは、まだ行かないでくれと訴えるような、縋りつく肉の抱擁のようにも思えた。それを振り払って、ノインの指が引き抜かれる。ずるりと抜いた指は、まだかがり火を孕んだままだ。
アスレイドはまだ目を閉じていた。凌辱に耐えているのか、それともただ、何かを感じていたのか。その顔さえ、触れたいのに手の届かない美が輪郭に浮き出ているようだとノインは思った。
「……壊した、かった」
ノインがぽつりこぼすと、睫毛が微かに動いて、翠の瞳が光を湛えながらノインを射抜いた。
その輝きさえも、俺の身をひどく昂らせる。こんなことをしたかったんじゃないと、俺は俺を責める中、ズボンの中で息づく熱の芯が、呼応するように震えた。
「……壊れていたから、触れられたんだよ」
アスレイドは静かに笑う。それは悲しみでもなく赦しでもなく、祝福のような微笑だった。むしろ、期待のような何かが、そこに滲んでいた。ノインはその笑みに不意を衝かれて唇を噛む。夜はもう、終わろうとしている。おそらく、触れられたのは、俺の方じゃなかった。ノインは、何かが指の隙間からこぼれた気がして、思わず拳を握りしめる。欠片一つ落としたくなくて、終わってしまったと嘆きたくなかった。
だが、祈りが訪れるにはまだ少しだけ、闇が足りなかった。