四神の御手にて作られし魂が、その御座に還ることを心より願う
――――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ

第一話

 

四神の御手にて作られし魂が、その御座に還ることを心より願う
                ――――アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオ

 六つの柱に支えられた空間の中、俺は顔を上げることができないでいた。告解台より高いところで、複数の人が時折声を荒げて言い合っている。神に仕える者、奉神官達は自分達の業務を忘れているかのように、俺が犯した罪について互いの主張をぶつけあっていた。その響きは白い断罪の場の壁に跳ね返り、俺の頭上から降り注いでくるから、俺はますます顔を上げる気力を失っていく。鋭い音の雨に耳を塞ぎたいのに、苔色のケープの下で一くくりに腕を縛られている俺は、ただこの痛みを受け止めるしかない。今日の主役は俺であろうに、唾を吐きながら上げる怒声はちっとも俺の瞳を見ようとしない。
 ノイン・ハトレアはうなだれたまま、ただ時間が過ぎることに注力している。腰掛ける椅子もなく、ただこうして立ち続けてどの位経っただろう。しかし、ノインは自分がここにいることで余命いくばくもないことを自覚していた。ノインの犯した罪は生まれ育った草原の地の裁判官では裁けないことが分かると、世界の中心にある中枢教区から使いの者を呼びつけた。促されるまま歩かされ、見慣れた青草が踝の辺りも掠めなくなった頃、ノインの革靴は踏み慣れない白い石畳を踏んでいた。着いたぞという硬い声に顔を上げれば、日の光より白く輝く建物がそこにあった。高くそびえる神殿は、このネルガルドのどの地域でも罪を裁かれない者がたどり着く最期の場所だという。背丈以上に高い門には四神の像が、命の灯を眺めるように見下ろしている。この神々は、これまで一体何人の罪人をここに迎え入れてきたのだろう。
 あの夜、ノインが喉を裂いた異形の肉の感触は今でもはっきりと思い出せる。元々は同じ形をしていただろう同胞が、何らかの理由で身を黒く染め上げ襲い掛かってくる姿は、今でも思い出したくない。もしかしたら、どこかで酒を酌み交わした相手かもしれない。そんな可能性を否定できないほどに、差し込んだ刃はぬかるんで沈んでいった。
 それ以上に思い出したくない記憶が脳の最も深いところで明滅する。自分の背丈の二倍はある異形に組み伏せられた血まみれの幼馴染。切り裂かれた寝間着の隙間からは、赤く濡れた肉の裂け目が見えた。穴が開いた壁を背に、大きく開かれた両足の付け根に挟まるように、黒い塊が前後に揺れていた。虚空を見つめていた瞳が、心もとないダガーを手に現れたノインを捉えた後、裂かれた喉からごぼごぼと鮮血を滴らせながら何かを訴えるように唇を動かした。
 声にならない言葉が鼓膜を打った瞬間、大きく開いた瞳から、赤い涙が零れ落ちた。
 異形が同胞を増やすべく人の胎を使うことは、聞いたことがなかった訳ではない。それにより、被捕食者である人は、異形の揺り籠と成り果てる。籠の中に注がれた異物は名のない草が伸びるより早く成長し、胎を破り出るという。その運命は、何人も逃れられない悪夢だ。
 血まみれのノインを発見したのは、見知った地域の人々だった。耳がよい草原の民は、星明りの夜の空気を裂いて幼馴染の家からあがった悲鳴を聞きつけて集まってきたのだろう。血まみれのノインを見て誰もが息を飲んだ後、到底自分の教堂では裁ききれないと中枢教区に伝令を飛ばしたのだった。
 裁かれるためにわざわざ来たというのに、いつまで経っても己を断罪しない空間に辟易する。まるで四神がそれぞれの主張を挙げながら、行動に対しての問答を行っているようだ。ここには愛の神も、秩序の神も、記憶の神も、意思の神もいないというのに。奉神官は、まるで神の依り代のように答えの出ない罪のあり方を模索している。どちらにせよ、自分の首が飛ぶのには変わらない。それまでせいぜい余生に思いをはせるべく、ノインは瞳を閉じた。
「まあまあ、皆さん、一度落ち着きましょう」
 通った声は、雲間から差した一筋の光のようであった。凛とした響きがあれほど壁を傷めつけていた耳障りな音をぴたりと止めて、奉神官達の視線は声の主の方へ引き付けられる。それは、ノインもまた同様だった。
「彼の罪が裁けないというのなら、ここはひとつ。私の預かりにするのはいかがでしょう」
 一同の視線をものともせず、その男は続けた。すらりとした体躯は、葦のようである。軽く腕を振れば、癖の強い金髪は首筋を撫でる。丸い片眼鏡の奥に光る瞳は、晴天に手を伸ばすように伸びる若草の色をしていた。
肩から落とすように羽織った白い外套は、この建物と同じ、いやそれ以上に光を帯びて、ベストとズボンの夜の色をより強く映えさせている。遠目のきく草原の民であるノインには、そのコートに誂えられている金色の刺繍を見て取ることなど造作のないことであった。裾や袖口に施された厳かなそれは、伝統ある家系であることを物語っている。
「お言葉ですが、アルヴァリオ卿」
 奉神官の一人が、おずおずと声を絞り出す。アルヴァリオ、と呼ばれた青年は口角を柔らかくあげたままゆっくりと名を呼んだ方角へ首を捻った。
「この男は、既に斬首が決まった者です。アルヴァリオ卿のお手を煩わせずとも、こちらで」
「だったら、もっと早くやるべきではないのですか? あなた方は、その手を汚すことをひどく畏れているようにお見受けする」
 実際、ノインの首を落とすのは奉神官の責務ではない。防衛という名目で鍛えられた者たちがその刃を振るう対象は、何も異形だけではないのだ。
 ノインは、ここで初めて首筋に冷たいものがぴたりと当てられたようであった。それは、首を切り落とすことを宣言されたからではなく、頭上で雄弁に語る男の声によるものだ。その語りぶりはどこまでも柔らかく、そして研ぎ澄まされている。
「ですが、罪は」
「生きることが罪であれば、ふさわしい場所があるでしょう。この地を不浄で汚すこともないのでは?」
 再びの沈黙は、突かれたくない部分を指摘されたことによるものだろう。それ以上に、是も否も許されない空気が堂内を支配している。この男は、言葉一つで盤の目をすべてひっくり返してしまったのだ。
 そして、男は筋張った細い掌を広げ、自らの腹にあてて見せる。
「私は見ての通り、か弱き者故。異形を払える刃は多少荒い方が良いのです」
 どの口が。ノインは素直にそう思った。その仰々しい振る舞いさえ、言葉の切っ先を和らげるには力不足だ。
 漸く沈黙という名の肯定を受け取った男は、満足そうに一つ頷いた。モノクルの鎖が、天蓋から差し込む陽光を浴びて鈍く煌めく。
「……さて、ノイン・ハトレア。だったかな」
 手にした羊皮紙を捲りながら、確かめるように文字を追う。ノインは、その僅かな時間が恐ろしくて堪らなかった。今すぐにでも縛られた腕のまま逃げ出したいのに、視線の先は張り付いたように光源から逸らすことができない。紙に落とされていた男の視線がついと上げられると、この白い神殿の中、まるで一人きり誰かを求めるように喉を震わせた。
「我、宣託者アスレイド・シェルジュ・アルヴァリオの名において告ぐ。ノイン・ハトレア、四神の御心が満ちるその刻まで、我が教堂に仕えよ。そして、咎を贖え」
 閉廷を告げる、神の鐘が鳴り響く。その音は祝福のようであり、終わりのようでもあった。

 アスレイドでいい、と隣を歩く男は笑う。こうしてみると頭一つ分ほどしか違わない身長だというのに、まるで手の届かない存在であるかのような錯覚をしていた。傾きかけた日の下で、二人分の影は白い地面の上を這うように伸びていく。
 ここ、中枢教区はネルガルドの中心に位置し、創生四神の教えを世界に伝導する役割を与えられている。神に最も近い場所であることから、中枢教区にある神殿に連れられた罪人は、再び白畳を踏むことはない。だからこそ、今こうして革靴の下に硬い感触があるのは妙な感覚であった。
「僕もあそこに入るのは久しぶりだったよ。迷うほどの大きさではないのに、どこも同じ色なものだからどこにいるのか分からなくなる」
 そう言って一人笑うアスレイドの、冗談の線引きが分かるはずもないノインは黙って歩くしかない。神殿を模した断罪場から放射線状に、中枢教区の教えを更に広く大衆に説く教堂が並ぶ。どこもかしこも白く塗られ門前には決まって四神の像が置かれているから、この景色こそ迷いそうだと思った。
「ノイン君は、東の出身だったそうだね。夜目がきくだろう、助かるよ」
「……まあ、な」
 アスレイドの黒い靴が、影と一体化する。その声に揶揄する空気は含まれていないというのに、初めて声を聴いてからの違和感が拭えない。それは、罪深い自分という存在をなぜ掬い上げたのか、真意が分からないが故だ。この男の言葉に嘘偽りがないことは分かる。しかし、その心の底が見えない。影は、更に伸びていく。片眼鏡の奥から頭上に向けられる視線を感じて、心の臓を冷やすような寒気が足元から背中へと這い上がってくるように感じた。
「君の髪は、日に当たると赤く染まるのか。美しいね」
 赤、という言葉を聞いた瞬間、神経を逆撫でられたような感覚に陥った。網膜に焼き付いた、幼馴染の色が否応なく思い起こされて、喉の辺りが焼き付きそうに熱くなる。
 この男は、元々話したがりなのか。それとも、緊張をほぐそうと無理やり話題を紡いでいるのか。何もかもが分からなくなってノインがいよいよ制止の声を上げようとしたその時、ぴたりとアスレイドの靴が止まった。
 いつの間にか郊外に来ていたらしい。清廉の権化とも言える中枢から離れれば、僅かながら人が住まう地区がある。しかし選ばれない者を受け入れることを想定していないここは、零れた者達に容赦なかった。壁と壁の間は、幼子一人分しか隙間がない。土色に汚れたその間から、何かが腐った匂いが鼻を突いた。もう手遅れのそれをアスレイドの瞳はじっと捉えると、何事もなかったかのように歩みを進めた。まるで、玩具に興味を失くした幼子のような所作に、ノインの足が数歩遅れる。
「おい、あれ」
「致し方ないのだよ。異形化しなかったのは、せめてもの救いだ」
 金髪の隙間からのぞき見える口元は緩く微笑んだままだ。
 この世界は四つの神によって万物が創造され、その神の是とする思想から外れた者は「異形」と化す。異形と化した者は、その牙や爪で血肉を抉ろうと人に迫る。屠られて死ぬか、体液を注入されて死ぬか。どちらにせよ、人にとっての脅威である。
 中枢教区であっても、他の地域であっても、異形と対峙すべく神の御使いとなる者達がいるのを知っているけれど、彼らは幼馴染を、幼馴染の家族さえも救うことはできなかった。その結果が、今の自分だ。
 初めてノインは、自分から口を開いた。声を出すという行為が、まるで刃物で口腔を切り裂くように痛かった。それでも言葉が出たのは、目の前の男があまりに遠く、同時に恐ろしく近くにいたからだ。
「……なあ、良かったのかよ、これで」
「なにがだい?」
 アスレイドの声は、穏やかに鼓膜を揺るがす。まるで蛞蝓が耳の中を這うような温かさで。
「俺は、罪を犯した。それなのにまだ首が繋がってる」
「うん、よく見えるよ。首はまだ繋がってるね。つまり、そういうことだよ」
「……あんたの言ってること、よく分かんねえ」
 靴先は、いよいよ灰色がかった地面を踏んでいた。
「この中枢はね、神と、首の皮一枚で繋がってる。君と同じだよ」
 何か言いかけようとしたけれど、辺りの風景がすっかり変わっていることに気付く。中枢教区の象徴たる神殿はほど遠く。目の前に現れた教堂は白い世界の中に迷い込んだ異物そのものだった。形こそ教堂の形を成しているけれど、煤けた色の壁は今にも雨を降らせる雲の色をしていた。
「お疲れ様。ここが、僕の教堂だよ」
 木製の扉の先から見える景色が、更にノインの常識を打ち破る。
 神の教えを受け継ぐのが中枢教区であるなら、教堂はその教えを広める場所だ。つまり、教堂は中枢を、神の御座を模して造られることが常であった。白を基調にした装飾、地域によって異なる主神の象徴となるオブジェで装飾されている。教堂は教え導く場所であると同時にその区域に住まう人々に広く開放され、日常の一つであったものだ。
 ノインの出身は東の地である。そこは、四神の中でも特に意思の神が尊重されていた。だから、ノインの知っている教堂は、白を基調にしながらも灯や風を模した飾りつけがなされた場所という認識であった。
 しかし目前に広がる聖堂は白ではなく、黒色を混ぜた灰色の世界であった。また、郊外の外れとはいえ中枢教区内に関わらず、四神のどの姿も見ることはできない。分厚い教典も、高いところから大衆を見つめる像一つも見当たらなかった。
 せめてもと中央に置かれた木製の教壇に向かって、これまた年季の入った木製のベンチが半円を描くように並ぶ。アスレイドは、この台を前にして市民に神の教えを伝えているのだろうか。人を迎え入れる準備が整っていないような場所で、一体何を語るというのか。神殿とは真逆の、暗い聖堂の中で立つ姿は、まるで薄暗がりの中でか細く光る蝋燭のようだとノインは思った。
「これが、教堂かよ」
 悪態をついても、アスレイドの表情は眉一つ変わらない。
「ああ。神が居ないように見えるだろう? だが、君はもうここに立っている。神が居るかどうかなんて、見た目じゃ分からないってことさ」
 燭台に火を灯すと、締められた室内で殊更黒い色を孕んだ灰色が浮かび上がる。闇の中にあるアスレイドは、やはりその身を発光させているかのように見えた。というのも、天井に張り付いた灰のようなものが、主の帰還を喜ぶとともに、異分子を排除すべくノインの髪の上に落ちてきたからだ。
「……あんた、宣託者なんだろ。適当なんだな」
 元々頓着のない髪であるが、それでも灰かぶりになったつもりはない。日の光を失い黒くなった髪に乗っかった灰を落としながら、呆れたように言葉を投げる。宣託者は、中枢教区の教えを人々に伝える役割を担っているはずだ。これまでの人生で出会った宣託者の中でも、とびきり神の教えに背いているようである。
 アスレイドは答えず説教台の横にあるドアを開けてみせる。どうやら、普段はこの奥で生活しているらしい。扉をくぐり抜けてみると、重い色をした木材で作られた居室へと続いていた。最低限の物しか置いていない、生活感のない部屋は、中心に置かれたテーブルに二人分の椅子が誂えてある。座っても? と断れば柔らかい返事があった。
「白く塗りたくられた教堂の方が、神に近いと人は言うね。でも、それはただ、恐れてるだけなんじゃないかな?」
「はあ」
準備されたコップさえ、背格好の合わない不揃いのものだ。ここは西に近いから、美味しいよと注がれた水は確かに東では味わえない澄んだ味がした。 
「神が居ないと信じる勇気がないから、居るふりをしているだけさ」
「俺には、あんたの言ってることがさっぱり分からねえよ」
 ノインは、アスレイドを直視することができないでいる。初めて見た瞬間から、ノインの中では何かを畏れている。それがアスレイドの高貴さを象徴する身なりのせいか、それとも奉神官を黙らせた口ぶりからか。何か末恐ろしいものの気がして、まっすぐ見つめてはいけないような、そんな気にさせる。
「僕には、ノイン君の方がよっぽど神らしく見えるけどね」
 立ったまま、アスレイドはカップの縁に口付けながらとんでもない事を宣った。数時間前には断罪されていた自分が、よほど神らしいという。これ以上の冒涜はないだろう。
 何より恐ろしいのは、神をも畏れぬその口だ。この男は、本当に宣託者なのだろうか。それこそ異教の徒ではないのか。ノインからしてみれば、よほど異形らしいと思う。
「……とんでもねえとこに来ちまったよ」
 その畏怖を口にするのも憚られて、肩を竦めることしかできない。その様子を見て、アスレイドは満足そうに更に笑みを深く湛えた。腰かけた椅子は硬すぎて、草に覆われた大地が少しだけ懐かしく思った。

 腹を満たしきれない食事であったけれど、縄に繋がれていた時よりはましだと思う。来客用だと通された部屋は、やはりベッドしかない簡素な作りであった。今度こそ灰に遊ばれないようにと、今は遠い主神に祈りながらノインは思ったよりも柔らかい布に滑り込んだ。体温をゆっくり吸うその感触が、逆に心の隙間をあぶり出す。
 ようやく身体を横たえたことで、疲労感がどっと全身を襲う。考えてみれば、あの夜から神経は常に逆立っていて、命の灯が消えるのを黙って待つ日々だった。状況こそ好転しているとは言い難いが、それでも手を縛られずにいるだけ自由であるとも思う。
 それでも、瞼を閉じると思い出すのはあの色。赤と黒の、惨劇の夜。
 あの夜の記憶は、未だに耳に、目に、心に焼き付いたままだ。普段は遠く虫や獣の小さな息遣いを子守歌に寝入るのに、その日は違った。得体のしれない、聞いたことのない音だった。正体を探っている内に、知っている方角から物が激しく割れる音と悲鳴が上がった。
 それからはよく覚えていない。乱暴に引いた扉の向こう、視界を凝らしてみればまず目に入ったのはよく知った二人の姿。幼くして独り身となった自分を、まるで本当の子のように愛してくれた幼馴染の両親だった。腹を、頭を、横かぶりで抉られて鉄の香りが充満している室内の中で、幼馴染は正に命の灯が消えるところであった。
 嫌な色を思い出したくなくて、微かな記憶を探る。柔らかい亜麻色の髪に花冠を携え、ノインを呼ぶ声。朗らかに笑う顔は、太陽のようだと何度も思った。小さな頃はなにも意識しなかった二人の身体に、徐々に性差が見て取れるようになった頃、ノインは幼馴染の名を呼ぶことに勇気が必要になっていた。そして、そんな様子を見てやはり幼馴染が笑うのだ。あれだけ、眩しくて、でも何回も見ていたくて、瞼に焼き付けたというのに。
 ああ、ずっとこんな生活が続くのだと思っていたのに。意思の神に祝福され、未来を誓う二人を想像したのも一度や二度ではない。目の前の存在を慈しみ、子孫を残していくんだとぼんやり思っていたのに。今では、あの大きな瞳を濡らした赤い涙しか思い出せなくなってしまった。
 感傷的なのも、こうして身を落ち着かせられるようになったからだろう。記憶が呼び起こされるのは、この場所が中枢教区でも西側の外れ、記憶の神を重んじる西に近いからだろうか。だとしたらとんだ拷問だ。アスレイドが自分の教堂で見ると言った理由も頷ける。まとわりつく記憶を払おうと寝返りを打った時、草の民の耳はその微かな声を聞き逃さなかった。それは言葉というにはあまりに不明瞭で、風が泣いたような、誰かが息を呑んだような、そんな曖昧な音だった。
 アスレイドはいい夢を、と言って自室に消えた。そのか細い音は、アスレイドの部屋の方から聞こえたのだ。 
 ノインの記憶で、幼馴染の悲鳴がこだまする。あの日救えなかった刃を、もう一度振るうことは赦されるのだろうか。ベッドを飛び出す瞬間、ノインの中にあった神の御声を待てという信託が、音もなく消えた。今の彼を突き動かすのは、ただ記憶と、疼く本能だけだった。
「おい、どうした!」
 ノックも忘れ、乱暴に彼の部屋の扉を押し開く。目に飛び込んだのは、ベッドの上で横たわるアスレイドの胸元に、墨を垂らしたような、どこにも焦点を結ばない影が這い寄っている姿であった。ああ、やはり。あの夜と同じか。胸の奥で、あの夜と同じ場所がひどく疼いた。しかしあの時と異なるのは、アスレイドの身体は何かを我慢するかのように小さく身じろいでいることだ。
「……んっ」
 そして、ノインの鼓膜を叩いた声はひどく甘たるいものである。まるで、触れてほしいのを自分から言い出せない生娘のような、そんな恥じらいを秘めた声。墨色の隙間から覗く太腿が、シーツの波を蹴って深く皺を刻む。その様子に、ノインは心の臓を掴まれたように身動き一つとれなくなってしまう。
「ん、ぁ……」
 転がりこんだ嬌声は、アスレイドのもので間違いない。肌は薄っすらと赤みがかり、か細い声の隙間を縫う吐息は切なくて考えることを止めさせる。それでも、なんとか機能する脳がこれは、夢を食らう異形だ、と認識した。
 次の瞬間、形の定まらなかった墨が音もなく姿を象りはじめる。それは、人の形によく似ていた。それでも異なるのは、こちらに見せている背中だろう部分から、左右に大きく広がる何かが伸びていることだ。それは、羽のようだった。
 異形が形を成す瞬間を目の当たりにするのは初めてだ。そして、あの夜の熱が全身を粟立たせる。
「は、……ッ」
 ぴくんと、布の皺がうねりアスレイドの身体が波打つ水面のように跳ねた。と同時に、ノインは身体の奥が燃えるような感覚に陥った。
 目の前で組み敷かれているのは、今日会ったばかりの同性だと言うのに。得体のしれない者だというのに、その身じろぎから目が離せない。視線は身体のうねり一つも零さず、掠れる喘ぎを鼓膜が逃さない。ひどく寒い部屋の中だというのに、自分の周りだけ体温が蒸発したかのように熱くて堪らない。
 それでも、ノインはあの夜を繰り返すことを望んでいない。赤と黒に飲まれたい訳ではない。ダガーの柄の感触はなくとも、背中から拳を横殴ろうとしたその時、異形の、もしそれが人なら首と呼ばれる部分に、鋭い風が走った。風が止むのと同じくして、黒い首と体とが左右にずれた。
 声にならない断末魔が、びりびりと聴覚を揺るがす。異形は無くなった首元をかきむしる様に両の爪で宙を裂きながら霧のようにその身を霧散させた。黒い霧が夜の闇に溶け込むように消えるのを見届け、もう一度ベッドに視線を投げると、そこには掌より大きい円輪を手にしたアスレイドが上半身を起こしている姿があった。
「どこからかついてきたのかね、寝込みを襲うなんてはしたない真似をしてくれる」
 そういった彼の身体は、昼間とまったく変わらない光を放っていた。それでも、寝間着から覗く肌は上気し、異形に精を吸われていた最中であったことが見て取れる。神聖を身にまとった男の、見てはいけない部分を見てしまったようで、ノインは一刻も早くこの場から立ち去らないといけないと分かっている。それなのに。
「……胎を使うつもりだったかな。僕もなめられたものだ」
 その独白は、まるで自分以外誰もこの部屋にいないかのようなものであった。その冷たさもまた、昂ったノインの細胞を下から上へと優しくゆっくり撫で上げる。
 否、気付いている。この男は、自室にいる闖入者を。そして、その者を苛むある兆しがあることも。
 だから、アスレイドの翠色の瞳は、ひどく淫らな輝きを湛えながらこちらに投げられたのだ。
 細い指先から円環が離れ、小さな金属音を立てながら地に落ちた。
「なりたての異形とはいえ……ね。少しばかり昂らせるには、十分だったらしい。ねえ、ノイン君。……鎮めてくれないかい」
 ノインは、その言葉の意味が咀嚼できない。だからこそ、身体が勝手に動くのを瀬戸際の理性で押しとどめることができた。それでも言葉が孕む誘惑に、ノインの下腹部は痛いくらい張りつめて衣服の下から大きくその形を成していく。
 目前の男、ベッドの上で淫靡に笑みを浮かべる姿は、生殖を目的としない接触に抵抗はないのだろうか。ノインには、既に親と呼ぶ存在はこの世にない。しかし、親が、その前のまた親が、長く子孫を残すべくそういう行為をしてきたことは知っている。だからこそ、先のない、かといって情欲を慈しみ合うこともない行為への誘いに、唾棄することができない。
 黒と赤の残像が、何度も何度も網膜の裏側で明滅する。
「……なん、で」
 絞り出した声が掠れていたのは、動揺か、はたまた昂ぶりか。いよいよ闇に慣れた眼は、アスレイドの痩躯をしっかりと捉える。モノクルのない瞳の奥から、見えない腕が背に回るように伸ばされたような気がした。
「君は、まだ選べる。自分の意思でね。許されたいのか、壊したいのか。……それを決めるのは、君だよ」
 それは夢魔よりよほど淫らで、よほど人間的な囁きだった。
 ゆっくりと、ノインの足が板床を踏む。一歩、また一歩と近付くたびに、アスレイドという花に惑わされる蟲のように。心臓が大きく波打って、鼓動が一つ轟くのと同時に、ノインの中で最も直視したくなかった感覚が引きずり出される。
 あの夜。黒と赤に塗れたあの夜。
「あんた、神を、汚す気か」
 膝を折れば、もう戻ることはできない位置に来てしまった。闇の中で輝く翠が、ノインの青い瞳の奥にあるその色を静かに撫で上げた。ああ、もう。身体の奥、自分でも触れられない奥の奥。痛くて堪らなくて、出口を求めて泣いていた。
 畏れていたはずだった。けれど、あの黒と赤の濁流に、俺の奥底に巣食う何かは甘く、静かに締め上げられる悦びに、喘いでいた。
「いいや。君が、神を作るんだ」
 ノインは、神に背を向け、神を創るために。ただアスレイドの上に倒れこんだ。
 胸は熱く湿った空気で満たされていて、一刻も早く吐き出さなければいけないことは分かっている。それなのに、落ち着かない呼吸のたびに身体の疼きが激しくなる。見下ろしたアスレイドは、会ったばかりの同性に組み敷かれているというのに戸惑う素振り一つも見せない。その余裕という仮面の下にある心に爪を立てたくて、鎖骨に鼻先を埋めた。
「……っ」
 アスレイドから立ち上る香りは、草原で嗅いだどの花にも似ていない。だけれど、鼻孔をくすぐる芳香は、ノインという存在だけを目標に定めて誘うようだった。その香りは、どの花でもなく、どの血でもなく、名を持たない神の香りだ。胸いっぱいに吸い上げたくてはしたなく息を吸い込むと、胸でつっかえていた熱が漸く体外へと排出されるような気分になった。
 薄い衣ごしに感じる他者の体温は、熱くて冷たい。同時に、細い細いと思っていたアスレイドの体躯は、しなやかな筋肉を纏っていることに気付く。
「っ!」
 腰の下でたるんでいた裾を手にかけようとしたとき、ノインは息を飲んだ。ノインがするより先に、アスレイドの掌が身体の中心部、最も熱を孕んだそこを象るように撫でたからだ。全身の血液を集合させたように血管を浮き立たせたそこは、初めての他者による施しに戸惑ったように大きく揺れた。
「、そこ、あっ」
「……失礼、だったかな?」
 詫びを探るような言葉とは裏腹に、アスレイドの瞳が歪む。その視線が、触れる感触以上にノインの奥を撫でていく。整えられた爪先が、隆起した血の通り道を辿る。まるで神経を直接愛撫されるようだった。
「くそ……っ!」
 掌で中心を包まれたまま、ノインは舌を伸ばしてアスレイドの汗を舐め上げる。筋肉の流れを、骨の形をなぞるように舌を這わせば、耳の下までうねる金糸がシーツの海にたゆたった。
 その間も、アスレイドの指は杭の幹に絡んだまま、何かを急かすように上下に忙しなく動き続ける。自分では制御できない、他人にの都合による圧も早さも、何もかもがたまらない。
 しかし、それ以上に堪らないのは。
「ぁあ、あ、あ」
 ノインの喉から塞ぎきれない歓喜の声が上がる。いやいやとかぶりを振れば、ぱさついた髪が肌を叩いた。腰のあたりが重しを乗せられたように重くなるのと同時に、快感が何かを引き連れてやってくる。
 ああ、ああ、堪らない。
 アスレイドはその様子を見ながら愉しそうに口角を上げる。しかし、彼の呼吸も何かに耐えるように荒れていた。
 いよいよ解放の予感がしたのと同時に、ノインの体内で何かが静かに、声にならない咆哮を上げた。
「―――ッ!」
 アスレイドの喉が、小さい悲鳴を吐き出して震える。寄る辺なくシーツの上に添えられていたノインの指先が、胸元に深く爪立てられ、突き刺される痛みで声にならない音が声帯を震わせた。硬い指先が薄い皮膚を破いて、血の匂いがする。昂ぶりを弄んでいた指が、波引くように離れていく。顰められた表情は、笑っていた。
 触れた肌は柔らかくて燃えるように熱いくせに、ひどく冷たい。
 この男の肌に指を這わせるたびに、自分が試されている気がして、たまらなく苛立つ。
 だったら、壊してやればいい。笑わないでいられないように、声が出るまで突き崩してやればいい。この時のノインには、もはや躊躇という感情すら残されていなかった。
「は、あ……っ」
 それまでの、鈴の音のような声ではなく、大きくアスレイドが嘶いた。血が滲んだ部分を舐めとるように、ノインの舌先が躍る。傷口を広げるように踊られて、一際大きくベッドが軋んだ。痛みに悶えるその身さえ、赦すように、あるいは、自らに罅が入る瞬間を楽しむかのように見えた。
 鉄の味を感じながら、ノインは無自覚に昂ぶる。吐き気すら覚えるような興奮が、喉を焼いていた。
 あの夜の記憶がちかちかと記憶を焼く。あんなことを繰り返したいんじゃない。あんなことを見たいんじゃない。それなのに。
「ノイン、くん……っ」
 アスレイドが迎え入れるように大きく足を広げる。その付け根には、同じように頭を擡げる熱芯の形が覗いた。
 あんなこと、あれに似た何かでないと、俺はもう、生きていけない。
「はぁ、あっ」
 ノインは、アスレイドの足の間に身体を滑り込ますと、寝間着の裾を大きくたくしあげて顎先で挟んだ。露わになった怒張を自らの手で上下に擦りながら、アスレイドの衣服も大きく腹へ捲りあげる。そこには、真っ直ぐ勃ち上がったものが、音もなく泣いていた。
 先端の括れに重ね合わせ、二本の怒張を一緒に扱く。互いの先走りが茎をしっとりと湿らせて濡れる度に、その速度が上がっていく。
「ん、んん、っん、ぁ、あ、はっ」
「あ、ああ、ぁ、ん、でる、でる……っ」
 夜の闇に蕩ける声は、もうどちらのものかも分からない。解放を願う熱が尿道をせり上がり、白濁を吐き出した瞬間、ノインの茎は自分のものではない白色に汚されていた。

 伸ばした腕が、柔らかい布の上で滑る。窓から差し込む朝日は、重い瞼をこじあけるのに十分すぎた。格子窓の向こうから聞こえる鳥のさえずりが、帰ることのない東を思い起こさせてひどく懐かくなった。
「ん……」
 うつ伏せで寝入っていたのだろう。圧迫されていた腹が少しだけ苦しい。この倦怠感は、覚えたての一人遊びに耽った明け方を思わせた。そうだ。自分は昨日、得体のしれない男に拾われて、この灰色の教堂に連れられ、そして。
 肉を破った感触がまざまざと思い起されて、ノインはさあと顔を青くする。なんということをしてしまったのだ。本来であれば、身の危険が及ばない場所を差し出した男に、とんでもないことをしてしまった。そして、このベッドは来客用として案内された部屋のものではなかった。慌てて上半身を起こし、辺りを見回してみても陽光に照らされた部屋の中自分一人。光は、汚れた自分を浄化するように静かに息づいていた。だが、その光は、昨夜を無かったことにはしない。むしろ限りなく照らして、影を濃く残すように焼き付けようとする。
「おや、起きたかい」
 いよいよどうしようもなくなったところで、入り口のドアが微かな音を上げながら開く。弾かれるように振り返れば、昨日見たままの黒いベストとズボンに身を包んだアスレイドがこちらを見て微笑んだ。一瞬、その翠色の瞳と視線が絡んだけれど、ノインは堪らずに男の姿から目を逸らす。鮮烈に蘇る昨夜の情事の艶やかさに、到底耐えきれなかった。
「おや、僕の布団は寝心地がよくなかったかい」
 言葉こそこちらを労わるものだというのに、その声色は初めての玩具を手に入れた子どものように無邪気で。真っすぐ見てしまえば、思い出してしまうから。そのスーツの下の肌の色を、柔らかさを。爪を立てた瞬間の歓びを。
「いや……」
 否定の言葉一つ零すのが精いっぱいで、ノインは居場所なく背を丸めてしまう。その様子さえも愉しくて仕方ないといった様子で、アスレイドの口角がまた少し上がったのを見落とさないくらいは、まだ意思の地の子であった。
「よかった。近所の人から美味しい卵とミルクをいただいたんだ。食べよう」
 くるり身を翻したその背中さえ、牙を立ててしまいたいと思うくらいには罪深い。
 とんでもないところに、とんでもない男に囲われてしまったのだと、今更ながらにノインは自らの運命を嘆いた。

第二話 →